第五話 魔皇女、緑の悪魔に挑む
モグ、モグ。
力強く二回、噛み締めた。
タイの歯ごたえと共に、隠されていた緑色の悪魔が、口内で完全に破裂した。
「――っ、ふ、ふん? なぁんだ、やっぱりたいしたことな――」
言いかけた、その直後だった。
「――っ!?!?!?」
ルシエラの身体が、まるで落雷を直撃されたかのように、ビクンッと激しく硬直した。
紅い瞳が限界まで見開かれ、みるみるうちに大量の涙が溢れ出してくる。
唐辛子のような、口の中が焼け付くような熱い痛さではない。
それは、揮発性の凄まじい破壊力を伴った、鋭利な刃物のような刺激だった。口内から鼻腔の奥へと一気につき抜け、脳髄を直接ハンマーで殴りつけるような、強烈なツーンとした衝撃。あまりの刺激に、頭のてっぺんの角が小刻みに震え始める。
「ふ、ふぎゃあああああっ!?!? な、何よこれぇぇぇっ! は、鼻の奥から……鼻の奥から魔界の門が強制開門したわよぉぉぉぉっ!!」
ルシエラは両手で鼻を完全に押さえ込み、椅子から転げ落ちんばかりに激しく悶絶した。
金髪のツインテールは完全に逆立ち、背中の翼は驚愕のあまりピンと直立。そして何より、漆黒の尻尾は「助けて!」と叫ぶかのように、地べたをバチバチバチバチと凄まじい速度で連続して叩きつけ、周囲の砂埃を巻き上げていた。
「ひーはーっ! 呼吸が……呼吸をするたびに、鼻の粘膜に魔界の暗黒物質が直接注ぎ込まれているみたいに痛いわよぉ! お、おのれ緑の悪魔め! 私を暗殺する気ね!?」
涙をボロボロと流し、顔を真っ赤(というよりは、もはや茹で上がったタコのように)にして取り乱す魔皇女の姿を見て、千代はついに耐えきれず、お腹を抱えて大爆笑した。
「あははははははっ!! お腹痛い! ルシエラちゃん、顔! 顔が凄いことになってるよ! それに尻尾が太鼓打ってるみたいに地べた叩いてる! あはははは!」
「わ、笑うな下等庶民! 笑っていないでこの私を救いなさい! 死ぬ、高貴な私が草の汁で死んでしまうわぁ!」
大パニックに陥るルシエラに対し、小夜だけは終始、完全に冷静だった。
彼女は隣の木桶から、湯気の立つ温かいお茶が入った湯呑みを取り出すと、驚くほど迷いのない滑らかな動作で、ルシエラの口元へとすっと差し出した。
「ルシエラ様、騒ぐと余計に刺激が鼻に抜けます。これを口に含んで、ゆっくりと息を吐いてください」
「毒殺じゃないでしょうね!?」
「家臣が主君を殺すわけがありません。早く」
小夜の穏やかだが絶対的な声に圧され、ルシエラはひっく、としゃくり上げながら、差し出されたお茶をゴクゴクと必死に飲み干した。
温かいお茶が口内のわさびの成分を優しく洗い流し、喉を通り過ぎていく。
数秒後、あれほど強烈だった刺激が嘘のように引き、鼻の奥に爽やかな風が吹き抜けるような、奇妙な静寂が訪れた。
「……はふぅ。……た、助かったわ……。三途の川の向こうで、お父様(魔王)が手を振っているのが見えた気がしたわ……」
ルシエラは屋台のカウンターにぐったりと突っ伏した。
激しく暴れていた尻尾も、今は完全にエネルギーを使い果たしたように、椅子の下にだらりと力なく垂れ下がっている。
「大将、悪ノリが過ぎます」
小夜がいつもの無表情のまま、店主に向かってキィン、と冷たい殺気を僅かに放った。
「ひっ……! す、すまねえお隠密のお姉ちゃん! ちょっと異国のお嬢ちゃんの反応が見たくて、つい多めに入れちまったんだ! 次はちゃんと『サビ抜き』、あるいはほんの少し香る程度にするから勘弁してくれ!」
店主は顔を青くしてペコペコと頭を下げた。
ルシエラは涙目を手拭いで拭いながら、未だにツーンと残る鼻の奥の余韻に、悔しそうに唇を噛むのだった。
その後、小夜が店主に細かく指示を出し、わさびの量を「耳かきの先にちょこんと載る程度」という、ルシエラが美味しく食べられる絶妙な量へと調整してもらった。
「……ふん。これくらいなら、高貴な私への程よいアクセントとして許してあげないこともないわ」
一度辛みを克服(調整)したルシエラは強かった。
サビ加減を完璧にコントロールされたタイや穴子の握りを、次々と口に運んでは、「美味しいわこれ!」「このコリコリした食感は魔界のツノトカゲに似ているけれど、上品さが段違いね!」と、またしても翼をパタパタ、尻尾をブンブンと振らせて夢中で貪り食ったのだった。
すっかり上機嫌になったルシエラを連れて、小夜と千代が次に足を止めたのは、香ばしい胡麻油の匂いが漂う天ぷらの屋台だった。
「大将、エビの天ぷらを一本」
小夜が注文し、串に刺された揚げたての天ぷらを受け取った。その姿を見た瞬間、ルシエラは「ひゃうっ!?」と短い悲鳴を上げて飛び退いた。
「ちょ、ちょっと小夜! 何よその、金色に呪われた不気味なトゲトゲの塊は! しかも先端に赤くて鋭い毒針がついているじゃない! この私を暗殺する気ね!?」
「ただのエビの天ぷらです。毒針ではありません」
油断なく身構えるルシエラに対し、小夜は淡々と天ぷらを差し出す。
「ふ、ふん、騙されないわよ……。でも、お前がどうしても食べてほしいと涙ながらに懇願するなら、一噛みしてあげるわ!」
ルシエラは目を瞑って覚悟を決め、ガブリとトゲトゲの衣に噛み付いた。
――サクゥッ!
「……っ!?」
その瞬間、ルシエラの紅い瞳が見開かれた。
(な、何よこれ! 歯触りが最高に心地よいわ……っ!)
軽快な衣の食感の直後、中から弾け飛んだのは、驚くほどプリプリとした身の甘み。さらに恐る恐る齧った『毒針』ことエビの尻尾も、香ばしい煎餅のようでたまらない美味だった。
「このサクサクの魔術! こんな美味しいもの、魔界でも味わったことがないわ!」
ルシエラは満面の笑みで天ぷらを平らげた。
「あはは! ルシエラちゃん、さっきは『暗殺される』って大騒ぎしてたのに、いま尻尾がちぎれそうなくらい動いてるよ? 毒針、すっごく美味しかったんだね!」
千代がケラケラと笑いながらからかうと、ルシエラはハッと我に返り、顔を茹で上がったタコのように真っ赤に染めた。
「ちょ、ちょっと千代! 余計なことを言うんじゃないわよ! これは、家臣の小夜が毒を盛っていないか入念にチェックしてあげただけなんだからね!」
慌てて自分の漆黒の尻尾を両手でギュッと抱え込み、必死に動きを止めようとするポンコツ魔皇女。その姿に、小夜の薄い唇の端も綻ぶのだった。
☆
日も傾き、江戸の町が美しい茜色の夕日に染まる頃。
千代と別れたルシエラと小夜は、二人で静かな長屋への帰り道を歩いていた。
下駄をカラン、コロンと不器用に響かせながら、ルシエラは自分のドレスの袖をもじもじと弄り、隣を歩く小夜を盗み見るように見上げた。
お寿司と天ぷらでお腹がいっぱいになった満足感と、昼間の大失態の気恥ずかしさが混ざり合い、彼女の頬は夕日の赤さ以上にほんのりと桜色に染まっている。
「……ねえ、小夜」
「はい、何でしょうか、ルシエラ様」
小夜は前を見据えたまま、いつも通りの静かなトーンで応じる。
「今日のお寿司と天ぷらっていうの? ……まぁ、その、お前がそこまで言うだけあって、確かに悪くはなかったわ。お団子とはまた違う、和の国の『凄み』みたいなものは、この私の高貴な舌がしっかりと受け止めてあげたわ」
「それは何よりです。案内した甲斐がありました」
「でも! 次は私の番よ!」
ルシエラは不意に立ち止まり、小夜の前に回り込んで、胸を張って家臣を見下ろした。
金髪のツインテールをキッと揺らし、漆黒の尻尾を、どこか照れ隠しのようにパタパタと激しく左右に動かす。
「いつもいつも、お前が決めた料理ばかり食べさせられて、私がただ従っているみたいで癪だわ! だから……その……次のお出かけの時は、お前の好きな料理を私に食べさせなさい! これは主君としての『命令』よ!」
「私の、好きな料理……ですか?」
小夜は動きを止め、少しだけ首を傾げた。
「そうよ! 家臣がどんなものを好んで食べているのかを把握するのも、優れた統治者の義務なのよ! だから、お前が一番『美味しい』って思うものを、この私に直々に教えなさいって言っているの! 分かった!?」
顔を真っ赤にしてキーキーと詰め寄るルシエラ。
しかし、その大きな紅い瞳には、小夜を深く思いやるような、純粋で真っ直ぐな温もりが宿っていた。
小夜は、自分を見つめるルシエラの顔を、じっと見つめ返した。
胸の奥底にある固い塊が、またしても雪解けのように、じわじわと温かい熱を持って揺らぎ始める。
「……分かりました」
小夜の薄い唇の端が、本当に微かに、しかし確かに、愛おしそうに結ばれた。
それは、いつもはお人形のようだと称される彼女が、ルシエラの前でだけ見せる、これ以上ないほど優しい『微笑み』だった。
「私がいつも仕事の合間に食べている、干し肉と、それから……少しだけ贅沢な、お揚げの入ったお狐うどんの店があります。次は、そこへお連れしますね」
「ふ、ふん! ただの乾燥した肉と、狐の好物なんて、随分と庶民的ね! いいわ、私の寛大な心で、そのお揚げとやらを評価してあげるから、楽しみにしていなさい!」
ルシエラは勝ち誇ったように腕を組み、再びフイと前を向いて歩き出した。
しかし、漆黒のドレスの裾から覗く尻尾だけは、小夜との次の約束が嬉しくて仕方がないように、楽しそうに左右へ揺れ続けていた。
その頃、江戸の町外れにある竹林では、奇妙な現象が起きていた。
風もないのに竹の葉が揺れ、地面に落ちた影が、ほんの一瞬だけ赤黒く染まる。
それは、かつて一人の魔皇女がこの世界へ落ちてきた場所だった。
やがて影は元に戻り、竹林には何事もなかったかのような静寂が訪れた。




