Saelum 62
あの日から一週間が経つ。
しかし、彼の行方はわからないままだ。仕事が終われば、必ずあの花屋に立ち寄るのが今の日課だ。
しかし、お爺さんの反応はいつも同じ。残念そうに首を振るだけ。
いつも彼と出会った時のことを思い浮かべた。ほんの少ししか言葉も交わさなかったのに、あの日を思い出すとなぜか切なくて堪らなくなり、ひどい時は涙を浮かべてしまう。
(わたし……あの人のことが好きなのかな?)
あの一瞬で、どうしてここまで強く惹かれるのか理由を知りたい。このまま会えなかったら、きっとおかしくなってしまうんじゃないだろうかとさえ思った。
そんな日々が続いたある日、クレナはまた花屋へ向かう道を歩いていた。夕暮れに染まった空の下、夕食の買い物をする人や仕事帰りの人が多く行き交っている。
(今日もきっと駄目だろうな……)
「おーいっ! お嬢さん!」
遠くで手を振るお爺さんが目に飛び込む。
(もしかして!)
クレナは急いで人混みを掻き分け、花屋の方へ走っていく。息を切らす寸前で、花屋の前に到着した。乱れた息を整える間もなく、クレナは声を発する。
「どうしたんですかっ!」
「ついさっき来たよ!」
「本当に!?」
お爺さんは嬉しそうな顔をしてクレナの目の前に、あるものを差し出した。それは、いつかお爺さんがクレナのために取り寄せてくれると言っていたスノードロップ。
“来たよ”というのは、彼ではなく花のことだと分かり、自然と気持ちが顔に出てしまう。
「あ、ありがとうございます……ぜひ買いますね」
「違うよ、お嬢さんっ」
「え?」
クレナの手にスノードロップを持たせ、お爺さんは満面の笑顔を浮かべた。
「それは彼がお嬢さんにと置いていったんだ。もし来たら渡してくれと……帰って行って5分も経ってない」
急にお爺さんがクレナの両肩を掴み、彼が去った方向へと身体を向かせた。そして、軽く背中を押した。
「さあ、急ぎなさい! 今ならまだ追い付くかもしれない!」
「ありがとう、お爺さんっ!」
彼が持ってきてくれたスノードロップを抱え、クレナは人で混雑した道を勢い良く走り抜けた。しかし、思うように加速できない。それは、靴に問題があったからだ。こんな時にヒールなんか履いてきてしまった自分が憎らしい。
「こんなんじゃ、また会えないじゃない!」
一度立ち止まり、ヒールを脱ぎ捨てる。この際、周りの目なんて気にしてなんかいられない。今度は冷たい地面を素足で走った。
だが、走っても走っても求める後ろ姿が見つからない。
だんだん息が上がり、走る速度が次第に遅くなっていく。
「また……会えないで終わっちゃうの?」
ついに立ち止まり、膝に片手を置くと、傷だらけになった素足が目に映った。さっきまでは無我夢中で走っていたから感覚はなかったけれど、今になってじわじわと痛みが広がり始める。傷と胸の痛みが同時にやってきて、涙が溢れ出した。
――立ち止まらずに走り続けろ。
――絶望している場合じゃない。
そう言い聞かせるのに、感情が言うことを聞いてくれない。
「会いたいよっ」
こんなにも苦しくなるのは、一目会った彼に“恋”をしてしまったからだ。名前すら思い出せない彼にどうしようもなく恋い焦がれてしまっている自分に、クレナはようやく気が付いた。抱えているスノードロップに目を向けると、不意に牧師の言った事を思い出す。
「逆境の中の希望……ここで諦めたら希望も捨てちゃうことになる」
またクレナは前を向いた。
「行かなきゃ」
「クレナっ」
一歩踏み出しかけた時に、背後から誰かが呼び止める。慌てて振り返るが、その声の主らしき人が見当たらない。
(気のせい?)
「こっちだ!」
視線を下へと向けていくと、やっと視界に一人の人物が映り込んだ。クレナのスカートの裾を小さな手で掴む、幼い男の子がそこにいた。綺麗な栗色のサラサラな髪に、同色の瞳をもつ可愛らしい男の子に思わず笑顔が零れた。
「どこかで会ったことあったかな? でも、ごめんね……今急いでるんだ」
「いいから、しゃがめっ」
掴んだ裾をぐいぐい引っ張る男の子に困り果てていると、どこからか女性の声が響く。
「テオっ! どこなの、テオ!」
「あれ、お母さんの声じゃ……」
クレナが辺りを見渡そうと顔を上げた瞬間、更にスカートが引っ張られ、視線をまた男の子に戻した。
「ちょっと、どうしたの?」
「いいから、こっちに来い!」
男の子は少し荒い口調で言った。驚きはしたものの、それでも相手は子供なのだ。早く親の元へ返さなくてはいけないと、クレナはなんとか制止の言葉をかける。
「でもね、お母さんが心配して探してるみたいだし……戻った方がいいよ。なんならお姉さんも一緒についていってあげるから」
「つべこべ言ってないで、ついてこい! こっちは時間がないんだ! 少しだけでいいから言うことを聞いてくれっ!」
見た目は五歳ぐらいの男の子なのに、その言動はしっかりとしている。切羽詰まったような顔で言われてしまい、クレナは仕方なく男の子が指差す裏路地へとついていった。
「えっと、テオくんでいいの? わたしに何か用事があるのかな?」
男の子の視線に合わせるように、クレナはしゃがみ込む。気持ちは早く彼を探したいと焦っていたが、子供を放って先へ進むことができなかった。
「俺がわからないか?」
「ごめんね……どこかで会ったかな?」
クレナはあくまで子供相手の対応として、笑顔をつくって返事をした。だが、そんなクレナを見て、男の子が深い溜め息を零す。
「まぁ、この姿じゃ無理もない」
「え?」
「クレナ、お前はどれだけ覚えてるんだ」
「えっと……さっきから何の話をしてるのかな? というより、わたしの名前をどうして知ってるのか教えてほしいな」
次々に飛び出すテオの言葉に、クレナは訳もわからずに首を傾げる。
「まさか、何も覚えてないのか? まったく、少しは記憶を残してやればいいものを……案外ケチ臭いヤツだな」
クレナの目の前で舌打ちまでする姿に、本当に目の前にいるのは子供なのかと疑いたくなってきた。
「けど、想定内だ……お前が失ったものを俺が取り戻してやる」
「それって、どういう意味?」
「いいから、じっとしていろ」
クレナの額に小さな手のひらが優しく触れる。
「目を閉じてろ!」
子供の声なのに妙な迫力を感じ、クレナは言われた通りにぎゅっと瞼を閉じた。
「復元」
聞き慣れない呪文とともに、一瞬だけ頭の奥で何かが開くような音が聞こえた。ずっと開けられずにいたドアの鍵がやっと開け放たれたような感覚。
「目を開けろ」
ゆっくり瞼を開いた途端に、クレナの瞳からは次々と涙が零れ落ちた。
「これで俺が分かったか? 忘れたとは言わせない」
男の子の問い掛けに、クレナは頷く。
「会いに来てくれたの?」
「急いで来てやったぞ。感謝しろ」
「ありがとう」
頭の中に溢れ出す記憶。
思い出すことは決してないと思っていた長い“夢物語”が今、色鮮やかに蘇った。




