第六話 尻尾は嘘をつけない
「お前、また出かけるの?」
長屋の狭い一室に、夜の帳がすっかりと下りた頃、ルシエラは煎餅布団の上に寝転んだまま、不機嫌そうに声を尖らせた。
部屋の隅では、小夜が昼間の町娘風の身なりから、漆黒の装束へと着替えを終えるところだった。背中には数本のクナイや手裏剣を忍ばせ、腰には捕縛用の縄と煙玉。月光が障子を透かして、彼女の冷徹な横顔を白く照らし出している。
「はい。夜の江戸には、人間に害をなす怪異や、不穏な動きをする輩が紛れます。それらを密かに排除するのも、幕府隠密としての私の役割です」
小夜は感情の混じらない声で淡々と答え、足袋の紐をぐっと締め直した。
「ふん、勝手にすればいいわ。お前がいない方が、この狭い部屋を広く使えて精々するというものよ」
ルシエラはふいと壁の方を向き、背中を向けた。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の漆黒の尻尾は、まるで主人の不安を代弁するかのように、畳の上を力なくトントンと叩いていた。
魔界にいた頃のルシエラは、常に誰かに『待たれる』存在だった。
皇女である彼女が命令を下せば、配下の魔族たちは命を懸けて任務へ赴き、彼女はただ宮廷の玉座でその帰りを待っていればよかった。誰かが自分の目の前からどこかへ行くのを、自分が寂しく見送るなどという経験は、これまでの人生で一度もなかったのだ。
「……早く帰ってきなさいよ」
ルシエラの口から、微かな、しかし明確な呟きが漏れた。
「え?」
小夜が動きを止め、少しだけ首を傾げる。
「な、何でもないわよ! 聞こえなかったのならそれでいいわ!」
ルシエラは慌てて布団を頭まで被り、声を荒らげた。
「勘違いしないでよね! べつに、お前が心配なわけじゃないんだから! 私の『家臣』が勝手にどこかで野垂れ死んだら、私の名誉に関わるでしょう!? だから、私のためにさっさと戻ってきなさいって言っているのよ!」
布団の中で顔を真っ赤にしながら叫ぶルシエラ。
しかし、その頭の上からは、隠しきれない二本の角がひょっこりと覗いており、布団の裾からは、小夜の方を向いて期待を込めるようにピーンと直立した尻尾が見えていた。
「……御意」
小夜の薄い唇の端が、ほんのわずかに綻んだ。
彼女は音もなくルシエラの枕元へと近づくと、被せられた布団の端を優しく掴み、ルシエラの真っ赤になった顔を覗き込んだ。
「な、何よ!? 顔が近いのよ!」
「ルシエラ様。口ではどれほど冷たいことをおっしゃっても、あなたの尻尾は非常に正直ですね」
小夜は真顔のまま、布団から突き出たルシエラの尻尾の先を、人差し指でツンと突いた。
「ひゃうんっ!? な、何するのよ!」
敏感な場所を触られたルシエラは、まるで電流が走ったかのように身体を跳ね上げ、両手で必死に自分の尻尾を抱え込んだ。
「嬉しいと揺れ、驚くと立ち、落ち込むと垂れる。……昨夜から観察していましたが、ルシエラ様の尻尾は、あなたの感情と完全に連動しているようです。つまり、今は私に行ってほしくない、と」
「ち、違うわよ! これは和の国の気候のせいで、勝手に痙攣しているだけよ!」
必死に言い訳を並べ立てるルシエラだったが、抱え込んだ尻尾は、小夜に触れられた余韻でいまだに小刻みに震えている。嘘をつくのがこれほど下手な生き物を、小夜は見たことがなかった。
「分かりました。痙攣ということで処理しておきます」
小夜は立ち上がり、今度こそ障子戸に手をかけた。
「ちょっと待ちなさい、小夜」
布団から顔を半分だけ出したルシエラが、その背中に向かって少し真面目なトーンで声をかけた。
「その……人間の隠密って、みんなお前みたいに自分の命を軽く扱うの?」
小夜は振り返り、その無表情な瞳でルシエラを見つめ返した。
「軽く扱っているつもりはありません。ただ、命令を遂行すること、それだけが私の生きる目的ですから。任務の過程で命を落とすことがあれば、それは単に私の技術が未熟だったというだけの話です」
「そんなの、おかしいわよ」
ルシエラは不満げに頬を膨らませた。
「魔界じゃ強い奴が弱い奴を従えるけれど、従う側だって自分の命は惜しいものよ。お前には『自分がどうしたいか』っていう意思がないの?」
「自分が、どうしたいか……」
小夜はその言葉を口の中で繰り返した。
幼い頃から忍びの里で「主命に従うこと」だけを叩き込まれてきた彼女にとって、「自分の希望」などという概念は、存在すら知らぬ異国の言葉のようなものだった。だから、ルシエラから向けられたその問いは、小夜の心の奥底にある固い塊を、ほんの少しだけ揺さぶるような響きを持っていた。
「分かりません。考えたこともありませんから」
小夜は小さく首を振ると、再び障子戸に手をかけた。
だが、戸を開ける直前、小夜の手が一瞬だけ止まった。
これまで幾度となく夜の任務に赴いてきたが、帰りを待つ者などいなかった。
今夜は、違う。背後から聞こえる騒がしい声を、小夜はもう一度だけ振り返って確かめた。
「長屋の周囲には、簡易的な結界を張っておきました。私の帰りが遅くなっても、決して外には出ないでくださいね」
「わ、分かっているわよ! お前こそ、怪我なんかしたら承知しないんだから!」
ルシエラの怒声に見送られながら、小夜は夜の闇へと姿を消した。
カサリ、と障子が閉まり、部屋の中に完全な静寂が訪れる。
「……本当に、なんなのよあの娘は」
ルシエラは抱え込んでいた尻尾を離し、ぽつりと呟いた。
胸の奥が、なんだか妙にざわざわとして落ち着かない。
暗い部屋の中で、ルシエラは畳の上に仰向けになった。窓の外から差し込む月光を見つめながら、小夜が「命令だから」と淡々と危険に身を晒しにいった横顔を思い出す。
「私の家臣のくせに、私以外の命令で死にそうになるなんて、絶対に許さないんだから……」
そう自分に言い聞かせるように呟くものの、誰もいない四畳半の空間はひどく寂しく感じられた。
ただ一つ確かなのは、小夜が部屋を出ていった瞬間から、ルシエラの尻尾は完全に元気をなくし、畳の上にだらりと垂れ下がってしまったということだけだった。




