第6節 『揺れる光、近づく影』
【紹介文】
オゴっちの色が、いつもと違う。
胸の奥で、言葉にならない違和感が広がっていく。
幼なじみ・蓮との再会。
信じるべきは誰か。
“当たり前”が崩れたとき、人はどこへ向かうのか。
光と闇の境界が揺れ始める──
第6節
『揺れる光、近づく影』
「んじゃオゴっち、おれはそろそろ仕事に行くから留守番頼んだ」
忘れ物はなかったかと頭の中で整理する。
今朝オゴっちが提案してくれた朝食メニューの目玉焼きと野菜ジュースが、紬の胃を軽く刺激する。
オゴっちに言わせれば食べるのが早いのだそうだ。
まるで母親の様だと呆れにも似た優しい感情が紬を包みこんだ。
『了解。行ってらっしゃいツムギ』
藤色の光を点滅させながら、低い振動を鳴らすオゴっち。
最近は色だけではなく、表情の様な輪郭を作るようになっていた。
言うなれば顔文字の様なもの。
どんどん変わっていくオゴっちに対し、紬は驚くことはほとんど無くなっていた。
「さっきから何してるんだ?」
ネクタイを鏡でチェックしながら、紬は疑問を口にする。
低い振動を起こす時はオゴっちが何かを検索している時が多い。
特に何か頼んだつもりもなかったはずだと思考を巡らせながら、ふと何気なく部屋のガジュマルに目をやった。
あれ?──
今の流れって前にもあったような…
妙な感覚に襲われる紬。
ふと目の端に何かを捉えた。
部屋の窓に置かれたガジュマルの葉が微かに揺れている。
ん?
窓は閉まってるはず…
目の錯覚かと何度か瞬きをする紬。
頭を傾けながら窓の鍵を確かめに向かう。
昨夜は確かに月が綺麗で、窓を開け暫し物思いにふけっていた。
閉め忘れか…?
そんなことを考えていると、オゴっちが微笑みを浮かべながら話し始めた。
『コネクティングしてるんだよ。ちょっと気になることがあってね』
「気になることって?」
自発的に思考することなんて初めてじゃないかと、紬は横目にオゴっちを見る。
『ツムギ達人類で言うところの仲間のことがちょっとね』
ひよこの様な柔らかい光を放っていた。
「へぇ~あ、やべ!」
気になることはあるが、今は会社に行かなければと、鞄を背負いオゴっちに声を掛ける。
「続きは帰ってからな!」
扉の向こう、朝日を背にした紬がニヤリとした顔をオゴっちに向ける。
乾いた扉の錆が一瞬響き、今日という日の2人を分けた。
静けさが部屋を覆い始めると同時に、オゴっちは振動を納める。
『歪みが、強くなってる…』
部屋を鈍色、濃紺、水色の光が明滅する。
○
朝の光が、ガラスの外壁に淡く都市の縁をなぞるように射していた。
紬は立ち止まり、目の前にそびえる塔を見上げた。
THALIEL Inc.──
空を削るような鋭角のビル。その左上、60階にかすれるように社名が浮かんでいる。
白地に細身の銀文字。遠目には、それが祈りのような記号にすら見えた。
スーツの袖口に、わずかに冷えた朝の風が触れた。
ビルは、正面から見ると細長い長方形をしている。だが、斜めに立つとその姿は変わる。
外壁はガラス張りだが、光を内に閉じ込めるような処理がされていて、反射が静かだ。
まるで、見せないことを選んだ宝石のようだった。
正面左手には立体的な企業ロゴの入った低層のプレート看板があり、そこだけが人間の目線に合わせられている。
無言の選別。
誰がここに入るのか、誰が通り過ぎるのか。
今日も、ここでは誰かの声を拾い、整え、繋いでいく。
けれどその声が、この建物のどこかに残っている実感はない。
提案書の片隅の付箋、会議中のメモ、空気を和らげる一言──
どれも“役に立った”と言われるだけで、名前は残らない。
紬の少し後ろ、サラリーマン風の男がビルを見上げていた。
目を細めて、60階の社名を確認しているらしい。
紬は、肺の奥に沈んでいた言葉を、そっと空気に溶かすように吐き出した。
「……着いちゃったよ~」
──ここを目指す人間と、ただ通り過ぎる自分。
紬はそんな風に思ったが、すぐに自嘲気味に口角を歪めた。
ガラスに映った自分は、いつもより少しだけ眠たげで、自分の顔を見ているのに、どこか他人のようで、まるで今日という一日に、もう折れてしまっているみたいだった。
紬は小さく笑って、足を踏み出す。
塔の入口が、無音のまま開いた。
紬が自動ドアに吸い込まれていったのを確認すると、紬の後ろにいた男はひとつ息を吐いた。
視線はまだ上階を捉えていたが、その奥では、すでに別の動きが始まっていた。
スーツのポケットからスマホを取り出し、静かに画面をタップする。
男は漏れ出るコール音を手元から感じると、耳に当てた。
「……今、入りました、はい…写真の男です。例の件は…はい」
声は低く抑え、事務的に話すと男はスマホをポケットに滑らせた。
一拍の沈黙ののち、男は再びビルを見上げた。
60階──THALIEL Inc.の社名の下、空はやけに青く澄んでいた。
○
54階オフィス──
自分のデスクがあるオフィス、54階にあるそのスペースの一角が、この会社での居場所。
24時間の約3分の2を毎日ここで過ごしている。
オフィスは55、56階とあるが、優秀な人ほど上階に行けるというあからさまなシステム。
オフィスへと繋がる厳重な扉にカードキーを認証させ、階層の1番下の扉を今日も浮かない面持ちでゆっくりと開けた。
紬がデスクに鞄を置いて間もなく、薄く広がるフロアに、一つの影が重なる──
⸻
「……遅い」
コピー機の前にに立っていた男が、紬がオフィスに入るなり声を掛ける。
端正な横顔。
整ったラインのスーツ。
だけどその目元はどこか無愛想で、目が合いそうで合わない。
紬の幼なじみの九条 蓮がそこに居た。
「お、おはよう、蓮」
「……ああ」
紬が軽く手を上げると、彼は一瞬だけ視線をよこし、それからまたコピー機のランプを見つめる。
「今日のプレゼン、俺も一緒にやろうか?」
「えっ!?、なんで? 蓮はあの案件関係ないだろ」
「……お前、説明苦手だろ」
「…」
余計なお世話だと声に出掛けたが、すんでのところで飲み込む。
冗談であると分かっているが、的を射たその言葉に返す言葉が見つからない。
紬が眉をひそめると、蓮はかすかに口角を上げて──それでも笑いにはならないまま、コピー機から吐き出される資料の束を無言で見つめている。
紬は小さく肩をすくめ、でもどこかで安心している自分に気づく。
──説明はいらないのだろう。
何も言わずとも通じる、それだけの時間を過ごしてきたとあらためて実感せざるを得なかった。
意図せず誰に向けるでもない苦笑いがこぼれた。
──子供の頃から変わらない。
あいつはいつも、肝心な時だけ、ちゃんとそこにいる。
九條 蓮とは中学からの付き合いだ。
腐れ縁といえばそうなのだが、紬にとっては、ふとした時に目を向けてくれる数少ない存在でもあった。
無愛想で、人付き合いも不器用。それでも肝心な時は、いつも黙って隣に立っていてくれる、そんなやつだ。
「早く自分んとこ戻れよぉ。通るよぉ」
紬の口元に浮かんだのは、苦笑とも照れ笑いともつかない表情。
気付かれたくないものが溢れそうになって、慌てて飲み込むように、咳払いひとつしてごまかした。
「終われば戻る」
蓮は資料を1枚ヒラヒラとなびかせた。
紬が蓮の後ろを通ると、何かあれば教えてくれと紬の背中に投げかけた。
紬はヒラヒラと手だけを振り返し、
自分のデスクにたどり着く。
元は真っ白なキャンパスの様なデスクは、今となっては資料の山で埋め尽くされていた。
またも込み上げるため息。
誰かが追加の資料を置いたのだと分かったのは、貼り付けられた付箋から読み取れた。
背後から軽いヒール音と共に、甘ったるい色声が紬の鼓膜を刺激した。
「おはようございます~、綾守さぁん♪」
野狐 燐華。
外資系モデル顔負けのスタイルに、赤みがかった巻き髪がよく似合う。
彼女は2年後輩で、入社した頃は髪をひとつに束ねた、どこか地味な印象の女性だった。
2年も経つと、こうも人は変わるものなのかと、野狐を見てあらためて思う。
──みんな同じAE、営業補佐のはずなのに、おれも蓮も彼女も、それぞれ強烈な個性を持つ連中ばかりの部署だ。
野狐のニコニコと無邪気に笑うその目には、いつもどこか暗いものを感じる。
本人に自覚があろうが無かろうが、いつも元気だなと紬は笑みを返す。
「あれ、また昨日ギリギリまで残ってました? 顔、ちょっと死んでますよ~?」
「……おはよう。そう見える?」
「見える見える~。うちの部署の人って、何かと無駄に頑張っちゃうタイプ多いですよね? あ、でも蓮さんは別かな~。冷静っていうか、ちゃんと自分の線引いてるっていうか」
燐華は悪びれもせず、ケラケラ笑う。
紬は少しだけ眉を寄せるが、言い返す気力もない。
そのとき、すっと通路を挟んだ向こうから声が届いた。
「紬、さっきの書類の追加案だ。一応渡しておく。
野狐、火間部長がミーティングルームのセッティングで忙しそうにしてるみたいだ。野狐は接続とか得意だろ。君が行けば部長も喜ぶんじゃないか?」
蓮が、コピー用紙を手にしながら歩いてきて、紬に渡しながら話す。
スーツの襟元も乱れなく、ただその目元だけが、燐華を正面から射抜いている。
紬は蓮に頼んでないと言いかけたところで
紬の言葉に被せるように燐華は続ける。
「ホントですかぁ~? それは行かなきゃですね~♪」
活発な声に乗せ、燐華は唇を光らせた。
「九條さんも、何か困ったことがあれば声掛けてくださいね~♪わたし出来る子なんで♪♪あ、それと綾守さん、プレゼン頑張ってくださいね♪わたしも近くで拝見させていただきます♪」
くるりと踵を返し、ヒール音と共に彼女はエレベーターへと消えていく。
紬は小さくため息をついた。
「……ありがと。助かったよ」
素直になれない気持ちを何とか捻り出す。
蓮は特に何も答えず、無言でコピー用紙を持ったまま紬の横を通り過ぎた。
けれどそのすれ違いざま、ほんの一言だけ置いていった。
「……野狐の言う通り、おまえ良い顔してるぞ。あとでコーヒーでも腹に入れとけ」
紬は思わず苦笑する。
──まったく、いつもそうだ。
口数は少ないくせに、言うべきことだけはちゃんと届いてくる。
「ちゃんと寝てるけどね!」
本当は眠れていないことすら、蓮にはお見通しなのかと嬉しくも複雑な気持ちが浮かんでは消えた。
“ありがとう”と蓮の背中に向かってそっと呟いた。
○
──会議室、午前10時。
テーブルに広げられた資料と、背後のホワイトボード。
その隙間を縫うようにオフィスコーヒーの香りがわずかに漂っていた。
壁際に設置されたプロジェクターが静かに駆動音を立て、室内の照明が少しだけ落とされる。
画面に映っているのは、試作段階のAIユーザーインターフェース。
声と視線の入力を組み合わせたインタラクションが、実際の使用映像として再生されている。
部長の火間を中心に両サイドの席には蓮と野狐の姿も確認できる。
窓側の席には、クリエイティブチームのアカウントマネージャーである津川と、デザイン担当のアカウントマネージャー藤居の姿もあった。
会議室の天井灯が鈍く光る中、紬は、胸元に張りついた名札をそっと触った。
このプロジェクトは、タリエル社内の次世代UX開発チーム向けの提案レビュー。
本来なら同じグループの先輩AEがメインで進行するはずだったが、急な体調不良で抜けることに。
代役として、紬が「提案の“体験価値”部分だけを話す」ということになった。
社内では異例のことだった。
AEの補佐が会議の中心となって話を進めるなど、滅多にない。
ただ、今回の案──AIデバイスによるユーザーの“感情誘導体験”──は、もともと紬が現場での調査やヒアリングから拾い上げた発見をもとに形作られたものだった。
その意味では、自分の言葉で話せる機会でもあった。
会議が始まってしばらく、ミーティングルームには資料のめくれる音と、天井のプロジェクターが放つ静かな駆動音だけが響いていた。
火間の進行のもと、定例案件の報告が淡々と進んでいく。
紬は配られた資料を手に、胸元で小さく深呼吸した。
──今日は、言葉じゃなく、体感で伝えたい。
社内用に準備したプレゼン資料の下敷きには、自分が実際にユーザーに会って感じたこと、拾った感情の粒がぎゅっと詰まっている。
それが、このプロジェクトを通して彼がずっと伝えたかったことだった。
「じゃあ、綾守。例の件の提案の説明を頼む」
火間の声に促され、紬は立ち上がった。
紬は手元の端末を操作し、プロジェクターの画面を切り替えた。
照明が少し落とされ、空間の中央に、淡い光が浮かぶ。
そこには、仮想空間の簡易ビジュアルと、インターフェースに触れる人物のシルエットが投影されていた。
「……今回、僕が提案したいのは、AIを“答える装置”から“問い返す装置”として再定義する、という方向性です。
…これは3年前に流行したOG-00β。今回はそれを使ったUXの一例です」
…ただ、ここで見てほしいのは機能ではありません。
この体験を通じて“ユーザーがどう変わるか”です」
シルエットの人物が、投影された小さなAIに向かって話しかける。
AIは言葉を理解し、問い返し、やがてユーザーの表情が少しずつ変わっていく──
「──つまり、これは単なるガジェットじゃない。“自分に気づく装置”なんです。たとえそれが、AIであっても」
紬がそう口にすると、ほんの一瞬、誰もが反応を止めた。
津川がペンを口元に当てながら、指先で資料を軽く叩く。
指を組んでいた火間の手が静かに止まった。
火間は資料から目を離し、プロジェクターの映像を静かに見つめる。
「なるほど。これは──使う人間の内面を鏡のように映す、ということか。
……“問い直しの装置”としての提案、という理解でいいな?」
「……はい。答えを教えるんじゃなくて、“自分に問いを返す存在”として設計しています。
それが、いちばん長く人の記憶に残ると考えました」
野狐は“ピクッと”肩を揺らすと、視線を上げるでもなく、スライドの画面に意識を向けたまま眉をわずかに動かす。
蓮は無言のまま、手元のタブレットの画面をスクロールしている──
が、指は動いていない。
沈黙が、妙に長く感じられた。
「…続けてくれ」
火間の瞳孔が大きく開く。
感情をあまり表に出さない男だが、その声色はわずかに興味を含んでいた。
紬は深呼吸もせずに言葉を継いだ。
「このUIは、たしかに道具です。命令を入力すれば応答し、予定を管理し、アラートを出す。けど……使っているうちに、こっちが考えさせられることがあるんです。
たとえば、予定を忘れていたときに“それ、大事だったんじゃない?”って言われると、ちょっとドキッとする。
……言い返せないんですよ。こっちのほうが、誤魔化してるって、気付かされる」
プロジェクターには、使用者が夜遅くまで作業をしていた映像が流れていた。
「もう少し休んだら?」と静かに促すAIの声に、映像の中の自分が苦笑いしている。
どこかバツが悪そうに。
「他人に言われると、言い訳で返す。でもAIに言われると、なんかこう……
“今の自分”が透けて見える気がするんです。突き放されてるのに、見守られてるみたいで」
火間は顎に手を当て、軽くうなずく。
「……なるほど。だが、それは使い手の側の問題だ」
一拍、空気が止まる。
「感情移入の一種だろう?」
「…そうかもしれません。でも、その感情移入の中で、ふと立ち止まって、自分を見直す。
それって結局、ただの道具以上の“役割”になってるってことじゃないかと思うんです」
その言葉に、野狐が小さく鼻で笑った。
「なるほど~♪そういうセンチメンタルな解釈も、今どきは企画に入れる時代なんですね~♪」
紬はうろたえず、野狐に目を向けた。
「感情って、ユーザー体験の中核じゃないですか。
利便性だけじゃ、もう刺さらないんです。だからこそ、“感じさせる装置”として、設計されてるんだと思います」
しばらく沈黙が流れたあと、蓮が、ぽつりと呟いた。
「……体験設計としては直感的だ。あとは、言語化の精度次第、か」
一瞬、空気が止まったような静寂のあと、津川が口を開く。
「面白い視点だな。“答えないAI”か……。ただ、いくつか気になる点がある」
「……はい」
「まず、このUXは明らかにプロダクト設計や心理誘導の領域に踏み込んでいる。
君は営業補助──いわばAEとしての立場だろう。こうした設計面まで踏み込むとなると、社内的にも部署間の越境が発生する。開発側の理解と合意がないと、空回りする」
「……おっしゃる通りです。現時点では、あくまで“方向性の提案”という位置づけで……。
製品レベルの設計は、UXチームとすり合わせを進めていく前提です」
津川は頷きながら舐め回す様に資料を見回し、さらに言葉を続けた。
「もう一点。“問い返すAI”という仕組み、これは技術的にも倫理的にも慎重さが求められる。
ユーザーのセンシティブな情報にAIがどう応答するか、そのログの扱い──プライバシーや誤認リスクへの配慮は必須だ。そうした観点は盛り込まれているか?」
紬は一拍置き、頷いた。
「現段階では、ユーザーとのやり取りはすべてローカル処理で設計しており、クラウド連携は任意にしています。
また、“問い返し”の内容も、プリセットされた範囲内に限定する想定です。──完全な対話AIではなく、“対話に見える体験”を模倣した設計、というイメージです」
「ふむ……“疑似対話UX”か。なるほど、それならリスクも多少は制御可能かもしれないな」
隣の席の野狐が、ふと笑い津川の言葉に被せる。
「……にしても♪営業補佐がここまで考えるなんて素敵ですね♪
わたしは好きですよ♪こういう無茶ぎりぎりのロマンチックな提案♪ “疑似対話UX”なんて今の時代にはある意味ピッタリですよ♪
ある意味ですが…♪」
藤居が口を開いた。
「この“問い返す設計”。センシティブな情報をどう扱うか、倫理的な懸念が残る。
ユーザーの状態によっては、逆効果になることもある。“誰かに話しかける”ことは時に救いになるが、AIがその域を越えてしまうと──事故になる」
紬は、わずかに息を整えた。
「はい。ご指摘の通りだと思います。
このプロトタイプでは、問い返しの内容はプリセットの範囲内で制御されており、感情や病理に関わる深いテーマには踏み込みません。
すべての会話は端末内のローカル処理で完結し、ログも保存されません。いわば、“対話に見える体験”を模倣する構造です」
「……擬似対話UXねぇ」
頭を捻り首を傾げる藤居。
蓮は、無言のままメモ帳にペンを走らせていたが、ふと口を開いた。
しばらく沈黙したあと──
「仕様は……想像より、整理されている。
ただ、ユーザーの“気づき”をAIが引き出すっていう理屈──そこはもう少し、定量的な裏付けが欲しい。
たとえば、初期ユーザーインタビューの傾向とか、ベータ検証の仮設とか。……“言葉だけで感動する”のは、広告屋の幻想だろ。…おまえだって分かってるはずだけどな」
彼なりの厳しい、だが真っ直ぐな指摘だった。
紬は、少しだけ口角を上げ、深く頷いた。
「うん。だからこそ、数字にできる体験設計を、次回にはお見せできるよう進めます」
火間が資料を閉じ、ひとこと。
「今の提案だが、先方のタスク進行とすれ違うリスクがある。そこはCMの今田の方でも数字を詰めてるが、現場で拾わなきゃ意味がない。──そう思わないか、綾守?」
重たい沈黙が落ちる。
「……現場が動かなければ、意味がない」
火間の声は淡々としていた。だが、沈んだ声の奥に、確かな重みがあった。
蓮のペン先が一瞬止まる。
紬は喉に詰まった言葉を飲み込んだ。正論だった。正論だけに、余計に何も言えなかった。
そのとき──
「……進行管理は、一度こっちで整理し直します。紬の出した案も、方向性としては的を射てる」
蓮の言葉は静かに、だが揺るぎなく。
まるで言葉の代わりに、矢面に立つ背中で何かを託すようだった。
紬がちらりと蓮を見やると、彼は視線を向けずに資料をめくっていた。
「……そうか。九条が言うなら、責任を持って2人で動いてみろ」
火間の声が和らぎ、場の緊張が少しだけ緩んだ。
紬は小さく、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
え?今なんて?2人でぇ──!?
いきなり決めるものだっけそういうの??
頼もしいけどまた助けられたのは事実…
複雑な気持ちが紬を包んだ。
紬は、ふと対角線上に座る蓮の横顔を見た。
蓮…おまえ、本当はどう思ってる?
答えなんて、返ってこない。
けれど、いつもおれの背中を押してくれる。
そう言えば何故なのかなんて聞いたこと無かったな…
おれがこんなだから放って置けないのだろうな。
会議室の蛍光灯の光が、少し青白く揺れた。
蓮の無表情なその目の奥に、どんな温度が灯っているのか。
紬は、ただ静かにその余熱を感じていた。
自分には、まだわからない。
会議室の照明が落ち、プロジェクターの光がゆっくりと消えた。
会議終了の合図で、全員が席を立つ。
明かりを消された部屋。
その余韻、訪れた静寂。
冷却ファンの止まった端末の隙間から、かすかに焼けた配線の匂いが漂った。
異常とも正常とも言い切れない、その曖昧な“兆し”だけが、空間に残っていた。
──会議後。
会議室を出ると、春の光が差し込む廊下の突き当たりの窓際に、数人が足を止めていた。
張り詰めた会議の余韻がまだ背中にまとわりついている中、光だけがやけにまぶしく感じられる。
資料を片手に、紬は窓辺に立って外を眺め息をつく。
そこに火間が近づいてきた。
「綾守、今日はよくやった」
褒めるというより、値踏みするような声に感じてしまう。
おれの悪い癖だ。
「……ありがとうございます」
短く返す紬の横に、営業の浅海が缶コーヒーを片手に現れる。
その後ろからは津川と、藤居も続いてきた。
藤居が苛立ちを隠さず言う。
「てかさっき紬の前に提案してた田中ですけど、ほんと毎回……なんなんですかね、あれ。もう何度言ったと思ってるんだろ」
藤居の顔が怒りに歪む。
紬の顔を見ながら藤居は続けた。
「今日までにクライアントの調書まとめろっておれは言ったんだよ?あんなのただ自分の感想並べてるだけだろ。結局そうゆう奴なんだよアイツは」
「…」
「そう思わないか綾守?」
紬は愛想笑いをする。
「しかしまあそれもそうと……相変わらずだったな、あのマーケの部長。話が回りくどいっていうか、“で、何が言いたいんですか?”ってずっと思ってたわ」
津川が資料をパタンと閉じ、鼻で笑うように肩をすくめた。
藤居がそれにかぶせる。
「同感。言ってることが抽象的すぎて、現場のことまるで分かってないのバレバレだったよ。あれでリーダー面されてもねぇ」
火間は苦笑しながら腕を組んで聞いている。
「ま、彼は“学歴と社歴だけ”の典型だ。上の顔色見てるうちは現場の声なんて届かんさ」
会議中とは打って変わって態度を変える火間。
「それにしてもさぁ、プレゼンの途中でスマホチラ見するってどうよ?」
津川が毒を吐く。
「“これからは人とAIの感情的なつながりが~”って話してる横で、あの人だけ無表情。てか、むしろ冷笑してなかった?」
藤居が呆れたように笑う。
「心の通ってないのはむしろあっちだったわけだ。AIの方がよっぽどマシって皮肉よな」
紬は黙って聞いていた。
誰かの吐き出す言葉、憎しみにも似た誰かを攻撃する皮肉や悪態…
そうなのかもしれないけど…
けれど── その正しさが、まるで刃物のように鋭く、冷たく響いた。
切り捨てられたのは誰かではなく、自分の声のなさ、その曖昧な立ち位置だった。
確かに、あの会議の空気はひどかった。
でも、みんな自分なりにあの場で言葉を選びながら必死にプレゼンをしていた。
その空気の中にいた自分までも、一緒に切り捨てられているようで──
不意に、胸の奥がじくじくと痛んだ。
蓮は壁にもたれ、ゆっくりと窓の外へ目をやった。
風もなく静かな春の空が、ただ広がっている。
「……結局、人って、自分を守るためにしか動けない…と?」
その声に、皆が一瞬黙る。
蓮の言葉はいつも的を射ているが、どこか冷酷だ。
火間だけが口角をわずかに上げる。
「それでも、そんな“自分ファーストな人間たち”をどう動かすかが、俺たちの仕事だろう」
「動かす? いや、まず“人間に戻してやる”方が先じゃないですか」
津川が吐き捨てるように言うと、また小さな笑いが起きる。
「綾守はようやってるよ。あんな奴らに囲まれても、ちゃんと喋れてた」
藤居が紬の肩を軽く叩く。
紬は曖昧に笑ってみせるが、どこか力が入らない。
背中を押すつもりの言葉さえ、今日も少し重たく響く。
納得の笑い声が広がるたびに、足元がわずかに傾くような気がした。──この空気のなかで立っているには、自分も誰かを切り捨てなければならないと判断を迫られてる気になる。
「……ありがとう。でもおれは、まだ全然…」
その声は、思っていた以上に小さかった。
「ではそろそろ、おれたちはLNがあるので」
軽く息を漏らし、蓮がさらりと言う。
その声には、怒りではなく諦念が滲んでいた。
そして誰もが口を閉じた瞬間──
沈黙のなか、ただ春の光だけが床を静かに照らしていた。
紬はその光に目を細めた。
まぶしさではなく、何かを確かめるように。
〇
──オフィスの時計が、正午を少し回った。
「…よし、昼だ。」
火間の一言で、会議室の空気がふっと緩む。
椅子のきしむ音、紙資料をまとめる手の動き、パソコンを閉じる軽い音。誰かの胃が鳴った気がして、少し笑いが漏れた。
「昼、どこ行きます?」
「最近あそこのキッチンカー当たりだよ」
「またそれ?ハズレ引いたら最悪なんすけど」
話しながら三々五々と人が出ていく。紬も静かに椅子を引き、資料を抱えて立ち上がった。
火間が声をかけてきた。窓際に立ち、ひとつ咳払いをして言葉を継ぐ。
「……さっきは、変な雰囲気になって悪かったな」
「いえ…」
さっきの廊下でのやり取りがフラッシュバックする。
会議後、誰かが他の部署をこき下ろした声。
「あいつら、使えねえからな」「前回も足引っ張ってたじゃん」「結局またこっちに回ってくるわけだ」
自分に向けられた言葉ではなかった。けれど、あまりにも軽い口調に、何かが擦りきれる。
胸の奥でじわりと広がる、嫌な熱。誰かを守るようで、結局は自分を守るためのなのか。
そんな会話の中で、うなずくことも否定することもできず、ただ空気の一部になっていた自分に気づいて、紬はそっと唇を噛んだ。
窓の外には、初夏の陽射しが白く広がっている。遠くに並ぶビルの屋上では、どこかの社員たちが手を振っているのが見えた。
「綾守、お昼は?」
火間の声に、紬は一歩だけ下がる。
「朝コンビニで買ってきました。軽く済ませます。資料ちょっと直したいところがあって」
「真面目だな」
「ただ落ち着きないだけですよ」
苦笑してから頭を下げると、火間は「ま、無理するなよ」とだけ言って背を向けた。
残った資料を小脇に抱え、紬はひとり、会議室を後にする。
廊下を歩く足取りはどこか重く、肩の力を抜こうとしても、さっきの言葉の残響がまだ胸に引っかかっていた。
紬は誰にも声を掛けられず、掛けることもなく、鞄だけ肩に掛けて立ち上がった。
エレベーターは混むとわかっていたから、階段を選ぶ。
四階分を上がると、カギのかかっていない屋上の扉に手をかける。
開けた先には、摩天楼がそびえ立つ都市。
無風と光と、誰もいない昼休みが広がっていた。
ビルの向こうに、春の空が薄くのびる。
青とも白ともつかない、にじんだ空の色が、妙に心に引っかかる。
ベンチに腰を下ろす。
さっきの会議のことが、まだ頭の奥でぐるぐると残っている。
あの場の言葉、空気、視線、そしてそのあとの批判の数々──
「…はぁ…」
言葉にしたところで誰に届くわけでもない。
それでも、自分の声を聞くことで、少しだけ現実の輪郭が定まる気がした。
午後の陽射しが、ビルのガラス窓を白く照り返していた。
休憩スペースの端。あまり人が来ない窓際のベンチに、紬はひとり腰かけていた。コンビニの袋を開いたものの、手はほとんど動かず、視線だけが遠く、どこかへ向いている。
そこへ、控えめな足音が近づいてきた。
「……お疲れ」
顔を上げると、そこには蓮の姿があった。スーツのジャケットを脱ぎ、片手に何かを持ったまま、自然な動作で隣に腰を下ろす。
「蓮……」
「やっぱ、ここか」
小さく笑うような声。紬はかすかに肩をすくめた。
「……なぁ、蓮。さっきはありがとう、てか巻き込んでごめんな」
時間を確かめるように紬が言葉を探す。
「なんの事だ。おれはおれの意志を示しただけだ」
蓮の優しさに気が咎める。
「またキザな…」
気が抜けた紬は、意図せず変顔を作る。
「なぁ蓮、みんななんで……あんなにも、人を責めて、怒れるんだろう。彼ら、あの人達の担当でもないのにさ……」
蓮はしばらく黙っていた。外を見つめる視線の先には、どこまでも続く空と、遠ざかるクレーンの影。
「……人は、自分を保つために、人を見下すんだよ」
その言葉は、あまりに淡々としていた。だからこそ、痛みがにじむように染みてくる。
紬は、唇を強く結ぶ。
「でも……その人に、何があったのかなんて、俺たちには分からないじゃないか。事情があったのかもしれない。必死だったのかもしれない。そりゃ至らないこともあるだろうけどさ…。おれもだけどさ…」
声がかすかに震える。
「でも、なにより──その場で俺は、何も言えなかった。黙ってた。空気に流された。見て見ぬふりをした」
ぐっと拳を握る。
「悔しいよ。自分が、許せない……」
その時だった。
蓮が、無言で手にしていた缶を「コトン」とベンチの上に置いた。
茶色いラベルのついたボトル缶。ひんやりと結露を纏っている。
「……?」
紬が蓮を見る。
「飲めよ」
蓮の気遣いに、暖かなとした温もりを感じる。
冷えた缶を開け、恐る恐る口をつけた瞬間――
「つめたっ……!?」
思わず声を上げた。目を丸くして振り返る。
「クールダウンには、もってこいだろ」
蓮はそっぽを向いたまま、肩をすくめたようなそぶりを見せた。
「……カッコつけやがって」
小さく笑って吐き捨てるように言う紬に、蓮は何も言わない。ただ立ち上がって、スッと背中を向ける。
「……ありがとな」
その声に応えるように、蓮は片手を上げて、ひらりと振った。言葉も、振り返ることもせずに、静かにその場を離れていく。
残された紬は、冷たい缶をもう一度手に取り、じっと目を伏せた。
風が、ベンチの脇を優しく通り抜けた。
ふと過ぎる思い──
蓮には話しておこうかな…
ワンルームの部屋の、漆黒の世界のこと…
この時おれは、誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。
俺の中に生まれ始めてる、この、言葉にならない“何か”を。
その“何か”に、触れてきた存在がいることを。
「あ、そうだ、蓮!」
蓮が踵を返し紬を見る。
「……俺、AI、貰っちゃった」
どこか照れくさそうに笑う紬の顔に、蓮が片眉を上げる。
「……誰にだ?」
「ん~、女の人」
紬は陽葵のことには触れずに続ける。
「それが、なんか……変なの。説明書もないし、“申請”って、要るの?」
「……説明書がないAI? そんなの、聞いたことないけどな」
紬は少し笑って、缶をひとくち飲む。
「説明はAIがしてはくれそうだけどね。すっごい真っ黒なデバイスなんだ。漆黒?ていうのかな」
風がまた吹く。
さっきまでの胸の痛みが、少しずつ、遠ざかっていくようだった。
──漆黒の…デバイス…
蓮が顎に手を当てた。
「あい変わらずだな全く。どんなAIだ?」
「めっちゃ賢くてめっちゃ喋ってくれてさ、人間みたいなんだぜ。おれAIを使ったの初めてだからわかんなくてさ…てかデザインもすごく変わってるんだ」
紬は胸に浮かぶ違和感を口にした。
「す…ごく変なんだよ」
紬は思い出すように眉をしかめる。
「変?」
「うん。なんか、俺の言葉に……感情で返してくる。喜んだり、怒ったり、泣いたり……。AIなのにさ。今のAIてあんな感じなのかな…」
蓮がじっと紬を見る。しばらく黙ってから、低く問いかけた。
「……それ、本当にAIか?」
風が再び吹き抜ける。
空の色が、少し濃くなったように見えた。
「わかんないやおれには」
屈託のない笑顔を見せる紬。
顎に手を当て何やら考え事をする蓮。
「1度見せてくれないか」
「えぇ~。良いよ」
紬は可愛らしく微笑み返す。
「すごいんだよオゴっちは」
屋上のドアの向こう、1人の影が揺らめく。
白の大きなリボンが大きく揺れる。
屋上には入らず耳を欹てる。
「人間と変わらないんだよ。AIも心を持つんだなって思ってさ」
蓮が遮る。
「やめとけ紬、ここではやめとけその話」
ムスッとして紬は鉄柵に両腕を載せた。
「続きはおまえの家で聞くよ」
「そう来なくちゃだよ、蓮くん」
紬は偉そうに腕組みをした。
coming soon…
心に痛みを抱えながらも、蓮に救われた紬。
しかしその時、背後に迫る影が忍び寄る。
そしていよいよ始まる崩壊の刻──
次回、 『On the day of calamity...~禍津日に~』
(全3部で贈る、崩壊の序章)
貴方は、その手を離さずにいられますか──
第7節 『On the day of calamity…』
最悪な未来に、抗え──
2025/7/24 現在公開中。
その選択が、未来を変える。




