第三話 魔皇女、団子に敗北する
「おのれ和の国……! どこまで私を歩かせる気よ!」
カンカンと照りつける夏のお天道様の下、ルシエラは慣れない未舗装の土を踏み締めながら、忌々しげに声を荒らげていた。
長屋を出て、小夜に連れられるがままにやって来たのは、江戸の活気溢れる大通りだった。すれ違う人々は皆、髷を結い、着物という奇妙な布を身体に巻きつけて歩いている。魔界のトゲトゲした鎧や妖艶なドレスとは違い、どこか垢抜けない、だが妙に賑やかな光景が広がっていた。
「少しは歩かないと、身体の鈍りが取れません。魔力を回復させるためにも、この世界の空気に慣れてください」
「ふん、命令するんじゃないわよ! 私は歩くためではなく、他者を跪かせるために生まれてきたの!」
ルシエラは胸を張り、周囲の人間を威圧するように睨みつけた。金髪のツインテールに、頭から生えた二本の角。背中には折り畳まれた黒い翼、そして漆黒のドレスの裾から覗く悪魔の尻尾。どう見てもカタギの人間ではないその姿に、道行く町人たちが「なんだあ、あの異国のお嬢ちゃんは……」「新種の妖怪かい?」とヒソヒソと囁き合う。
「……みんなして私をジロジロ見て。やはり、私の気高さに圧倒されているのね」
「いえ、単に目立っているだけです。近いうちに、その服もなんとかしなければなりませんね」
小夜は表情を変えずにルシエラの横を歩く。その視線は、周囲の怪しい人影や、ルシエラに害をなそうとする妖気がないか、常に油断なく光っていた。
「あ、小夜ちゃん! お勤めの帰り?」
不意に、明るく弾んだ少女の声が響いた。通りの一角にある、よしずを立て掛けた小さな茶屋から、一人の少女が手を振りながら駆け寄ってきた。
年齢は小夜と同じ、十五、六歳ほど。赤を基調とした元気な着物に前垂れを締め、お団子頭を結った、いかにも町娘といった佇まいの少女だ。
「千代。いえ、今は任務中ではなく、巡回です」
小夜が足を止め、その少女――千代に向かって小さく会釈した。
「そっかぁ。って、ちょっと待って! その隣にいる可愛い子はだれ!? うわあ、金髪! それに背中になんかついてる! 異国のお人形さんみたい!」
千代は目を輝かせ、ルシエラの顔のすぐ近くまで距離を詰めてきた。
「な、なな、何よお前! 近すぎるわよ!」
ルシエラは思わずのけぞり、顔を真っ赤にして威嚇した。
「無礼者! 私は魔界の皇女、ルシエラ・ヴァン・ブラッドよ! お人形さんだなんて、そんな安っぽい玩具と一緒にするんじゃないわ!」
「わあ、喋った! ちょっとツンツンしてて可愛い! ルシエラちゃんって言うんだね!」
「ちゃん……っ!? この私をちゃん付けするな!」
確かにルシエラの外見は、人間でいう十六歳ほどの少女そのものだった。しかし、実際には数百年を生きている魔族である。魔界では誰もが恐れ敬う皇女を、年端もいかない人間の小娘が気安く「ちゃん」付けで呼ぶなど、彼女にとっては前代未聞の無礼だった。
激怒するルシエラを見て、千代は怖がるどころか、ケラケラと楽しそうに笑った。
「あはは、面白い子! あたしは千代。ここの団子屋の看板娘だよ。よろしくね、ルシエラちゃん!」
「よろしくされてあげないわよ! 大体、私はお前みたいな下俗な庶民が食べる物なんて――」
言いかけたルシエラの鼻腔を、ふわりと香ばしい匂いがくすぐった。
店の奥の焼き台で、網の上に載せられた丸いお団子が、パチパチと音を立てながら、香ばしい焦げ目をつけている。そこへ千代の父親らしき職人が、たっぷりと濃い醤油のタレを絡めると、じゅわぁっと堪らない匂いが辺り一面に広がった。
「くっ……!」
ルシエラの喉が、あからさまにゴクリと鳴った。昨夜、小夜から貰って食べたあの『みたらし団子』の味が、鮮烈に脳裏に蘇る。
小夜はその様子を見逃さず、懐から数枚の文銭を取り出して千代に手渡した。
「千代、みたらしを二本、ここで」
「はーい、毎度あり! すぐ焼くから待っててね!」
「ちょっと小夜! 勝手なことするんじゃないわよ! 私はお腹なんて空いてないし、こんな丸めただけの安っぽい食べ物、もう一度食べる必要なんて――」
ルシエラが必死に拒絶の言葉を並べる。しかし、その背後では、漆黒の尻尾がすでに期待でブンブンと左右に振られていた。
「はい、お待たせ! 焼き立ての特製みたらし団子だよ!」
千代が持ってきた皿には、琥珀色のタレがたっぷりとかかった、出来立ての団子が載っていた。湯気と共に立ち上る甘辛い香りは、暴力的なまでにルシエラの理性を脅かす。
「……ふん。お前たちが、そこまで私に食べてほしいと言うなら、一本だけ付き合ってあげてもいいわ。これは慈悲よ、慈悲!」
ルシエラは言い訳を並べ立てながら、ひょいと団子の串を手に取った。そして、大口を開けて思い切り齧り付く。
「――っ、ひゃんっ!?」
熱々の団子が口の中で弾けた。昨夜のものとは違い、焼き立ての香ばしい焦げ目の苦味と、濃厚なタレの甘みが完璧なハーモニーを奏でている。もちもちとした生地が歯を押し返すたびに、タレの旨味が口いっぱいに広がっていく。
「おいしい……美味しいわこれ……!」
ルシエラの紅い瞳が、感動のあまり潤んだ。プライドも何もかもを放り出し、残りの団子を夢中で口に運んでいく。あまりの幸福感に、背中の翼はバサバサと激しく羽ばたき、尻尾に至っては地べたを叩く勢いで大暴れしていた。
「もう一本、食べてあげてもいいわよ! 早く持ってきなさい!」
口の周りに茶色いタレをべったりとつけた魔皇女が、空になった皿を何度も突き出して声を張り上げる。その姿を見て、千代はお腹を抱えて大笑いした。
「あはは! ルシエラちゃん、本当にお団子が好きなんだね! あ、口の横にタレがついてるよ?」
千代が手拭いを取り出そうとすると、その前に小夜がすっと手を伸ばした。
小夜は懐から取り出した懐紙で、ルシエラの口元についたタレを、驚くほど迷いのない動作で優しく拭い取ったのだ。
「あ、ちょっと……!?」
突然の距離感に、ルシエラの顔が今度はお団子のタレよりも真っ赤に染まった。
「な、何するのよ! 汚いものでも触るみたいに!」
「家臣ですから、主君の身なりを整えるのは当然です」
小夜は淡々と答えたが、その様子を横で見ていた千代は、にやにやとした笑みを深くした。
「へえー、小夜ちゃんってそんな顔するんだ。いつもはお人形さんみたいに無表情なのに、ルシエラちゃんのことになると、なんだか嬉しそうだねえ」
「……嬉しそう、ですか」
小夜は自分の頬にそっと手を当てた。相変わらず無表情のつもりだったが、千代の言う通り、その胸の奥には確かに、冷たい任務だけをこなしていた頃にはなかった、温かい灯火が揺れていた。
「お前たち、私の前でコソコソ話すんじゃないわよ! それより小夜、家臣なら早く次のお団子を注文しなさい! ほら、尻尾が……じゃなくて、私が待っているんだから!」
慌てて自分の尻尾を両手で抱え込み、必死に動きを止めようとするポンコツで愛らしい魔皇女なのであった。
☆
その夜、ルシエラは夢を見た。
魔界の宮殿。天井からは巨大な黒水晶の燭台が吊り下がり、長い食卓には見たこともない豪華な料理が並んでいる。
「皇女殿下、お食事の支度が整いました」
跪いた侍女たちが、恭しく頭を垂れる。
ルシエラが席に着くと、侍女たちは音も立てずに下がっていった。
広すぎる食堂には、食器の触れ合う小さな音だけが響いている。
誰も話しかけてこない。誰も隣には座らない。
それが、魔界の皇女としての当たり前の日常だった。
ふと、遠くから声が聞こえた。
「ルシエラ様。お味噌汁が冷めてしまいますよ」
目を開けると、見慣れない木の天井があった。
障子の向こうから、朝の光が差し込んでいた。




