Saelum 56
地上へ降ろされたアダムとイヴは初めての冬を迎え、今まで体験したことのない凍てつく寒さに、生きる気力を奪われつつあった。
禁忌を犯してしまった二人に手をかす人も存在しない未完成な世界。
そんな二人を天から見守っていた神は哀れに思い、神の使いである天使にあるものを託した。天使はアダムとイヴのいる地上へと降り立ち、空から降り注ぐ雪を次々に白い花へと変えていった。
地面に咲き誇る花たちを見つめるアダムとイヴに、天使は優しく告げる。
『やがて雪は溶け、春がくるから絶望しないで』
その言葉を残し、天使は天界へと帰っていった。その花のおかげで二人は長い冬を越すことができたという。
――神の贈り物、希望の花“スノードロップ”
その話を聞き終え、クレナは改めて本に挟もうとした栞を見つめた。
「……希望の花」
なんとなく、その言葉に心が反応を示す。
「クレナ、もしかしたらさ……それって神様からのプレゼントなんじゃない?」
「え? 神様って、そんなわけ」
否定しかけたが、また心が騒ぐ。
「けど、スノードロップなんてここら辺じゃ見かけたことないし……なんか不思議なことがクレナに起きたのは確かでしょ?」
「そう、だね……」
カフェの窓の外を行き交う人たちを見つめ、わずかに早くなった鼓動を沈めるように息をゆっくり吐いた。
「クレナ、聞こうかと思ってたんだけどさ……好きな人でもできたの?」
「なに、急にっ!? そんな人いないよ!」
違う意味で心臓が跳ね上がる。そんなクレナのリアクションに、夏紀は少し驚いたように目を見開く。
「そうなの? なんか好きな人でも思い浮かべてるみたいな顔して考え込むから、誰かに恋してるんだとばっかり思ってた」
「恋なんて程遠い悩みだよ。今は仕事で精一杯だもん」
「えー、そんな風に見えたのになぁ」
残念そうにしている夏紀に、クレナは笑顔で返した。
夏紀の言うように、誰かを探し求めているのは確かだった。しかし、その“誰か”が見当もつかず、なぜこんなにまで悩ましいのか理由も分からない。
――この変なモヤモヤした気持ちは、いつになれば取れるんだろうか?
結局、スノードロップの伝説を知っても、違和感の正体には辿り着けず、クレナはまた日常へと戻っていった。
◇◇◇ ◇◇◇
「柚木!」
出社するなり、チーフの声が掛かる。
「はいっ」
慌てて走り、チーフのいるデスクへと行くと、にこやかな表情でクレナを見遣った。
「喜んで、柚木……あなたにもチャンスがきたわよ」
「なんですか?」
訳もわからずに聞き返すと、数枚の紙を手渡される。
「見込みのある新人を一年間指導してくれるっていう提案書がきたから、あなたを推薦するつもりなんだけど……どう? 半年後で忙しくなるけど、やる?」
「やります! やらせてください!!」
クレナは目を輝かせ、迷うことなく即答した。クレナの気合いの入った返事に、チーフは満足そうに微笑む。だが、すぐさま厳しさを目に宿した。
「ただし、やるからには覚悟してね。プロの仕事を間近で見られるのはいい勉強になるけど、その分ここより過酷よ……あなたもここに来てわかってるとは思うけど、夢を追うことはそう簡単じゃないわ。ただ好きなだけではプロの壁は越えられない」
「はい! 分かってます!!」
「いい表情するようになったわね。最近の柚木は俄然やる気出てきてるみたいだし……頑張りなさいっ」
「はいっ!!」
思ってもみない転機に、クレナはさっそく企画書に目を通し始める。内容は、プロのデザイナーの側で作業を手伝いながら指導を受ける。そこで見込みがあると認められれば、プロへの道が開かれるというもの。
クレナのような素人は世界に山ほどいる。その中から選ばれるなど奇跡に近い。
それでも、せっかく巡ってきた千載一遇のチャンスなのだから、やってみる価値はあった。
「三カ国から選ぶようになってるけど、どうする? パリが一番の狙い目だとは思うけど……柚木が好きな場所を選べばいいわ」
企画書にはパリ、イギリス、ドイツと記載してあった。クレナは即座に目が止まった国を口にする。
「わたし、ドイツにします!」
「ドイツか……いい目のつけ所だと思うわ。パリやイギリスとはひと味違う有名デザイナーが多いし……クレナの世界観にもピッタリだから、いいんじゃんない? なら、さっそく報告しておくから準備しておいて! 半年後なんてあっという間よ」
「はい!」
自分が生まれた国にまた行ける嬉しさと、新たな挑戦への緊張感に自然と体が震え出す。
「けど、本当に最近の柚木はいい顔になったわね」
「え? そうですか?」
突然の言葉に、クレナは首を傾げた。
「入ってきた時は、何かに追い詰められてるみたいに、ただがむしゃらに頑張ってるだけって感じだったけど……今は生き生きした顔してる。全身で仕事を楽しんでるって感じ……今のあなたならきっとどんな困難にも負けないわ」
「ありがとうございます!!」
チーフに褒められたのは初めてで、嬉しさから頭を下げる。
「一年間なんて短いから、しっかりプロの仕事学んでおいで……期待して待ってるわよ」
「はい! 精一杯、頑張ってきます!」
クレナはもう一度頭を下げ、自分の仕事へと戻った。半年後の準備と会社での仕事の両立できっと慌ただしくなるだろう。
しかし、夢への第一歩を踏み出そうとしているのだ。大変なんて言ってはいられない。
「よし! やるぞ!」
自分を奮い立たせるように気合いを入れ直した。
それに、夢の世界を目の当たりにすれば、この変な違和感も消えてなくなるだろう。
訳も分からず、何かを追い求めることもなくなる。
――そう、思っていた。




