第四話 魔皇女、初めての握りずし
「ふん! 認めてあげるわ。この国の食べ物も、少しは魔界の宮廷料理に近づいてきたようね!」
からりと晴れ渡った江戸の夏空の下。長屋の縁側に腰掛けたルシエラは、不遜極まりない態度で胸を張った。金髪のツインテールを誇らしげに揺らし、琥珀色のタレが薄く残るお団子の串を小夜へと突き出す。
その背後では、漆黒のドレスの裾から覗く悪魔の尻尾が、満足感を表すようにゆったりと左右に揺れていた。
「それは光栄です、ルシエラ様。千代も、そこまで気に入っていただければ喜ぶでしょう」
傍らで黙々と砥石を動かし、クナイを研いでいた小夜は、いつも通りの無表情で淡々と答えた。その切れ長な目元には感情の起伏こそ見当たらないが、手元を動かす動作にはどこか柔らかい空気が馴染んでいる。
ルシエラがこの「和の国」に墜ちてから、数日が経っていた。
最初は「おのれ和の国!」と呪詛を吐き散らし、監禁された(と本人は主張する)四畳半の長屋で畳を睨みつけていた魔皇女だったが、小夜に与えられた『みたらし団子』をきっかけに、この世界の食文化、とりわけ甘味に対する評価を劇的に改めつつあった。
今日も今日とて、千代の店で焼き立ての団子を三本も平らげ、魔力切れによる飢餓感を心地よく満たしたばかりである。
「当然よ! 私は魔界を統べる由緒正しきブラッド一族の皇女。この私が口にしてあげるのだから、和の国の料理人たちは泣いて五体投地すべきなのよ。……でも、まぁ。米を丸めて甘辛いタレをつけただけの割には、脳を蕩けさせるような絶妙な噛み応えだったわ。特にあの焦げ目の苦味とタレのハーモニーは、魔界の黒炎鳥の丸焼きにも匹敵する隠し味ね!」
「そこまで分析していただけるとは。しかしルシエラ様、江戸の食文化は団子だけに留まりません」
小夜は研ぎ終えたクナイを懐に収めると、すっと立ち上がった。藍色の町娘風の浴衣を揺らし、ルシエラを真っ直ぐに見つめる。
「団子という和菓子を通じて、この国の『甘味』と『調和』はご理解いただけたかと思います。なればこそ、次は江戸の本質とも言える、最も活気ある名物料理を体験していただくのが、監視役……いいえ、家臣としての務めかと」
「江戸の本質? 何よそれ。お団子以上に私を満足させる食べ物が、この不便な人界にあるというの?」
ルシエラは怪訝そうに片方の眉を跳ね上げた。尻尾が不審げにピキピキと小刻みに揺れる。
「『握りずし』と呼ばれる料理です。屋台で手軽に食べられる、今、江戸で最も流行している庶民の味です。千代も今日は店の手伝いが休みだそうで、一緒に行きたいと申しておりました」
「すし……? 聞いたこともないわね。いいわ、そこまで言うなら、お前たちの案内について行ってあげるわ。言っておくけれど、私の舌は魔界一肥えているんだから、中途半端なもので私をごまかそうとしたら、その時は家臣の給金を容赦なくカット(団子の支給停止)してあげるからね!」
「御意。では、参りましょう」
小夜は小さく一礼した。その薄い唇の端が、ルシエラには気づかれないほどの僅かな幅で、柔らかく綻んでいた。
江戸の大通りは、今日も多くの町人や商人が行き交い、お祭りのような活気に満ちていた。
その大通りの一角、よしずを立て掛けた小さな屋台の前に、ルシエラたちは立っていた。
「わあ、ルシエラちゃん、小夜ちゃん! こっちこっち! ここの大将の握るお寿司はね、ネタが新鮮で江戸一番なんだから!」
赤を基調とした元気な着物に前垂れを締めた千代が、お団子頭を揺らしながら手招きする。
「おや、小夜ちゃんに……そっちの金髪の可愛いお嬢ちゃんは、噂の異国のお姫様かい? いらっしゃい!」
ねじり鉢巻を締めた店主が、威勢よく声を張り上げた。
ルシエラは屋台のカウンターに並べられた「それ」を、あからさまに見下ろすような視線で睨みつけた。
「……ちょっと小夜。お前、私を馬鹿にしているの?」
ルシエラの紅い瞳に、明確な不快感が灯る。金髪のツインテールが不機嫌そうに逆立ち、ドレスの裾からのぞく尻尾が、地べたをペチペチと叩き始めた。
「とんでもありません。何が不満でしょうか、ルシエラ様」
「何が不満かって、全部よ、全部! 何よこれ、生の魚の切れ端を、ただ米の上に載せただけじゃない! 火すら通していない、ただの原始的な未完成品を料理と呼ぶなんて、片腹痛いわ! 魔界の宮廷料理ではね、食材はすべて最高位の黒色火炎でじっくりと焼き上げ、悪魔の毒液でデコレーションされたものこそが至高なのよ! こんな地味で工夫のない泥臭い食べ物、皇族である私が口にできるわけがないでしょう!」
ルシエラは腕を組み、ぷいと横を向いた。
「絶対に食べないんだから!」という強い意志を示すように、背中の小さな黒い翼をパタパタと拒絶の形に羽ばたかせる。
「まぁまぁ、ルシエラちゃん。見た目で判断しちゃダメだって! 和の国の料理はね、『素材の味をそのまま活かす』のが粋なんだから。ほら、騙されたと思って一口食べてみてよ!」
千代がケラケラと笑いながら、小ぶりの木皿に載った、美しい赤身の「マグロの握り」をルシエラの前へと突き出した。
漂ってくるのは、ほんのりと酸味のある酢飯の香りと、醤油のみずみずしい匂い。お団子の時とはまったく違う、だが確かに食欲を強烈に刺激する未知の香りが、魔皇女の鼻腔をくすぐる。
「くっ……!」
ルシエラの喉が、あからさまにゴクリと鳴った。
本人の拒絶とは裏腹に、極限の魔力切れを経験している彼女の身体は、目の前の生命力に満ちた栄養源を求めてしまっていた。抱え込もうとした尻尾の先端が、期待で小さくピクピクと震える。
「……ふ、ふん。家臣であるお前たちが、そこまで私に食べてほしいと涙ながらに懇願するなら、一口だけ毒味をしてあげてもいいわ。これは皇女としての慈悲よ、慈悲!」
捨て台詞を吐きながら、ルシエラは不器用な手つきで箸を持ち、マグロの握りをつまみ上げた。そして、目を瞑って覚悟を決めるように、大きな口を開けて一口でパクリと放り込んだ。
モグモグ、と咀嚼する。
その瞬間、ルシエラの紅い瞳が、カッと見開かれた。
(な、何よこれ……っ!?)
口の中に、未体験の衝撃的な美味が広がった。
ねっとりとしたマグロの濃厚な旨味が、舌の上で体温に溶けるように滑らかに広がっていく。それを追うように、絶妙な硬さで炊かれた酢飯のさっぱりとした酸味と仄かな甘みが、魚の脂を完璧に調和させて引き立てていた。
噛めば噛むほど、米の一粒一粒から放たれる温もりと魚の鮮烈な味が一体となり、脳の髄まで染み渡っていく。
「――っく!」
ルシエラはあまりの美味しさに身悶えした。
背中の翼がバサバサと激しく羽ばたき、漆黒の尻尾は、まるで千切れんばかりの勢いで左右にブンブンと大暴れし始める。
「……な、何よこれ。見た目は地味なのに、妙に美味しいじゃない……!」
「おっ、気に入ってくれたかいお嬢ちゃん! 職人として最高の褒め言葉だねえ! よし、それなら大将、調子に乗っちゃうぞ! 次はこの江戸前の最高の一品を喰いねえ!」
ルシエラの正直すぎる大喜びの反応(主に尻尾の暴れっぷり)を見て、すっかり上機嫌になった店主は、手際よく次のネタを切り出した。
白身の美しい魚を素早く飯に載せ、職人技の動きでキュッと握る。
その際、店主はいたずらっぽく笑いながら、いつもより少々多めに、ある「緑色の塊」を魚と飯の間に忍ばせたのだった。
「はいよ! 特製タイの握りだ!」
差し出された新たな握りずしを、ルシエラは潤んだ瞳で凝視した。
透き通るような美しい白身の魚。しかし、その隙間から、何やら鮮やかな『緑色の泥のような薬味』が、うっすらとのぞいているのが見えた。
「あら? 何かしら、その魚の間に挟まれている緑色のものは」
ルシエラが首を傾げると、小夜が淡々と答えた。
「それは『わさび』と呼ばれる和の国の辛い薬味です。魚の生臭さを消し、味を引き締める効果があります」
「わさび……?」
ルシエラはその不気味なほど鮮やかな緑色を見つめ、フッと不敵な笑みを浮かべた。魔皇女としての天才的な(と本人は思い込んでいる)妄想が、脳内で瞬時に組み上がる。
「なるほどね、分かったわ。これはただの薬味じゃないわね。この瑞々しい魔力の輝き……きっと、体内の滞った波動を一気に活性化させる、和の国の秘薬か何かに違いないわ! お前たち、この私が『辛み』という概念に対して怯むとでも思ったの?」
ルシエラは胸を張り、これ見よがしに店主を睨みつけた。
「言っておくけれど、私は魔界を統べる皇女よ? 魔界の最下層にある灼熱の溶岩地帯に群生する『獄炎唐辛子』を、生のまま百本丸かじりしても、平気で高笑いしていられる高貴な皮膚と胃袋を持っているのよ! こんな和の国の、ひ弱な緑色の草をすり潰しただけのものなど、私の敵であるはずがないわ!」
「ルシエラ様、わさびの刺激は唐辛子とは少々性質が――」
小夜が穏やかに注意を促そうと手を伸ばしたが、プライドが最高潮に達したルシエラを止めることはできなかった。
「うるさいわね! 家臣の分際で私の胃袋にケチをつけるんじゃないわよ! 見ていなさい、この緑の草ごと、一瞬で咀嚼して私の血肉に変えてあげるわ!」
ルシエラは勢いよく箸でタイの握りをつまみ上げると、わさびがたっぷりと仕込まれたそれを、豪快に一口で口の中へと放り込んだ。




