第八話 湯屋は戦場よ!
「……な、何よその、布切れ一枚みたいな破廉恥な姿は! 和の国の隠密というのは、任務中だけでなく普段からそんなはしたない格好で過ごしているの!?」
ある日の夕暮れ時。茜色の斜光が差し込む長屋の部屋の中で、ルシエラは両手で顔を覆いながら、指の隙間から小夜を凝視して声を裏返らせていた。
部屋の隅で着替えを終えた小夜は、いつもの漆黒の装束ではなく、薄手の藍色の浴衣に身を包んでいた。帯を腰の低い位置でゆったりと結び、普段は実用性のために後ろで固くまとめている艶やかな黒髪をほどいて、肩から背中へと流している。首筋から覗く素肌が夕日に白く浮き上がり、いつもよりずっと年相応の少女らしく、同時にどこか目を奪われるような独特の清廉な色香を醸し出していた。
「破廉恥ではありません。これから『湯屋』に行くのです。この辺りの住人も、時折こうして湯屋へ通うのですよ」
小夜は小脇に木製の湯桶を抱え、中に入れた白無地の手拭いを整えながら、相変わらず淡々と答えた。
「ゆ、湯屋ですって? 要するに庶民用の大浴場のことね。冗談じゃないわ! 魔界を統べる一族の皇女たる者が、どこの誰とも知れない有象無象の庶民と同じ湯船に浸かるなんて、高貴なプライドが絶対に許さないわよ! お風呂なんて、宮廷の地下にある私専用の魔力温泉で、一人で贅沢に入るものよ!」
ルシエラはぷいと横を向き、腕を組んで完全にへそを曲げてしまった。しかし、小夜はルシエラのその頑なな拒絶を完全に予測していたようで、音もなくルシエラの前へと歩み寄った。
「ルシエラ様のその魔界の正装は、日中の江戸の町では目立ちすぎます。昨日も子どもたちに『新種の蝙蝠妖怪だ』と騒がれたばかりです。市井に紛れるという任務の都合上、まずはそのお洋服を着替えていただきます」
小夜が畳の上に用意し、広げたのは、ルシエラの小柄な体格に合わせて誂えた、可愛らしい桃色の町娘風の着物だった。
「いやよ! 私はこのブラッド一族の誇り高き漆黒のドレスを脱ぐ気は毛頭――きゃっ!? ちょっと、どこを触っているのよ!」
ルシエラの必死な抗議を完全に無視して、小夜は隠密特有の驚くほど素早く迷いのない手つきでルシエラの衣服の留め具を外し、桃色の着物の袖にその細い腕を通していった。
「じ、自分でできるわよ! 触るんじゃないわよ!」
「いいえ、着物の着付けは複雑です。前合わせを間違えれば死装束になってしまいます。ルシエラ様には無理です。大人しくしてください」
小夜はほぼゼロ距離と言っていい近さでルシエラの身体を正面から包み込み、細い腰に丁寧に帯を巻きつけていく。小夜の冷たい指先が着物の隙間からルシエラの肌に微かに触れるたび、ルシエラの身体はビクリと敏感に跳ね上がり、その顔はみるみるうちに耳の裏まで真っ赤に染まっていった。至近距離から漂う、小夜の髪からの微かな薬草と石鹸が混ざったような香りが、ルシエラの脳を激しく狂わせる。
「……できました。背中の翼と尻尾を隠すために、帯の結び方を『ふくら雀』風に大きくアレンジしてあります。これなら外からは見えません。よくお似合いです、ルシエラ様」
小夜が少しだけ満足そうに、その切れ長の目を細めて呟いた。
ルシエラがおずおずと姿見の鏡に映った自分の姿を見ると、そこには金髪のツインテールに、鮮やかな桃色の着物を着こなした自分がいた。背中の違和感は上手に隠され、どう見ても「地方の裕福な商家から出てきた、世間知らずのお嬢様」にしか見えない。
「ふ、ふん。お前がどうしても私にこれを着せたいって、涙ながらに懇願するから着てあげただけなんだからね。感謝しなさい」
ルシエラはモジモジと着物の裾をいじりながら、いまだに引き切らない顔の赤みを隠すようにそっぽを向いた。
「では、湯屋へ行きましょう。ポン吉、留守番を頼みます。おやつを盗み食いしたら、次は裏庭の木に吊るします」
「ひえっ、分かったぜお隠密の姉ちゃん! 大人しくしてるよぅ!」
縁側の隅で小さくなっていた狸を牽制し、小夜はルシエラの手を引いて長屋を出た。
夕暮れの江戸の町を歩き、二人は大きな瓦屋根の建物――湯屋へと向かった。
「ゆ」と大きく書かれた暖簾をくぐると、中は大勢の町人の女性たちで賑わっていた。湯気で白く煙る浴場の奥からは、楽しげな世間話や、木桶が床を叩く心地よい音が響いてくる。
「さあ、服を脱いでください」
脱衣所に入るなり、小夜が躊躇なく浴衣の帯を解き始めると、ルシエラは本日何度目か分からないパニックに陥った。
「な、何言ってるのよ! お前、そんなあっさりと人前で裸になるなんて、羞恥心という概念が魔界に置き去りになってるんじゃないの!?」
「全員、同じ姿です。ここには敵も味方もありません。恥ずかしがる必要は皆無です」
小夜は驚くほど滑らかな肌を惜しげもなく晒し、赤面して固まっているルシエラの桃色の着物を、手際よく脱がせていった。
「あ、あんまり見ないでちょうだい……っ!」
湯気の中に足を踏み入れると、ルシエラは自分の小さな胸を隠すように両腕を回した。小夜はそんなルシエラの手を引き、湯船の前に来ると、手桶でお湯を汲んでルシエラの足元に掛けた。
「まずは掛け湯をして、身体を湯に慣らします。さあ、湯船へ」
ルシエラはおずおずとつま先を大きな木製の湯船につけた。
「……熱っ!? 何よこれ、和の国の人人間は狂っているの!? マグマの中にでも入るつもり!?」
「江戸の湯は、少々熱めが基本です。肩まで浸かってじっとしていれば、すぐに慣れて心地よくなりますよ」
小夜に背中を優しく押され、ルシエラは覚悟を決めて、ゆっくりと身体を湯船に沈めていった。
最初はその熱さに「ひゃうっ」と小さな悲鳴を上げて顔をしかめていたルシエラだったが、言われた通りにじっと肩までお湯に浸かっていると、不思議なことに身体の芯からじわじわと心地よい温かさが広がっていくのを感じた。異世界転移による極限の疲労や、魔力切れによって常に身体を蝕んでいた冷たい餓感が、温かいお湯の中にみるみる溶けていくかのように軽くなっていく。
「……はふぅ。……悪くない、じゃない……。むしろ、かなり極楽ね……」
ルシエラは湯船の縁に顎を乗せ、うっとりとした、完全に無防備な表情を浮かべた。あまりの気持ちよさに、湯の中に沈めていた漆黒の尻尾が、本人の意思とは裏腹に、お湯をパシャパシャと揺らしながら嬉しそうに左右にゆったりと揺れ動く。
「お気に召しましたか、ルシエラ様」
隣で同じように湯に浸かっていた小夜が、ふっと目を細めた。髪が濡れて肌に張り付き、湯気の中で潤んだ彼女の黒い瞳は、普段の冷徹な人形のような印象を完全に拭い去り、どこか神秘的な美しさを湛えていた。
「べ、べつに気に入ったわけじゃないわよ! 私の高貴な肉体が、和の国の熱水に一時的に適応して、寛大に許してあげているだけよ!」
相変わらずのツンとした強がりを言うルシエラだったが、その表情は完全に弛緩しており、頬は湯の熱さと気恥ずかしさで綺麗な桜色に染まっていた。
「ルシエラ様、背中を流します。こちらへ」
「え? ちょ、ちょっと、背中って……」
小夜はルシエラの背後に回ると、お湯で濡らした手拭いを使って、ルシエラの白い背中を優しく、丁寧に撫でるように洗い始めた。背中の小さな黒い翼が、くすぐったそうにピクピクと震える。
「……小夜、お前、本当に手際が良いわね」
「隠密の修行の一環で、人体の構造は完全に把握していますから。どこをどう刺激すれば、疲労が取れるかも理解しています」
「ふん、相変わらず夢のない理由ね。でも……まあ、悪くないわ」
湯気の中で、お互いの無防備な姿を晒し、同じ温もりに包まれる。言葉数は少なかったが、二人の間に流れる空気は、長屋の四畳半にいる時よりも確実に優しく、そして心理的な距離を劇的に縮めていた。
湯屋からの帰り道、夜風が火照った二人の身体を心地よく冷ましていく。
その時、ぽつり、とルシエラの額に冷たいものが落ちた。
「……何よ、これ」
見上げると、夜空を薄い雲が覆い始めていた。ぽつ、ぽつ、と雨粒が石畳を叩き、やがて細い雨脚となって町を濡らしていく。
「雨ですね」
「見れば分かるわよ! おのれ和の国! せっかく湯屋で温まったというのに、今度は空から水を浴びせてくるなんて!」
ルシエラが憤慨している間に、小夜は手にしていた荷物から一本の和傘を取り出した。
ぱさり、と開いた傘が、二人の頭上を覆う。
「どうぞ、ルシエラ様。こちらへ」
「……は? 何よ、その狭い傘は」
「相合傘というものです。このくらいの雨なら、二人でも濡れずに帰れます」
「誰がお前とそんな狭苦しいところに入るもんですか! 私は魔界の皇女よ! 雨ごときに負けるような軟弱な身体じゃないわ!」
「そうですか」
小夜は無理に勧めなかった。ただ、傘を差したまま、静かにルシエラの隣に立っている。
雨脚が少し強まった。
「……くっ」
ルシエラの金髪から、ぽたりと雫が落ちる。
「ルシエラ様。湯冷めしますよ」
「わ、分かっているわよ! ……仕方がないわね。家臣がお前しかいない以上、特別にその傘へ入ってあげるわ!」
ルシエラはぷいと顔を背けながら、小夜の傘の下へ潜り込んだ。
思っていたよりも、ずっと近い。
「……ちょっと小夜。近すぎるんじゃないの?」
「離れると濡れてしまいます」
「そ、それくらい分かっているわよ!」
小夜は何も言わず、傘を少しだけルシエラの方へ傾けた。
そのせいで、小夜の反対側の肩が雨に濡れていく。
「……お前、肩が濡れているじゃない」
「私は平気です」
「家臣が風邪を引いたら、私の世話は誰がするのよ。もっとこっちに寄りなさい!」
「……御意」
小夜がほんの少しだけ距離を詰める。
ルシエラは何も言わず、ただ真っ赤になった顔を夜道の向こうへ向けた。
雨はしばらく、二人の頭上で静かな音を立て続けていた。
やがて、雨脚が弱まった。
歩きながら、ルシエラは自分の桃色の着物の袖を少しだけ引っ張り、隣を歩く小夜を見上げた。
「……小夜。また、その……身体の魔力が滞ったら、あの湯屋という場所に連れて行ってあげてもいいわよ?」
「はい。主君の健康を維持するのも、家臣の役目ですから。また行きましょう、ルシエラ様」
小夜のその言葉に、ルシエラの尻尾は着物の帯の下で、誰にも見られないように嬉しそうに激しく揺れ動いていたのだった。
同じ頃、江戸城の一角。
薄暗い部屋で、服部景綱は部下から差し出された報告書に目を通していた。
「異界の娘に、特段の異変はありません。ただ、小夜の振る舞いが以前とは少々……」
「構わん。今はまだ、泳がせておけ」
景綱は報告書を閉じた。
「ただし、あれが忍びであることを忘れぬようにな」




