第七話 化け狸と魔界のお姫様
「……ねえ小夜。この和の国には、私のほかにも『尻尾のついた怪異』がそんなにたくさんいるわけ?」
ある日の穏やかな午後、ルシエラは長屋の縁側に腰掛け、退屈そうに自分の漆黒の尻尾を毛並みに沿って優しく撫でていた。
隣では、小夜が器用に小さなクナイを砥石で研いでいる。シャッ、シャッ、という規則正しく小気味よい音が静かな長屋の庭に響く中、くノ一は手元を動かしたまま、いつもと変わらぬ穏やかな声で答えた。
「たくさん、というほどではありません。ですが、江戸の町には人間に混じって、古くからこの土地に棲み着いている妖怪たちが一定数存在します。多くは日々の生活の合間に小さないたずらをする程度ですが、中には高度な術を用いて人を深く化かし、大騒ぎを起こす不届き者もいます」
「ふん。人を化かすだなんて、随分とセコい能力ね。魔界の魔族なら、高度な幻術を使って一国の軍勢を同士討ちにさせるくらい朝飯前よ。そんな矮小な生き物がのさばっているなんて、やっぱりこの世界は刺激が足りないわ」
ルシエラはふんぞり返り、高貴な皇族としてのプライドを隠そうともせずにのぞかせた。しかし、その大口を叩いた直後、長屋の狭い庭に植えられたツツジの植え込みから「ガサガサッ、ガサガササッ」と不自然極まりない大きな音が響き渡った。
「だ、誰よ! 私の悪口を聞いて刺客でも送り込んできたの!?」
ルシエラが反射的に跳び上がると、植え込みの奥から勢いよく転がり出てきたのは、一匹の小さな茶色い動物だった。
丸い身体、短い足、そして目の周りに特徴的な黒い模様のある――どう見てもただの、どこにでもいる野生の狸である。
「なーんだ、ただの野生の獣じゃない。人騒がせな……。驚いて損したわ」
ルシエラがホッと胸を撫でおろした瞬間、その狸が不敵な笑みを浮かべたように見え、ぽんっと小気味よい音を立てて周囲に白い煙を撒き散らした。
「げほっ、げほっ! うう、また失敗したぜ。人間に化けるのは本当に骨が折れるなぁ。お隠密の姉ちゃんたちの前でカッコよく決めるはずだったのに」
煙が薄れていく中から現れたのは、頭に大きな青々とした葉っぱを載せ、二本足で不器用に立つ、人間の言葉を流暢に話す狸だった。
「ひゃあぁっ!? け、獣が二足歩行で喋ったわよ!」
ルシエラは驚きのあまり金髪のツインテールを垂直に跳ね上げ、一瞬で小夜の背中の後ろへと隠れた。漆黒の尻尾は見事にピンと立ち上がり、恐怖と驚愕で小刻みに震えている。
「ルシエラ様、落ち着いてください。これが先ほどお話しした、人を化かす類の妖怪です」
小夜は驚く様子を微塵も見せず、研ぎ澄まされたクナイの切っ先をすっと迷いなくポン吉に向けた。
「化け狸のポン吉。この界隈の茶屋や呉服屋で、物売りの小銭を枯れ葉に変える悪戯を働いていたのはお前ですね。お前の妖気の残滓を追っていましたが、まさか自らここに転がり込んでくるとは」
「ひえっ! お、お隠密の姉ちゃん! 勘弁してくれよ、わしはただ、ちょっとお腹が空いててさぁ! 悪気はなかったんだ、本当に!」
ポン吉は短い両手を頭の上に上げて、涙目で必死に命乞いをした。その情けない様子を見て、ルシエラは小夜の背後からおずおずと顔を出した。
「な、何よ。喋るだけで、ちっとも強そうじゃないじゃない。こんな弱い妖怪に手こずるなんて、和の国の人間の治安維持能力もたいしたことないわね。魔界の最下級の魔獣の方がまだ牙があるわ」
「なんだとぅ!? そっちの金髪の姉ちゃんこそ、見たこともない変な黒い翼と角と尻尾を生やしやがって! わしの変化の術を舐めるなよ! 本気を出せば、どんな姿にだってなれるんだからな! 江戸一番の術師と言われたわしの力を思い知れ!」
ポン吉はルシエラに侮辱されたことに本気で腹を立てたのか、再びぽんっと激しい、先ほどよりも密度の濃い煙を巻き上げた。
「うわっ、また煙!? 衣類に匂いがつくからやめなさいって言っているのよ!」
ルシエラが手で必死に煙を払ったその時、煙の向こう側から「全く、騒々しいですね。少し静かにしてください」という、聞き覚えのある穏やかで冷徹な声が響いた。
煙が完全に晴れる。そこに立っていたのは――黒い装束を隙なくまとい、涼しげな目元をした、小夜と全く同じ姿、同じ体格の少女だった。
「え……? 小夜が、二人?」
ルシエラは完全に目を丸くした。
右側にいる本物の小夜は、眉一つ動かさずに自分そっくりの偽物を冷ややかな目で見つめている。一方、左側にいる『偽物の小夜』は、本物なら絶対にしないような不敵で下品な笑みを浮かべて、ルシエラへと一歩一歩近づいてきた。
「ルシエラ様、どちらが本物か分かりますか? もし間違えるようなら、私はあなたの家臣を今日限りで辞めさせていただきますね。だって、主君としての観察眼が足りないということですから」
偽物の小夜が、意地の悪い口調でルシエラを挑発する。
「な、何言ってるのよ! お前、左側が本物ね!? その生意気で小癪な口の利き方は小夜にそっくりだわ! いつも私をからかって楽しんでいるお前の本性が出ているもの!」
ルシエラが自信満々に左側の偽物を指差すと、右側の本物の小夜がそっとクナイを構え直した。
「ルシエラ様。そちらは偽物です。……一瞬でも迷われるとは、少し傷つきました」
「えっ!? あ、嘘、右が本物なの!? 小夜、今の言葉は忘れてちょうだい!」
大混乱するルシエラを見て、偽物の小夜(ポン吉)はさらに調子に乗った。
「あはは! 騙されたな! 次はこれだぜ、ぽんっ!」
さらなる大きな煙が長屋の庭を覆い尽くす。次に煙の中から現れたのは、美しい金髪のツインテール、紅い宝石のような瞳、背中には小さな黒い翼と、悪魔の尻尾を持つ――ルシエラと全く同じ姿の少女だった。
「な、何よこれぇ! 私が二人いるわよ! 気安く私の高貴な姿を模倣するんじゃないわよ!」
本物のルシエラが叫ぶと、偽物のルシエラも全く同じポーズ、同じ声で「何よこれぇ! 私が二人いるわよ! 気安く私の高貴な姿を模倣するんじゃないわよ!」と叫び返した。
小夜は二人のルシエラを交互に見つめた。顔立ちの美しさ、服装の細かな皺、声のトーンや癖まで完璧に模倣されている。まさに職人技の変化だった。
「ルシエラ様。どちらが本物ですか。私には見分けがつきかねます」
小夜が淡々と尋ねると、偽物のルシエラがすかさず小夜の元へと駆け寄り、その細い腕に全力でしがみついた。
「小夜! 私が本物に決まっているでしょう! そっちの不細工な偽物は今すぐそのクナイで刺してちょうだい! ほら、早く私をぎゅっと抱きしめて、この不安な心を安心させなさい!」
偽物のルシエラは、小夜の胸元に顔を埋めて、いかにも甘えるような、庇護を求めるような仕草を見せた。
それを見た本物のルシエラは、一瞬で頭に血が上った。顔が茹で上がったタコのように真っ赤になり、胸の奥からこれまで感じたことのない、燃え盛るような猛烈な感情が湧き上がる。それは、他人に甘えることが苦手なルシエラにとって、絶対に容認できない、狂おしいほどの『嫉妬』の炎だった。
「ちょっとぉぉぉっ!! 何お前、私の姿で小夜にベタベタと破廉恥に触れているのよ!」
ルシエラは声を裏返らせて激怒した。
「小夜も小夜よ! なんでそんな見え透いた偽物に一瞬でも騙されそうな顔をしているのよ! 私の偽物に、そんな優しい……そんな密着した距離感でいられるの、絶対に、天地がひっくり返っても許さないんだからぁっ!」
ルシエラの感情の爆発に伴い、体内で眠っていた魔界の力が一時的に活性化し、周囲の空間にバチバチと黒い雷撃のような火花が飛び散り始めた。長屋の木製の壁が微かに焦げ始める。
小夜はその危険な瞬間、迷うことなく本物のルシエラの前に踏み込み、彼女の両手首を優しく、しかし確実に制圧するようにがっしりと掴んだ。
「ルシエラ様、落ち着いてください。私は一歩も動いていませんし、騙されてなどいません」
小夜はルシエラの紅い瞳をまっすぐに見つめ、その高鳴る鼓動を落ち着かせるように穏やかに諭した。
「あちらの偽物は、変化の精度が決定的に低いのです。ご覧ください。……お尻のところを」
「え? お尻?」
ルシエラが言われて偽物のルシエラの背後に目を向けると、華やかな桃色の着物の裾からは、細く漆黒の悪魔の尻尾ではなく、ふさふさとした巨大な茶色い『狸の尻尾』が隠しきれずに思い切り飛び出していた。
「あ。……あちゃー、また一番大事な尻尾を隠し忘れたぜ。これじゃ変化の試験は落第だなぁ」
偽物のルシエラが情けない声を上げると、ぽんっと大きな音を立てて、元の小さな狸の姿へと戻ってしまった。
「私は最初から分かっていました。それに、本物のルシエラ様は、そんな風に私に素直に甘えたり、抱きしめてくれなどとはおっしゃいませんから。いつも強がって、ツンツンしているのが本物です」
小夜が淡々と言うと、ルシエラはハッと我に返り、自分が小夜の手を強く握り返したまま、凄まじい大声を上げて嫉妬を撒き散らしていた事実に気づいた。
「あ……。う、嘘、私、今、何を……」
一気に怒涛のような恥ずかしさが押し寄せ、ルシエラは小夜の手を慌てて振り払い、顔を背けて後ろを向いた。背中の翼はこれ以上ないほど固く閉じられ、漆黒の尻尾は、恥ずかしさと自己嫌悪で畳をめちゃくちゃに、激しい音を立てて叩いている。
「ひ、一言言っておくけれど! 今の怒りは、皇女としての唯一無二のアイデンティティを汚されたことに対する、正当かつ公的な抗議よ! お前が他の誰かとどうこうなるなんて、これっぽっちも、爪の先ほども気にしてないんだからね!」
「はい。そういうことにしておきます、ルシエラ様」
小夜は小さく頷き、足元で小さくなって震えているポン吉を見下ろした。
「ポン吉。江戸の町を騒がせ、さらに我が主君の心を著しく乱した罰として、これからはこの長屋の雑用と、飯炊きの手伝いをしてもらいます。拒否権はありません。逃げようとすれば、次は本当にクナイが刺さります」
「ひえ~ん! お隠密の姉ちゃん、勘弁してくれよ~! わしが悪かったよ~!」
「ちょっと待ちなさい、小夜! こいつに料理をさせる気!?」
「はい。野菜を洗う程度ならできるでしょう」
「わし、変化の術なら得意なんだぜ! 大根を百本に増やすくらい朝飯前さ!」
「それは本物の大根なの?」
ルシエラが疑わしげに尋ねる。
「……葉っぱが九十九本だな」
「食べられないじゃないのよ!」
ルシエラは未だに赤くなった顔を両手で隠しながら、ふてくされていたが、その尻尾の先端は、小夜が「本物は分かっている」と言ってくれた安心感からか、本人の意思とは裏腹に、嬉しそうに小さく左右に揺れていたのだった。




