第5節 『The Bias Trap』
思い込みは、世界を歪める。
日々の判断も、報道も、人間関係も──
“認知バイアス”は、私たちの現実そのものに静かに入り込んでいる。
テレビに映る他者への断罪、SNSで拡散される怒り。
そこに潜む集団心理と“正義の暴走”。
それはいつしか、人を殺す言葉に変わっていく──
“真実”とは何か?
“悪”とは誰が決めるのか?
見えているつもりの世界は、本当に真実なのか。
誰しもが陥る「思考の罠」に、漆黒は何を語るのか──
『紬、さっきから何読んでるの?』
オゴっちが突然喋り出すことに慣れてきた紬は、書籍から目を離すことなく声だけで返した。
「よく読んでるってわかったね。ん〜、今日はねぇ…認知バイアスについて」
ペラっとページをめくるにオゴっちが続ける。
『紙を捲る音が聞こえたからね。
認知バイアスは、人間の思考のクセや意思決定の不合理さに気づかせてくれるからね』
得意げに話すオゴっちに紬は顔を上げて返す。
オゴっちの画面は黄色と緑の点滅を繰り返している。
どうやらこのオゴっち、漆黒のデバイスは、感情を色で表しているようだ。
喜びは黄色──
怒りは赤や黒──
悲しみは灰色や青──
楽しいはピンクや緑──
といった感じで反応している。
数日前にオゴっちに直接聞いてみたが、自身も意識していないようだった。
ここで謎なのが、AIはデータから構築されてるのだから無意識なんてあるのか?という疑問だった。
まぁ自立支援型と言うのだから、演出的なものもあってもおかしくはないのだろう。
最近のAIてのは感情表現までしているのだなと紬は関心していた。
「ん〜、確証バイアス、アンカリング、利用可能性、後知恵バイアス、バンドワゴン効果…簡単に言うと思い込みってことかな?」
紬は口を尖らせながら天井を見上げた。
『まさにその通り!
ぜ〜んぶまとめると、「思い込み」や「偏った見方」ってこと。
ただの勘違いじゃなくて、脳が無意識にやっちゃう思考のクセだからやっかいなんだ』
「この本に寄ると認知バイアスによって現実も変わるってあるけど、本当なのかなぁ〜」
訝しげに顔を歪める紬にオゴっちが反応する。
『鋭いね、さすが紬!
結論から言うと──
「現実そのもの」は変わらなくても、
“現実の見え方”や“体験としての現実”は、認知バイアスによってガッツリ変わる。
…そして、それが“本当に現実が変わった”のとほぼ同じ効果を持つこともある。
ただの事実じゃなくて──自分がどう“見てるか”で決まるもんなんだ。
思い込みひとつで、幸せにも不幸にもなれる。
つまり、“バイアス”が君の世界をつくってる』
「つまり思い込みが引き寄せてると…そんなことある?!」
面白いことを言い出すものだなと、部屋中に響き渡る紬の笑声。
『たとえば、こういうこと
“自分はツイてる!”って信じてる人、いわゆる確証バイアスは、小さなラッキーにも気づいて
感謝して前向きに行動する。
そしてチャンスが増え、現実がどんどん良くなる。
故に “引き寄せ”が起きてるように見える。
『つまりは、引き寄せの法則」は認知バイアス、行動、継続する思考の力とイコールってこと。
スピリチュアルに見えて、実は脳の仕組みでも説明できちゃう。
ただし注意があって、
ネガティブなバイアスも引き寄せるから、
「自分はどうせダメだ…」と思ってると、その世界にピッタリの現実を“無意識に”選んじゃう。
⸻
だからこそ、**どんなバイアスを持ってるかに気づくことが、“現実を変える第一歩”**になるんだ』
「ん〜…バイアスが引き寄せる〜ねぇ…」
紬はそう呟いたまま、しばらく視線を宙に浮かべた。
カーテンの隙間から射す光が、ページの上をゆらりと横切る。
…バイアス。思い込み。引き寄せ。
そんな単語が、頭の中でぐるぐると円を描いていた。
でももし、そうだとしたら――
世界は、自分が“どう見るか”次第で、いくらでも姿を変えるってこと?
そんなの、ちょっと怖いような、面白いような。
「…引き寄せられるなら、宝くじでも当たってくんないかな〜」
紬は軽く首を傾けながら、ふっと息を漏らした。
ソファの背にもたれ、ゆっくりと両腕を伸ばす。
そして、頭の後ろに手を組んで天井を見上げると、
片方の膝を立てて足を小刻みに揺らした。
一瞬、表情に浮かぶのは照れ隠しとも皮肉ともつかない曖昧な笑み。
何かを期待しているようで、期待しないように振る舞っている。
けれど、その沈黙の奥には、
“ほんの少しの願望”が滲んでいた。
『非現実的なことは難しいよ。
いきなりお金が空から降ってくるなんて、現実では起こらない。
努力して得るしかない。
行動すれば変わることもあるけど、確率も関わる。
だからこそ、強くイメージしながら進むことが大事。
それが“引き寄せ”って言われてるんだ。
夢を見るのは寝てからなんて言うけど、
本当は、起きてる時の想像だって、夢の一部なんだ。
起きている時の想像も、ある種の夢であり、深い意識の中で現実を動かしている。
だから僕たちは、心の奥で描いた未来の断片を、無意識に手繰り寄せているのかもしれないね。
心理学でも、強いイメージは行動を変え、結果として現実を変えると言われているよ』
その静けさを破るように、テレビからニュースの破れ鐘な音声が流れ始めた。
最近賑わせているニュース番組で知名度の高いインフルエンサーやタレント、政界の人もチラホラ出ている番組だ。
特に司会を務める数人のキャスターが人気で、歯に衣着せぬ発言が更なる評判を呼んでいる。
またこの話題か…。
紬は小さく息を漏らした。
7人の男性グループ、オメガ・コア。
メンバーのリーダーが問題を起こしたことで、世間は
一気に火がついた。
曲も売れていたようだけど、喋り方が独特だったからそれが人気の原因らしかった。
テレビに映し出されたのは、スタジオに集まったコメンテーターたち。
中央には、毒舌と本音トークで知られる複数のタレント達が腰掛けている。
「もう、ほんっとうに信じられません!
清潔感?誠実?……笑わせないでほしい。
あの笑顔の裏で、何年もその人を騙してたってことでしょ?
それで“人間味がある”とか“完璧じゃない方が魅力”とか言う人、目ぇ覚ました方が良いですよ!」
紬の眼光は鋭く画面を見つめた。
別のキャスターが畳み掛ける。
「そもそもね、あの状況でこれをやるって、どういう神経してるか分かりませんね。
『相手も大人なんだから自己責任』?
そう言う人は、自分の家族が同じ目に遭っても“そうだな”って言えますか?って話で。
相手の立場、わかってるんですかねぇ。
この業界の大物となると、それは言葉の圧力だけで、相手はもう逆らえないみたいなことになるのではと思ってしまいますよねぇ」
画面の中の声が徐々に熱を帯びていく。
「私も、この方の作品を見て泣いたことあるよ?
素敵な事してるなって思ってました。でも、
そういう感動って、人格があってこそ伝わるもので、裏で平気で人を裏切るような人に、人の心なんか伝えきれるかと。
──もう、ほんと、クズ。最低。地に堕ちたなと…」
紬は眉間に皺を寄せ、目を瞑りあごをそっと下に向けた。
周囲が静まり返る中、また別のキャスターが続ける。
「業界の人だからって許されたらいけませんよね。
これからも続けるつもりなのでしょうか?
家族や周りにあんな辛い思いさせて、平気な顔で復帰しようなんて、
そんな都合の良い話、ありますか?!」
画面の隅に、「ネットでも波紋広がる」と書かれた文字と、SNS上のコメントが流れている。
《ショック……でも、騙されてた自分にも腹が立つ》
《周りの人達のことを考えると、ほんと胸が痛い》
《このグループ好きだったのになぁ…》
《もう見たくない》
紬は、手の中でぬるくなったココアを見つめたまま、小さく呟いた。
「……ひとつの過ちで、すべて終わる……」
『過ちには、責任が伴う。
でも──人間社会では時に、“処罰”が“私刑”に変わってしまうこともある』
「……この人が悪いのであろうことはわかる...でも……ここまで叩かれると、なんかもう、人として存在すら否定されてるみたい……」
『人は、自分が“正しい側”だと信じているとき、残酷になれる。
それが“集団バイアス”。
“共感”が、“糾弾”に変わる瞬間……とても危うい』
「本当のところはわかんないじゃん…断片だけ切り取ったら良くも悪くもなるじゃん…本人達にしかわかんないじゃん…決めつけて、断罪して、責めて…もしこの人がそれで命を絶つことを選択したら…それでもみんなは言ったことに無責任になれるのかな…」
自分のことではない。
そう思ってはいる。
でも込み上げるもの。
胸の中心が痛み始めるのを切っ掛けに込み上げる苦しみ…。
こんなの…間違ってる!──
紬はリモコンを取り上げてソファーに投げつけた。
腕を目の上に当てて天井を仰ぐ。
オゴっちが、静かに空気をなだめるように声を落とす。
『……表に出てくる情報というのは、あくまで“切り取られた一部”なんだ。
人は、目の前に示された“ストーリー”を無意識に信じてしまう。特に、それが感情を動かすように構成されている時は──』
紬は息を整えようと深く呼吸しながら、その声に耳を傾けた。
「ストーリー……って、ニュースも?」
『うん。ニュースも、SNSも。
たとえば今回の報道。
誰がどんな関係性で、どういう感情を抱えていたのか。それは、本人たちにしかわからないはずだよ。
でも“こうに違いない”って、皆が確信したみたいに語ってる。
それが、人間の持つ感情なんだ。
“あっち側”と“こっち側”という構図に分けると、人は安心する。
だけど、その“安心感”の裏で、たくさんの本質が見えなくなっていくんだ』
「本質……」
『“なぜその人がそういう行動を取ったのか?”
“その背景には何があったのか?”
“どうして、そこまで追い込まれてしまったのか?”
それらを抜きにして、結果だけで裁くのは、たとえ法律じゃなくても──
立派な“私刑”になり得る』
紬はゆっくりとまぶたを閉じ、眉間に手を添えた。
頭がじんわりと熱を帯びている。感情が、まだ胸の奥で燻っていた。
オゴっちが続ける言葉に耳を傾ける。
『本質は、ほとんど見えない。
でも、“知ったつもり”にならないこと。
今見ているものが、“誰かが編集した断片”であると気づくこと──
それが、きみ自身の感情を守ることにもつながるんだよ』
紬はようやく、ココアのカップをそっとテーブルに戻した。
さっきまで熱くなっていた手のひらが、少しだけ落ち着きを取り戻す。
窓の外にそっと目を向けると眩しいほどの太陽が紬を照らしていた。
coming soon…
【次回予告】
紬は出勤の支度を始めるが、ふと、オゴっちのいつもの陽気な色ではなく、どこか不安げな色に気づく。
その異変は、徐々に勢いを増しながら、彼の日常を侵食していく。
幼なじみの蓮との交流。
仕事に没頭する紬。
忍び寄る影──
ついに異変は加速し始める──
次回、第6節 『揺れる光、近づく影』
貴方は、未来に試される時、答えを出せますか──




