第九話 魔皇女、相撲観戦に興じる
「すもう、ですって? 何よそれ。名前からして、なんだか締まりのない響きね」
カンカンと容赦なくお天道様が照りつける、夏の盛りの江戸の町。
長屋の四畳半で、ルシエラは煎餅布団の上に寝そべりながら、退屈そうに金髪のツインテールを指先でくるくると弄んでいた。
ドレスの裾から伸びる漆黒の悪魔の尻尾は、暑さと退屈のあまり畳の上をトントンと規則正しく叩いている。
「そんなことないよ、ルシエラちゃん! 回向院で始まる本相撲はね、江戸中のお大名から庶民まで、みんなが仕事を放り出して見に行くくらいの大盛況なんだから! 地響きがするほど大っきな男の人たちが、裸一貫でぶつかり合うんだよ!」
長屋の障子を元気よく開けて飛び込んできた千代が、汗を拭いながらも目を輝かせ、身振り手振りで熱弁を振るう。
「裸一貫でぶつかり合う……? なおさら意味が分からないわ。魔界の決闘といえば、漆黒の鎧を身にまとい、一撃で大地を両断するような暗黒魔法を撃合うものよ。服も着ないで泥まみれになって掴み合うなんて、野蛮というか、芸がないというか……」
ルシエラはふんぞり返り、高貴な魔皇女としてのプライドを隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「ですが、ルシエラ様。相撲は単なる力比べではなく、和の国の神事に起源を持つ格式高い競技です。武器も魔法も持たない人間が、その肉体一つでどこまでの強さに至るのか――それを見極めることは、異界の視察としても無意味ではないかと」
部屋の隅で、いつも通りの黒装束に身を包んだ小夜が、感情の読めない涼しげな瞳でルシエラを見つめた。
「ふん、お前までそんなことを言うのね、小夜。いいわ、そこまで言うなら、和の国の人間の『限界』とやらをこの私が直々に検分してあげるわ。どうせ、魔界の最下級の魔獣の足元にも及ばないような、退屈な見世物でしょうけれど!」
そうして、ルシエラは小夜と千代を従え、相撲興行が行われている回向院の境内へと足を運んだ。
会場の周辺は、千代の言葉通り、人、人、人で埋め尽くされていた。屋台からは香ばしい匂いが立ち上り、木戸口の上には色鮮やかな幟がはためいている。
「うわあ……大きい……!」
境内の一角で、千代が小さく声を上げた。
ルシエラが視線を向けると、そこには、通常の人間とは明らかに桁違いの体躯を持った大柄な男たちが、一人で何俵もの重そうな米俵を軽々と運んでいる姿があった。その背中はまるで岩壁のようで、丸太のような腕には太い筋肉が浮き出ている。
「なーんだ、あれがその『りきし』とかいう大男たちね」
ルシエラは腕を組み、フッと鼻で笑った。
「大きいだけじゃない。あんな泥で作ったような塊を運ぶくらい、魔界の下級魔物だって朝飯前よ! 身体が大きく膨らんでいるだけで、ただの脂肪の塊でしょう。あんな締まりのない肉体で戦うなんて、やっぱり人間のやることは底が浅いわね」
「いいえ、ルシエラ様。彼らの身体は単なる脂肪ではありません。日々の過酷な鍛錬によって培われた、鋼のごとき筋肉の鎧です。武器も魔法も介さないからこそ、純粋な肉体の練度が問われるのです」
小夜は表情を変えずにルシエラの横を歩く。その切れ長な目は、油断なく力士たちの動きを観察していた。
「ふん、言葉だけなら何とでも言えるわよ。さあ、早く中に入りましょう。その『鋼の鎧』とやらが、どれほど脆いものか、私のこの紅い瞳で確かめてあげるわ!」
ルシエラはツインテールを跳ね上げ、勝ち誇ったように笑いながら、賑わう人混みの中へと突き進んでいった。
興行が始まると、回向院の境内を埋め尽くした観客の熱気は最高潮に達した。
中央に設けられた土俵の周囲を、何重もの人間の波が取り囲んでいる。
「東――雷鳴山ぁ。西――黒鉄川ぁ」
呼出の独特な声が響き、二人の巨大な力士が土俵に上がった。
ルシエラは、小夜が隠密の伝手で確保した、見晴らしの良い特等席に腰掛け、最初はつまらなそうに頬杖をついていた。
「待ちなさい、小夜。あの白い粉は何よ?」
「お塩です」
「塩!? あんなものを敵に投げつけるの!? 目潰しにしては量が少なすぎるわね!」
「敵に投げつけるものではありません」
「じゃあ何よ! 戦う前の味付け!?」
「ルシエラ様。力士は食材ではありません。あれは土俵を清めるためのものです」
「なによ、戦う前にお塩を撒いたり、足を地面にドスンと踏み鳴らしたり……。魔界なら、そんな無駄な儀式をしている間に、相手の頭上から黒色の炎を降らせて一瞬で吹き飛ばして終わりよ」
「四股には、大地を鎮める意味もあります。……始まります」
小夜がぽつりと呟いた、その瞬間だった。
――はっけよい、のこった!!
行司の鋭い声と共に、二人の巨漢が、猛烈な速度で正面から激突した。
――ドゴォォォンッ!!
それは、肉体と肉体がぶつかり合ったとは到底信じられない、大地を震わせるほどの凄まじい重低音だった。
激しい衝撃波(とルシエラには感じられた)が土俵から吹き荒れ、観客たちの怒号のような大歓声が回向院を揺らす。
「っ――!?」
ルシエラは思わず頬杖を外し、椅子から身を乗り出した。
土俵の上では、先ほどまで「脂肪の塊」と見下していた大男たちが、汗を飛び散らせながら、凄まじい力と力で押し合っていた。一人が相手の懐に潜り込み、丸太のような腕で回しを掴んで強引に吊り上げようとする。しかし、もう一人の力士も腰を落とし、まるで大樹が根を張るかのように一歩も退かない。
「な、何よこれ……。魔法も、武器も使っていないのに、どうしてあんなに空間が歪んで見えるほどの圧力が放たれているの……!?」
ルシエラの紅い瞳が、驚愕に見開かれる。
魔界の暴力的な力とは違う、純粋な肉体の質量と、それを支える強靭な意志の激突。
押し込まれていた側の力士が、土俵の際で絶体絶命のピンチを迎えた。観客席から「ああっ!」と悲鳴が上がる。
しかし、その力士は一瞬の隙を突き、相手の力を利用して身体を鮮やかに翻すと、豪快な『上手投げ』を放った。
――ドサァァァンッ!!!
巨漢の身体が土俵に叩きつけられ、勝負が決した。
その瞬間、境内を割れんばかりの歓声と、座布団の雨が包み込む。
「ちょっとぉぉぉっ!! 今のは押し返せたでしょう! 何をやっているのよ、あの大男! せっかく最初、有利に押していたのに、どうしてあんな簡単なフェイント(技)に引っかかっているのよ!」
気づけば、ルシエラは席から立ち上がり、誰よりも大きな声を張り上げて土俵に向かって拳を突き出していた。
背中の小さな翼は興奮でバサバサと激しく羽ばたき、漆黒の尻尾にいたっては、まるで千切れんばかりの勢いで左右にブンブンと大暴れしている。
「ルシエラちゃん、すっごく興奮してるねえ!」
千代がケラケラと笑いながらルシエラの背中を叩く。
「こ、興奮なんかしていないわよ! 私はただ、あまりにも戦術が稚拙な大男に対して、皇族としての正当なアドバイス(怒号)を送ってあげているだけなんだから! あーもう、次はどっちが戦うのよ!? ほら、早く次の大男を土俵に上げなさい!」
顔を真っ赤にしてキーキーと騒ぐ魔皇女。
小夜はその様子をじっと見つめながら、相変わらず無表情ではあったが、その瞳の奥には、いつもよりずっと温かい灯火が静かに揺れていた。




