Saelum 63
目覚めてからずっと感じていた違和感が嘘のように消えてなくなっていく。そして、鮮明に広がった記憶に懐かしい顔が次々に浮かび上がった。
「ありがとう、テオくん」
「やめろ、これは借り物だ。俺が分かったなら、ちゃんと名前を呼べばいいだろ?」
クレナは涙を拭いながら、おかしそうに笑った。
「だってギャップがありすぎて呼びにくくて」
「仕方ないだろう。体は選べなかったんだ」
クレナは改め、テオを見つめる。
外見は全く別人だが、少し偉そうな口調と魔術を使う彼の正体。それはクレナにとって予想外な人物だったが、会えて悪い気はしなかった。
「ありがとう、アグレアスさん」
「それでいい」
子供には似合わない、自信を含んだ笑みを零す。しかし、疑問が過った。
「それよりアグレアスさん、なんでここに?」
あの時アグレアスはヨンギの放った銃弾によって、地獄へ送られてしまった。それが何故、現世にいて、こんな子供の姿をしているのだろうか。
「確かに地獄へは行ったが、暫くしたら神が俺に会いに来た。お前の付き人のひとり、俺を撃ったやつだ……まさか、あいつの中にいるとは思わなかったが」
「えっ……いつの間に? ヨンギさんは私たちとずっと一緒にいたのに」
いや、ずっとではなかった。
あの崖から落ちた時、ヨンギはひとり別行動をしていた。ヨンギの姿でアグレアスに会いに行けるとしたら、あの時ぐらいしかない。
「それで、神様はなんて?」
「俺の犯してきた罪は大きい。しかし、俺が受けてきた過去の出来事も決して軽いものではない……それで、条件を出してきた」
「条件?」
「クレナと金髪の付き人が現世に戻った時、俺の力を貸してほしいと……手を貸せば、俺が更生するかしないかは自由でいいとな」
条件付きの提案を引き受けたわりには、何故か不服そうな顔付きのアグレアス。
「神は個人的な私情で人を手助けするのは許されない掟らしい。それでも、なんとかしてクレナを助けたいとは……余程気に入られたんだな」
何故だろう。すごく複雑な気持ちになった。
「しかも、お前だけならまだ納得はいくが……なんで俺が金髪男まで助けなきゃならない」
「なんか、ごめんなさい」
「別に構わないがな」
アグレアスがまたクレナの額にそっと触れる。
「また何かするの?」
「黙って、目を閉じろ」
強引に瞼を手のひらで閉じられ、クレナは黙った。幼い声で、また呪文が唱えられる。
「与える」
今度はあまり変化を感じない。クレナがそっと目を開けると、それに合わせてアグレアスが喋り出した。
「もう、現世に留まれる時間が少ない……いいか? 一度しか言わないから、よく聞け」
「はいっ」
「俺の力を僅かだがお前に授けた。あの金髪男に会ったら、今俺がお前にしたように相手の額に手を当てて一言唱えろ……“復元”と」
「復元?」
「そうだ……」
深く頷くと、そっと額に当てた手を離す。
「お前にもう一度会えて良かった。あの時は強引なことをして悪かったな……それだけは伝えたかった」
もしかして、あの時の事を気に掛けて会いに来てくれたのだろうか。初めて会った時、恐怖で凍りつくような冷たい表情をしていたアグレアス。その面影は今は窺い知れない。
けれど、今向けられた微笑みが本来の彼が持つものなら、心から嬉しいと感じる。
「アグレアスさん、来てくれてありがとう」
「そろそろ時間だ。クレナ……お前は俺が気に入った女だ。強く生きろ」
「アグレアスさんは? 更生するでしょ?」
その質問に、少し躊躇い気味の笑顔を浮かべた。
「あまり現世にいい思い出がないからな……もう少し考えて決める」
「そう」
「お前は金髪男が好きなのだろう?」
「えっ」
「命懸けで守ろうとした男だ……俺は気に食わないが、お前が幸せになることだけを願っていてやる」
不器用だけど、優しさが篭ったアグレアスの言葉に、クレナは笑顔で返した。
「わたしもアグレアスさんの幸せを祈ってます」
本当は、優しい人。歪んだ周りの行動で人生を狂わされてしまった彼の傷が少しでも癒え、いつの日か新な世界で幸せになれるようにとクレナは強く願った。
「湿っぽいのは嫌だからな……またな、クレナ」
そう言いながら、瞼を閉じる。
「アグレアスさん?」
声を掛けると、驚いた顔をして目を開けた。
「ママは?」
もうアグレアスは中から消えていて、そこにいるのはテオだと知る。
「お母さん探してるの?」
儚い一時の再会を噛み締めながら、クレナは男の子の手を引いて路地から出た。
「ママ!」
辺りを見渡す母親の姿を見るなり、男の子の手はクレナの手から擦り抜けていく。
「ありがとう。必ず会うからね……」
母に抱き付き笑顔を向けるテオを見届け、クレナはまた素足のまま走り出した。
目覚めた時、何もなかったように日々を過ごしてしまうんじゃないかとずっと怖かった。儚き夢物語のことや、大事な仲間たちを綺麗に忘れてしまう自分を想像していた。
けど、そうじゃなかった。どんなに記憶がなくても、このどうしようもない恋しさは心に深く刻まれていた。
そしてまた、あなたに“恋”をした。
今も尚、自分たちを助けようとしてくれた人たちのために、諦めるなんて選択なんかしたくない。
――必ずあなたと会って、共にこの世界で生きたいから。
がむしゃらに走ったクレナは、大きな橋の上で立ち止まる。人が行き交う反対側の道に、息を切らしながら目を配っていく。
「お願い……まだ居て」
何度も往復を繰り返す視界に、やっと待ち望んだ後ろ姿が映った。クレナは慌てて手摺りから身を乗り出す。
「待って!」
長い距離を走ったせいで息苦しい。思うように出せない喉に精一杯の力を込め、遠去かっていく後ろ姿に向かって声を投げた。
「アランっ!!」
やっと呼べた名前。
その声は確かに、彼に届いた。




