Saelum 37
あれから何ヵ月か経ったが、柏木から特に何かを言われることもなく、普通の日常の中にクレナはいた。
「おはよう、夏紀」
「おはよう!」
教室へ入ってきた夏紀を見て声をかけると、変わらない笑顔を向けてくる。夏紀の存在はクレナにはとても大きく、頼もしかった。
しかし、クレナは夏紀の些細な異変に気がついていた。
「夏紀、どうしたの?」
右手首に巻かれた包帯に目を向けると、夏紀は困ったような顔で返事を返す。
「昨日、練習でドジしちゃってさ」
顔近くまで手首を上げ、隠す素振りもなくクレナに見せた。
「来週、試合なのに大丈夫?」
「ただ捻っただけだから大丈夫だよ」
「最近、怪我多くない?」
少し前から、夏紀はよく怪我をするようになった。転んだような擦り傷や、どこかにぶつけたような痣を、よく見かけるようになった。
「試合が近いといつもこうなの。けど、今回のは完全にわたしの注意不足だけどね」
「本当に? 大丈夫?」
「大丈夫だよっ」
気がかりに思いながらも、それ以上の追求をクレナはしなかった。普段と何も変わらない夏紀に安心しきったせいか、それともそれ以上聞いてはいけない雰囲気を感じ取ったせいか、クレナ自身もわかっていなかった。
「ちょっと、どいて」
後ろから声がかかり、慌てて振り返ると、そこには柏木の姿があった。
「ごめん、柏木さん」
謝るも、そのまま横を通り過ぎ、返事はない。
少しだけ鼻で嗤ったような声が耳に届いた。
「柏木さん、まだクレナにきついね……大丈夫? 嫌なことあったら言って」
「大丈夫。変なことはされてないから」
「そう? ならいいんだけど」
あの日から変わらず側にいてくれて、クレナを心配してくれる夏紀。
クレナは感謝を口にした。
「夏紀のおかげで何もされてないから安心して……心配してくれて、ありがとうっ」
「クレナは友達でしょ? 心配するのが当たり前なの! けど、なんともないなら良かった」
安堵の表情を浮かべる夏紀に、クレナは笑顔で頷いた。
「そうだ、夏紀。お昼今日は一緒に食べれそう?」
「ごめん、お昼休み部活のことで先生に話があってさ。試合が終われば落ち着くから、そしたらまた一緒に食べよう」
「分かった」
試合が近いという理由から、最近はお昼休みも一緒に過ごせない日々が続いていた。それを寂しいと思うのは、夏紀に執着し過ぎているだけなのかもしれない。けれど、クレナはなぜか不安で仕方なかった。
いつか、自分から夏紀が離れていく。
もう二度と笑顔を見られなくなる予感。
この先の未来に、夏紀はいない。そう感じてしまった。
昼休み、クレナは一人中庭でお昼を食べようと移動していた。その道中、外通路で柏木と擦れ違う。また、嘲笑うかのような笑みを一瞬クレナに向けた。
あの顔を見ると、無性に不安が押し寄せてくる。気にしないようにと頭をいくら切り替えても、波のように引いてはまた満ちるを繰り返す。
もしかしたら、知らないところで何かが起きているのかもしれない。そんな言い知れぬ恐怖がクレナに襲ってきた。
「……夏紀っ」
夏紀の顔が見たい。一目だけでも見れば、安心する。
クレナは来た道を引き返し、体育館へと向かった。
「まだ、話とかしてるかな?」
体育館の扉の前まで来て、そっと隙間から覗く。確かに試合に向けて練習する部員数名はいるものの、そこに夏紀の姿はなかった。
「違う場所で先生と話してるのかな……」
次に、グラウンド近くにあるバスケ部の更衣室へとクレナは足を向けた。ここに居なかったら諦めて、戻ってくる夏紀を待てばいいと考えていた。しかし、ドアノブに手が届く距離まで来たクレナに待っていたのは、最悪な現実だった。
「もう、クレナ庇うのやめたら?」
更衣室から聞こえてきたのは、柏木の声。
(なんで柏木さんが?)
「絶対やめない!」
次に響いたのは夏紀の声だった。
一気に不安という波が押し寄せ、体がずしっと重くなるような錯覚を生む。ドアノブに触れられずに止められた手が、小刻みに震え出した。
「夏……紀?」
中から何かを投げ付け、ぶつかるような鈍い音が響く。
「いい加減、あんな女を守るなんてバカな正義感捨てなさいよ! あんな女の身代わりになって、なにか得になるの? あんたがあいつを裏切れば、やめてあげるって言ってんのよっ」
(どういう事? 夏紀がわたしの身代わり?)
幾度となく繰り返す怪我に、お昼休みに理由をつくって居なくなる行動。
その全ては柏木からクレナを守るためのものだった。
それを知った瞬間、罪悪感がクレナに押し寄せる。
「友達を守るのに得とか損なんてない! 何が気にいらなくてクレナばかりに敵意を向けてるのかは知らないけど……わたしは、クレナが安心できる日が来るまで守るから!」
「なによ、偽善者ぶって」
「偽善者でもなんでもいい。わたしは裏切ったりしない! わたしはクレナの親友でいたいから!」
夏紀の言葉がクレナの心を大きく揺さぶる。そして同時に、苦しくさせた。
(まだ出逢って数ヵ月しか経ってないんだよ? なんで、そんなわたしなんかのために!?)
あふれる感情が、涙となって零れ落ちる。
「あの子は、クレナは凄いの」
「何が凄いのよ……ただハーフで帰国子女ってだけじゃない!!」
「どうして見掛けだけしか見れないの!? 外見や生まれの違いなんて、小さなことじゃない! それしか見れないあなたが可哀想っ」
「可哀想? わたしが?」
柏木の声が一段と低くなる。そんなことを気にすることなく、夏紀はクレナの想いを言葉にして叫んだ。
「外見で判断して中身を全く見れないあなたに、クレナの良さなんかわかりっこない! 中身も見ずに、人を嘲笑うしかできないあなたは可哀想な人じゃない!!」
「あんたなんかに可哀想なんて言われたくないっ!!」
柏木の叫び声とともに、椅子を動かす音がした。クレナは我に返り、震える手でドアノブを回し、一気に扉を開け放つ。
「夏紀っ!!」
柏木さんが振りかざしたパイプ椅子が目に飛び込む。
「クレナっ!?」
驚いた夏紀の瞳がこちらに向けられた瞬間、パイプ椅子が勢いよく振り下ろされた。
「やめてっ!!!!」
夏紀は反射的に、自分の身を守るために両腕を目の前に出した。力任せに振り下ろされたパイプ椅子は容赦なく両腕を直撃し、その直後、辺りに夏紀の悲鳴が響き渡った。
痛みで蹲る夏紀を前に、柏木さんが小さく笑いながらこちらを睨む。
「あんたのせいだからっ」
そうポツリと呟いた言葉に、全身の血の気が引いていった。
悲鳴を聞きつけた先生たちが駆けつけ、騒がしくなったことで他の生徒も集まり出す。
激痛に顔を歪ませる夏紀が運ばれていく光景を、クレナはただ呆然と目で追うことしかできなかった。




