Saelum 43
川の流れを見つめながら、柏木は静かに話し始める。
「うちの親はもともと仲が良くなかったから、わたしが起こした騒ぎをきっかけに離婚したわ。経済的な理由から父親と暮らすことになったんだけど……父親の地元に引っ越して、転校してからが地獄だった」
呼び起こした記憶に柏木は恐怖に震え、怯えたような顔つきに変わった。
「父親はお酒が入ると人格が変わる人だったから、離婚する前までは毎日のように母さんに暴力を振るってた……そして、その矛先が今度はわたしに向けられた」
柏木さんの口から語られたのは、酷い暴力の日々。
学校から帰って、まずは父親の言いつけ通り家事を全てこなさなくてはいけなかった。父親は帰宅すれば、すかさず家の隅々をチェックしてまわる。しかし、決してそこでは何も言わないのだ。
お酒が入っていなければ、口数の少ない大人しい人だと、柏木は言う。
「けど、お酒が入ると始まるの。少しでも気に入らなかったことを言い出して、人に見られない場所を狙って何度も蹴られたり、殴られたりした。昔母さんにしていたように……」
震える体を押さえ込むように、自分の両腕を手でギュッと掴む柏木の姿は、今のクレナから見ても哀れに映った。
「理由なんて何でもいいの。自分のストレスを吐き出すための口実がほしいだけ……ただ料理の味が薄かったとか、目つきが気に入らないとか、そんな些細な理由でよかったの」
離婚前までは、自分の母親が毎日殴られている姿を見続けてきた柏木は、どんな想いでいたのだろうか。
不意に、中学時代の柏木の姿を思い出す。そんな日々を送っていたように思えないほど堂々としていて、気が強そうで、みんなが逆らえないようなオーラを放っていた。
しかし、話を聞いてから理解した。
あれはすべて、弱い自分を隠すための演技だったのだ。
本当は毎日泣きたいくらい怖かったはずなのに、それを見せたくない一心で強気な自分を必死に演じていたのだろう。
「そんな生活が半年続いた頃から、転校した学校でもいじめが始まった。前の学校では、わたしに歯向かう人なんていなかったけど、そこでは通用しなかった……あっという間にクラス全員、わたしの敵になった」
未だに、あの柏木がいじめられる姿が想像できずにいた。
クレナは、自分の膝に顔を押し当てながら震える彼女を見守る他ない。
トイレに呼び出されては水を浴びせられ、自分の持ち物は口に出せないような言葉の落書きで埋め尽くされ、耳を塞ぎたくなるような容赦ない罵りを受け続けた。
聞いているだけでも、耐え難い数々の出来事を彼女は淡々と話していった。
「いじめは日を追うごとにエスカレートしていくけど、学校を休めば父親が許さないだろうから、わたしに逃げ場なんて存在しなかった。いじめに、父親の暴力……一年経つ頃には限界を超えてた」
「柏木さん……」
「学校へ行く途中に、ここみたいな大きな川があるの。それを眺めてたら、思ったのよ。これまでわたしがしてきたことへの罪を償えって、神様が言ってるんだって」
ようやく顔を上げた柏木は、涙で溜まった瞳でクレナに微笑む。
「わたしはそのまま、川へ飛び降りた。現実から……わたしの犯した罪から逃げ出したかった」
あまりにも痛々しくて、今にも消えてなくなりそうな切ない笑顔に胸が痛み出す。
「あなたや橘さんには本当に悪いことをしたと、今は本当に反省してる。家の鬱憤を晴らすために、八つ当たりしたこと……ごめんなさい。本当に死んでも許さないことをしたと思ってる」
クレナは、そっと彼女の肩に手を乗せる。
「聞いてもいい?」
「ええ」
「なんでわたしだったの?」
クレナの問いに、彼女は大粒の涙を零しながら言った。
「あなたが羨ましかった。外見が違うだけで、たくさんの人に囲まれて……心の底から幸せそうなあなたが羨ましくて仕方なかった」
「なら、なんで夏紀まで……わたしだけにすればよかったじゃない」
「あなたを必死に守ろうとしてる橘さんに腹が立ったの! あなたへの苛立ちを橘さんにぶつけ出したら、もう抑えがきかなかった。気が付いたら、あんなことをっ」
柏木が突如、地面に頭を付けて土下座をし始める。クレナは慌てて彼女を止めた。
「柏木さん、やめてっ」
「橘さんにはもう何もしてあげることはできないけど、あなたとはこうして会えたから言わせて! 本当にごめんなさい。許してなんて言わない……あなたがわたしを憎んでるのも知ってる。それでも言わせてほしい」
彼女の背負う後悔。それは、決して許されない過ち。
けど、彼女もまた過酷な人生を送っていた。その苦しみや痛みは、彼女を死に追い込むほど凄絶なものだったと知る。
「本当にごめんなさい……ごめんなさいっ」
幾度となく伝う涙が、地面の土を濡らしていく。こんな姿をした柏木を放ってはおけなかった。
「この罪は死んでも背負い続けるからっ」
クレナは柏木の震える肩を手で支え、体をゆっくりと持ち上げる。
「もう、いいよ」
――あなたの抱えていたものは十分わかったから。
「あの時の事を完全には忘れられないけど……」
もしかしたら、どちらかが歩み寄っていたら変わっていたかもしれない結末。それを後悔しても、過ぎ去った過去は二度と取り消すことはできない。
「けど、今ならわたしはあなたを……志保さんを理解することができるから」
「柚木さん」
この偶然の再会が必然的な何かだと言うのなら、これが神様が用意した試練だと言うのなら受け入れよう。
今なら、彼女をまっすぐ見られるとクレナは思えた。
「許すよ。もう、何も背負わなくていいから」
「いいの?」
「最後ぐらい、志保さんの笑った顔見てみたいもん。だから……もう苦しまなくていいよ」
柏木の顔から、悲しみの色が薄れ、小さな微笑みが生まれる。それは、はじめて見た彼女の本当の顔だった。
「ありがとう……クレナ」
その言葉が、胸に大きく響く。
気づけば、柏木とクレナは優しげな光に包まれていた。




