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インプロ

ぼく…思うんですよね……。

気がつけば、口から出ていた。

ママは焼酎を補充する手を止め、片方の眉を上げる。

「また出たわ、哲学者」

カウンター十席ほどの小さなバー。

二階に上がる細い階段の下は、夏の終わりの湿気を含んだ夜風がまとわりついていた。


バイト帰りのぼくは、さっきまで立っていたドトールの白いシャツの上にパーカー。

マニュアル通りにコーヒーを淹れ、同じように折りたたまれた笑顔をお客に配る。

あそこは均質な世界だった。

接客用語も音楽も、温度も香りも、すべて調整された「正解」で埋め尽くされている。

けれど、この二階にあるバーはまったく違った。


カウンター中央の鍋からは、出汁の匂いが立ち上る。名物のおでん。

牛すじ、大根、卵、厚揚げ。グツグツと煮立つ音はBGM、白い湯気は舞台照明。

隣の席のサラリーマンが煙草に火をつける。

観光で迷い込んだ学生風のカップルはメニューも見ずに梅酒を頼む。

十人いれば十通りの役割が生まれる。ここでは「無色透明」ではいられない。


「人生って、映画館の座席みたいに、どれを選んでも尻は痛いんじゃないかって」

言葉を続けると、ママがくすりと笑った。

常連の中年客が串からしらたきをすする音と同時に、「じゃあ立ち見はどうなんだ?」と突っ込む。

場がどっと笑いに包まれる。僕が言いたかったことよりも、そのタイミングそのものが“芝居”として機能していた。


思えば、ここには「強制的なキャスティング」がある。

客は登場人物、ただ座っているだけで役が割り当てられる。

ママは演出家、目線とひと言で芝居の流れを操る。

無口な中年は「謎めいた旅人」になり、笑い上戸の女性は「魅惑のトリックスター」になる。

今日のぼくは「悩める哲学者」。

それは不自由だが、同時に心地よい。

自分で役を選ばなくていい。

バイトでは「常に笑顔の店員」を演じさせられるけれど、この場所では役が夜ごとに変わり、物語が生まれる。


小さな扇風機がカタカタと回り、外から入り込む夜風が湯気を揺らす。

夏の終わり、蝉の声が弱まり、秋を告げる虫の声が聞こえる。

それでも二階のこの空間は熱気に包まれ、季節の境界線を溶かしてしまう。


おでん鍋の匂いに、他人の笑い声や煙草の匂いが混じる。

バイト先では決して許されない雑多さだ。

そして僕は思う。

この二階のバーは、酒屋ではなく人屋だ。

酒を売っているのではない。人間同士が“上映”される場を提供しているのだ。

夏の終わりの湿った夜気と、鍋から立ちのぼる出汁の匂い、そのすべてが「上映作品」の一部だ。

けれど、この雑多さこそが「人屋」の真骨頂。

酒を売るのではなく、人と人を出汁にして、夜ごとの即興劇を煮込んでいる。


ママが大根を一切れ、僕の皿にそっと置いた。

「哲学者さん、これで幕引きね」

湯気に包まれながら口に運ぶと、舌に熱がしみわたる。

マニュアルには決して載っていない、汗と笑いと塩気の味。

その瞬間、この夜のエンドロールが始まった。

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