第二話 この私を監視するですって!?
「――おのれ和の国。この屈辱、絶対に忘れないわよ……!」
翌朝。江戸の町外れにある小さな長屋の一室で、ルシエラは四畳半の畳の上に突っ伏していた。
魔界の広大な宮廷、贅を尽くした天蓋付きのベッド、ひざまずく大勢のサーヴァント。それらすべてが、一夜にして消え失せた。代わりにルシエラの視界を占めているのは、い草の匂いが染みついた青臭い畳の網目と、うっすらと埃の積まった木製の天井だけである。
「……何が悲しくて、魔界を統べる皇女であるこの私が、こんなウサギの小屋みたいな場所に監禁されなきゃいけないのよ」
ルシエラは起き上がり、寝癖のついた金髪のツインテールを乱暴に引っ張った。
背中の翼は小さく萎み、悪魔の尻尾も畳の上に力なく横たわっている。昨夜、小夜というくノ一に捕縛され、出された『みたらし団子』なる未知の甘味に胃袋を掴まれたところまでは覚えている。その後、気づけば小夜に背負われ、この薄暗い長屋へと運び込まれていたのだ。
ガタ、と部屋の障子戸が静かに開いた。
「目覚めましたか、ルシエラ様」
入ってきたのは、昨夜と同じ黒い装束をまとった少女――小夜だった。その手には、湯気の立つお椀と、小ぶりの木箱が乗ったお盆が握られている。相変わらず、その涼しげな目元には感情の起伏が一切見当たらない。
「無礼者! 声もかけずに入ってくるんじゃないわよ!」
ルシエラはすかさず傍らの布団を胸元まで引き寄せ、威嚇するように角を突き出した。
「大体、何よこの部屋は! 狭い、暗い、天井が低い! 私を処刑する前の独房のつもり!? 言っておくけれど、私の魔力が少しでも戻れば、こんな木と紙でできた家なんて一瞬で灰燼に帰してあげるんだから!」
「独房ではありません。私の家です」
小夜はルシエラの怒号を風のように受け流し、お盆を畳の上にそっと置いた。
「それと、ここは『長屋』と呼ばれる庶民の住居です。江戸では一般的な広さですが、魔界のお姫様には手狭でしたか」
「手狭なんてレベルじゃないわよ! 精神に異常をきたすわ!」
ルシエラはふん、と鼻を鳴らし、小夜が運んできたお椀に目を留めた。
「……何よ、その濁った液体は。まさか、今度こそ私を毒殺する気ね?」
「お味噌汁と、白いご飯です。昨夜の団子をあれだけ美味しそうに食べていたのですから、毒を警戒するのは今更だと思いますが」
「なっ……! あれは、お前があまりにも哀れな目で私を見てくるから、付き合ってあげただけよ! 勘違いしないでちょうだい!」
ルシエラの尻尾がピーンと跳ね上がり、不機嫌そうに畳をペチペチと叩いた。嘘をつくのが下手な彼女の身体は、完全に小夜の言葉に動揺している。
小夜は小さく息を吐くと、懐から一枚の書状を取り出した。そこには、墨の手書きで何やら厳格な文字が並んでいる。
「ルシエラ様。あなたに、我が隠密組織の頭領――服部景綱様からの命をお伝えします」
「命? 私に命令する気? 傲慢ね、人間の分際で」
「いえ、命令を受けるのは私です」
小夜は書状をじっと見つめ、淡々と言い放った。
「『異界から来た正体不明の怪異――ルシエラを、幕府の脅威にならぬよう、市井に紛れ込ませて二十四時間体制で監視せよ』。それが、私に下された新たな任務です」
「か、監視ぃ!?」
ルシエラは跳び起きた。その衝撃でツインテールが激しく揺れる。
「この私をストーカーするって言うの!? 冗談じゃないわ! 誰がそんな許可を出したのよ!」
「幕府です。それに、行き場がないのはあなたの方では? 魔力がほとんど残っていない状態で、この和の国の土地を彷徨えば、他の妖怪に襲われるか、あるいは幕府の本格的な討伐部隊に囲まれて、本当に地下牢へ入れられることになります」
小夜の言葉は、冷徹でありながらも極めて理路整然としていた。
ルシエラはぐぬぬ、と奥歯を噛み締めた。
確かに悔しいが、小夜の言う通りだった。今の自分には、あの竹林から脱出する筋力すらまともに残っていなかったのだ。魔界へ帰る方法を見つけるまでは、どうにかしてこの世界で生き延びなければならない。
(……待ちなさいよ。二十四時間監視されるってことは、逆に言えば、この小娘を私の都合のいいように使えるってことじゃない?)
ルシエラの脳裏に、天才的な(と本人は思っている)名案が浮かんだ。
魔界の価値観において、強い者が弱い者を従えるのは絶対のルール。ならば、この小夜という有能そうなくノ一を、自分の『家臣』にしてしまえばいいのだ。監視されているのではなく、自分が監視役を従えているという形にすれば、皇女としてのプライドも保たれる。
ルシエラはふっと不敵な笑みを浮かべ、胸を張って小夜を見下ろした。
「いいわ。そこまで言うなら、特別に許可してあげる」
「許可、ですか?」
小夜が少しだけ首を傾げた。
「そうよ! 仕方がないから、お前を私の『家臣第一号』にしてあげるわ! この私に仕える栄誉を、泣いて喜びなさい!」
ルシエラは勝ち誇ったように言い放ち、小夜の反応を待った。魔界の者であれば、「滅相もございません!」と五体投地するか、あるいは反抗して武器を抜くかの二択だ。
しかし、小夜の反応はそのどちらでもなかった。
「……御意」
小夜はいつもの無表情のまま、深く一礼した。その声には、歓喜も、屈辱も、何の感情も籠もっていなかった。ただ、日常のルーティンをこなすかのような、あまりにも自然な承諾だった。
「――って、ええぇぇぇ!?」
ルシエラは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 『御意』って何よ! 普通、もうちょっとこう、反論するとか、驚くとかあるでしょう! なんでそんなに簡単に私の家臣になるのよ! プライドとかないの!?」
「私は忍びです。主命によってあなたの監視を命じられた以上、あなたの傍に仕える形を取るのが最も効率的です。あなたが私を家臣と呼びたいのであれば、そう合わせるまでです。形にこだわりはありません」
「な、形にこだわりは、って……」
ルシエラは完全に調子を狂わされ、口をパクパクと開閉させた。
魔界では、忠誠とは命を懸けた契約であり、魂の切り売りだ。それを、この黒髪の少女は「効率的だから」という理由だけで、あっさりと受け入れてしまった。まるで、中身のない精巧な人形と会話しているかのような、奇妙な不気味さと、それ以上の敗北感がルシエラを襲う。
「では、家臣として最初の仕事を執行します。ルシエラ様、お食事をどうぞ」
小夜はお椀を持ち上げ、ルシエラの前へと差し出した。
「う、うう……。お前、本当に可愛げがないわね……」
ルシエラはぶつぶつと文句を言いながらも、お盆の上にある二本の木の棒――箸を手に取った。
「……何よこの、ただの細い木の棒は。どうしてこんな未完成の道具で、わざわざ食事をしなきゃいけないのよ」
指先で箸をぎこちなく交差させ、ご飯を挟もうとするが、箸の先がうまく噛み合わない。何度やっても箸の先は空を切り、ルシエラの額に青筋が浮かび上がった。
「おのれ和の国……! この私に、こんな高度な指先の精密戦闘を要求するなんて! いいわ、私の『念動力』で米粒を強制浮上させて――」
「ルシエラ様。術を練ろうとしないでください。私が手を貸します」
小夜は相変わらずの無表情でルシエラの背後に回ると、その小さな手を後ろからそっと包み込んだ。
「なっ、何するのよ近すぎるわよ!?」
「こうして、一本を親指の付け根で固定し、もう一本をペンを握るように動かすのです。ほら、挟めました」
至近距離から伝わる小夜の体温と薬草の香りに、ルシエラはご飯を挟めた感動よりも、顔を真っ赤にしてパニックになる方が早かった。
「わ、分かったから離しなさい! これくらい、皇族の私にかかれば一瞬でマスターできるんだから!」
慌てて小夜の手から自分の手を引き抜いたルシエラだったが、再び箸を動かすと、二本の先端はカチカチと虚しく空を切っていた。
「……ルシエラ様。もう一度、お教えしましょうか」
「い、いらないわよ! 今度こそ自分でできるんだから!」
魔界のフォークやナイフとは違う形状に悪戦苦闘しながら、白いご飯を口に運ぶ。
「――っ!」
またしても、ルシエラの身体がビクリと跳ねた。
炊きたての米の、仄かな甘みと温かさが、身体の隅々にまで染み渡っていく。お味噌汁を一口啜れば、出汁の深いコクが冷え切った内臓を優しく包み込んだ。
「ど、どうしてこの国の食べ物は、こんなに美味しいのよ……っ」
ルシエラは涙目でご飯を掻き込んだ。背中の翼がまたしても嬉しそうにパタパタと羽ばたき、尻尾は畳の上を激しく左右に滑っている。
小夜はその様子を、やはりじっと見つめていた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、昨日と同じ微かな光が宿る。
「ルシエラ様。尻尾、動きすぎです」
「うるさいわね! これは私の意思とは関係なく、勝手に動いているだけよ! 覗き見するんじゃないわよ、この泥棒猫……じゃなくて、くノ一!」
☆
その日の夕方、夕食に焼き魚と山菜を食べ終えたところで、小夜が尋ねた。
「箸の使い方、慣れましたか?」
「慣れるわけないでしょ! ナイフとフォーク用意しておきなさいよ」
ルシエラはふと、別のことを思い出した。
「そういえば小夜。この家にはお風呂がないの? まさか、魔界の宮殿にあるような豪華な浴場を期待しているわけじゃないけれど」
「ありますよ。こちらです」
小夜が案内したのは、長屋の裏手にある小さな囲いだった。
そこには、一人がどうにか入れるほどの木桶が置かれていた。
「…………は?」
「桶風呂です。このような簡素な風呂を使う者もいます」
「お、おのれ和の国! 狭すぎるでしょう!? こんなの、お風呂じゃなくて漬物の樽じゃないのよ!」
「ですが、お湯は温かいですよ」
「そういう問題じゃないわよ!」
ルシエラは盛大に文句を言ったものの、結局ほかに選択肢もなく、しぶしぶ桶風呂を使うことになった。
「……ふん。まあ、お湯の温度だけは合格にしてあげるわ」
小さな木桶から、満足げなため息が漏れた。
こうして、魔界の皇女の和の国での二日目は、最後まで文句だらけのまま暮れていった。




