蟹座の君ep0-1
蒸し暑い夏の日差しは、俺たちを裏切った。
突然の雨は、さながらアマゾンのスコールだ。
夕立というには強すぎるし、風ひとつない、じっとりとした粘り気のある重い空気。
胸が突然苦しくなる。
屋上の踊り場から眺める景色は、煙霧に変わった雨粒で濁る。
こんな日はなんだかとても胸が苦しかった。
夏の始まりのこんな日に、嵐はこの雨粒と同じようにはじけ飛んだ。
忘れようとしても忘れられない、きれいな思い出だけ残せればよかったのに。
今日まで、思い出さずに済んだのに、何もかも思い出せる。
嵐一人に記憶全部持っていかれる。
どうでもいい毎日が嵐といるだけで、楽しかった。
高校生活は大学に入るためだけの毎日で、卒業したらそれなりに付き合いも減って、大学に入っても、就職するためで。
そんな生き方しかできない俺は、ひどく退屈で。
消毒液臭い理科室でたまの暇つぶしにカードゲームをしながら、ぼんやりと毎日が過ぎ去って行った。
優良な成績だけ持った俺はただ老いていくだけだった。
実験台の上の散らかったカード、アルコールランプ、砂糖、夏休みの友。
「……お前、新入部員?」
終業式から数時間後のこと。
トイレから戻ると、窓際に背の高い男の背。
「俺、美術部入ってんだわ。」
見覚えのある二枚目、対面すると見下ろされたようで少し鼻についた。
「夏休み、ここで絵描くから、よろしくね。春彦部長。」
「……おまえ、たまにはこっちのにも参加しろよ。」
気楽に絵を描ける、自由な姿は、まぶしかった。
俺にないものを持ってるようなそんな気がして、そんな奴の人生に少しでもかかわれば、少しでも邪魔してやりたかった。
はにかんだ表情で、わかったと言ったその目に俺などは、ほかの大勢と変わらない。俺にとって、クラスメイトがカードゲームのカードと同じで、名前と大雑把な性格を覚える、ただの作業。
暑い日差しと、土砂降りの雨。
異常気象で不安定な天気が続いた。
雨の日は、絵画は一日休みになるはずなのにわざわざ理科室へ赴いて、俺の相手をする。
「おまえ、暇なの?」
不機嫌な俺は、月見酒を完成させながらどこを見るわけでもなく。
ただただ、毎回ぶっきらぼうにそんなことしか聞けなくて。
「んー、暇だな?」
猪鹿蝶、15勝12敗。
「……お前な。」
お昼を知らせるチャイムの音。
「……いいだろ、別に。」
楽しそうに笑う嵐の顔をみると自己嫌悪に落ちる。
「春樹、俺が弁当作ってやろうか?」
「おまえ、何でもできるアピールとか、ほんとイケメン過ぎて引く。」
「……なんだよそれ。」
俺の調子は嵐に引っ張られる。
無理矢理嵐の手料理をたらふく食わされる。
おかげで、コンビニ弁当の出費はほとんどなくなった。
「うまかった。腹いっぱいになったし、ちょっと寝る……。」
「……へそ出して寝ると風邪ひくぞ。」
「……バカにしてんだろ?」
俺のほうが成績だってゲームだっていいのに、こいつは俺のことをよくバカにする。
勉強だけできても仕方ない、とか。
晴れた日は、お昼時以外かまってもらえない。
あぁ、とか、そうだな、とか空返事だけで自分の仕事に集中しきりだから。
黒かったキャンバスも、今は中庭の様子が浮かんできている。
冷房のない理科室、生ぬるい実験台に顔を埋めて嵐の背中を見ているうちに夕方になる。
「……。」
シンナーのような灯油のような独特のにおいで目が覚める。
ぶつかりそうなくらい近くに嵐の顔があった。
「……おはよう。」
不意打ちを食らったようなおかしな声が出る。
悪態をつく俺に、寝顔はかわいいのになと笑いかける。
「おまえ……な、心臓止まるだろが。」
「止まったら俺が蘇生してやる。」
俺たちの関係は、夕日が落ちるように加速していった。




