第一話 魔皇女、和の国に落ちる
「――は?」
ルシエラ・ヴァン・ブラッドは、竹林の真ん中で目を覚ました。
仰向けに倒れていた彼女が最初に行うべきは、状況の把握だった。しかし、視界に飛び込んできた光景があまりにも現実離れしており、思考が完全に停止する。
見上げても、そこにあるのは魔界の赤い空ではない。
雲一つない夜空には、見たこともないほど澄んだ青白い月がぽつんと浮かんでいる。その周囲を囲むようにして、夜風にさらさらと細長い葉を揺らす、緑色の奇妙な植物が幾本も天に向かって伸びていた。
「……どこよ、ここ」
不快感を露わにしながらルシエラは、ぬかるんだ土を払って起き上がろうとした。
だが、その瞬間に体に走った奇妙な感覚に、彼女は動きを止める。
指先ひとつにすら、まともな力が伝わらない。まるで全身の血液がすべて鉛にすり替わってしまったかのような、凄まじい倦怠感。己の体内を巡っているはずの、万物を滅ぼす漆黒の波動が、どこを探しても見当たらないのだ。
「ちょっと待ちなさい。まさか、この私が……魔力切れ?」
ありえない話だった。
魔界を統べる一族の皇女であり、若くして指折りの大魔術を操る天才、このルシエラ・ヴァン・ブラッドが、魔法の一発も撃てないような腑抜けた状態になるなど、あってはならない。
しかし、記憶を辿れば思い当たる節しかなかった。
魔界で勃発したくだらない政争の最中、敵の不意打ちを喰らったルシエラは、迎撃のために最高位の転移魔法を展開した。その際、何者かの妨害によって術式が暴走。次元の裂け目に無理やり吸い込まれ、意識を失ったのだ。
「おのれ、あの卑怯者どもめ……。次に会った時は、骨の髄まで焼き尽くしてあげるわ……っ!」
怒りに任せて拳を握りしめようとしたが、やはり指先が震えるばかりで力が入らない。立つことさえままならない己の無力さに、ルシエラは奥歯を噛み締めた。
その時だった。
しゅっ、と静寂に包まれた夜の竹林を切り裂く、鋭い風切り音が響いた。
「っ――!?」
ルシエラの美しい金髪のツインテールが、風に煽られて大きく揺れる。その頬のすぐ横を、銀色の小さな刃がかすめ飛んでいった。
カツン、と乾いた音を立てて、背後の太い竹に突き刺さったのは、四つの鋭い角を持つ奇妙な鉄の刃――十字手裏剣だった。
「動かないでください」
頭上から、信じられないほど穏やかで、しかし冷徹な少女の声が降ってきた。
ルシエラが驚いて顔を上げると、月光を背に浴びて、しなやかな竹の先端につま先立ちしている人影があった。
それは、夜の闇に紛れるような黒い装束に身を包んだ少女だった。見た目の年齢はルシエラと同じ、十六歳前後だろうか。後ろで一つにまとめられた黒髪が、風に小さくなびいている。その切れ長の黒い瞳には、一切の感情が灯っていなかった。
「……何よ、その格好」
ルシエラは不快そうに眉をひそめ、睨みつけた。魔界の隠密でも、これほど古風で奇妙な装束を着ている者は見たことがない。
「こちらの台詞です」
黒装束の少女は、竹を足場にしているとは思えないほど重力を無視した軽やかさで、すとんと地面に着地した。
その目は、正面にいるルシエラの姿を冷徹に観察している。正確には、ルシエラの頭から生える二本の小さな角、背中にある漆黒の翼、そして不機嫌そうに左右にパタパタと揺れる悪魔の尻尾へと、その視線が向けられていた。
「あなたは、何の妖ですか?」
少女は今度は懐からクナイを抜き払い、油断なく構えながら問いかけてきた。
「妖ですって?」
ルシエラの額に、明確な青筋が浮かび上がった。
「無礼者! 誰に向かって口を利いているのよ! 私は魔界を統べる由緒正しきブラッド一族の皇女――ルシエラ・ヴァン・ブラッドよ! どこの馬の骨とも知れない怪異と一緒にするんじゃないわ!」
息を荒くして怒鳴り散らすルシエラに対し、少女は眉一つ動かさなかった。ただ、小刻みに揺れるルシエラの尻尾をじっと見つめた後、少しだけ首を傾げた。
「……ルシエラ。聞いたことがありませんね。遠国の珍獣か、あるいは新種の妖怪でしょうか」
「なっ……ななな、新種の妖怪ぃ!?」
ルシエラはあまりの屈辱に言葉を失った。魔界でその名を知らぬ者はいないほどの高貴な存在である自分が、珍獣だの妖怪だのと言い捨てられたのだ。本来の魔力があれば、この無礼なくノ一を今すぐにでも黒色火炎で灰にしてやるところだが、今は火花一つすら出せない。
ルシエラは悔しさに唇を噛みながら、必死に周囲を見回した。
「……そもそも、ここはどこなのよ。私の領地でもなければ、魔界のどのエリアにも見えないわ」
「ここは“和の国”、江戸の町外れにある竹林です」
少女は淡々と答えた。
「わのくに……?」
聞いたこともない国名だった。
見知らぬ土地、文化の欠片も感じられない緑だらけの不気味な景色、そして自分を妖怪呼ばわりする不遜な少女。おまけに、誇り高き魔皇女としての力の源たる魔力は皆無に近い。
最悪の状況。そのすべての元凶であるこの見知らぬ世界に対し、ルシエラは限界まで溜まったストレスを爆発させるように、天を仰いで絶叫した。
「おのれ和の国ぃぃぃっ!!」
竹林に響き渡る魔皇女の呪詛を、少女は冷ややかな目で受け止めていた。
彼女の名は小夜。徳川幕府の命を受け、夜の江戸を騒がせる不審な存在を排除、あるいは調査する直属の隠密――くノ一である。
小夜の任務は「怪異の監視、および捕縛」。
目の前で喚き散らしている金髪の少女が、江戸に存在するどの妖怪とも異なる特徴を持っていることは、一目で分かった。言葉の通じる異界の存在。しかも、今はどうやらまともに戦える状態ではないらしい。
「暴れる気なら、容赦はしません」
小夜は瞬き一つせず、足元を滑らせるようにしてルシエラとの距離を詰めた。
「な、何よ!? 来るんじゃないわよ!」
ルシエラは威嚇するように背中の翼を広げようとしたが、バサリと弱々しく開いただけで、すぐに地面へへたり込んでしまった。魔力切れによる肉体の飢餓感は想像以上で、指先が痺れて動かない。
小夜はその隙を逃さなかった。
あらかじめ用意していた、特殊な呪符が編み込まれた捕縛用の縄を突き出す。
「しまっ――」
ルシエラが身を翻そうとした時には、すでに遅かった。
小夜の鮮やかな体術によって、ルシエラの細い両腕は背中の後ろで瞬く間に縛り上げられていた。しかも、ただの縄ではない。幕府の術者が施した、妖力を封じる特殊な結界が仕込まれた忍びの道具だ。
「無礼者! 誰の許可を得てこの私に触れているのよ! 解きなさい、今すぐこの忌々しい縄を解きなさい!」
ルシエラは顔を真っ赤にして大騒ぎし、地面を転がりながら抵抗した。
魔界では、誰もがルシエラを恐れ、崇め、決してその体に触れようとはしなかった。力こそが正義の魔界において、皇女の体に触れることは死罪に値する不敬だからだ。それを、こんな人間の小娘にあっさりと組み伏せられ、屈辱的な形で縛られるなど、プライドがズタズタだった。
「大人しくしてください。これでも手加減をしているのです」
小夜はルシエラの抵抗を軽々といなし、縄の結び目を確認した。
その際、ルシエラの体が驚くほど華奢で、そして妙に甘い香りがすることに気づく。妖怪特有の生臭さや、血の匂いは一切しない。
大声を上げて怒り狂っているものの、その瞳にあるのは悪意ではなく、ただの純粋な戸惑いと、高すぎるプライドが傷つけられたことへの怒りだけだった。
「捕縛完了。……さて、どうしたものでしょうか」
小夜は顎に手を当て、真顔のまま呟いた。
本来なら、このまま幕府の地下牢へ連行し、頭領の検分を受けるのが隠密としての正しい手順だ。しかし、この少女――ルシエラからは、人間を害そうという明確な意志が感じられない。ただの迷子に近い状態に見えた。
「お腹、空いているのですか?」
小夜は不意に、ルシエラの腹の虫が小さく鳴ったのを聞き逃さなかった。
「な、何ですって!? この私が飢えるわけがないでしょう! 私は高貴なる魔皇女、粗末な食事など――」
ぐうぅぅ、と、ルシエラの言葉を遮るように、情けない音が竹林に響き渡った。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
ルシエラの顔は、先ほどの怒りとは比べ物にならないほど、耳の裏まで真っ赤に染まっていた。
「……おのれ、和の国。身体の構造まで私を裏切るというのね……っ」
涙目で地面を睨みつけるルシエラ。その姿があまりにも可憐で、そしてどこか抜けていて、小夜の胸の中に、これまでの人生で一度も抱いたことのない奇妙な感情が芽生えた。
いつもなら任務を人形のように淡々とこなすだけの小夜だったが、この時ばかりは、その薄い唇の端が、ほんのわずかに綻んだのだった。
「ちょうど、夜食の残りがあります」
小夜は腰の巾着袋に手を入れ、中から取り出したものをルシエラの目の前に差し出した。それは、笹の葉に包まれた、丸くて白い塊だった。ほんのりと甘い醤油の香りが、夜の空気の中に漂う。
「何よ、それは。私を毒殺する気?」
ルシエラは不信感に満ちた目でそれを睨みつけた。
「団子です。みたらし、という味付けの。毒は入っていません」
小夜は自分で一口齧ってみせてから、残りをルシエラの口元へと近づけた。
ルシエラはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「ふざけないで。この私が、そんな得体の知れない庶民の配給に釣られるわけがないでしょう! 私は魔界の最高級肉しか口にしないのよ!」
「そうですか。では、片付けますね」
小夜が淡々と手を引こうとした、その瞬間。
「あ、待ちなさい!」
ルシエラの尻尾がピーンと垂直に立った。本人の言葉とは裏腹に、その目は団子に釘付けだった。漂ってくる甘辛い香りが、魔力切れで極限状態にあるルシエラの胃袋を猛烈に刺激している。
「……そ、そこまで言うなら、毒味をしてあげてもいいわ。あなたがどうしても私に食べてほしいって、泣いて懇願するならね!」
「では、懇願します。食べてください」
小夜は全く感情の籠もっていない声で、即座に言った。
「なっ……! も、もう少しプライドってものはないの!?」
ルシエラは調子を狂わされながらも、目の前に再び差し出された団子を、恐る恐る見つめた。
そして、覚悟を決めたように目を閉じると、小さな口を大きく開けて、団子にパクリと食いついた。
モグモグ、と咀嚼する。
その瞬間、ルシエラの紅い瞳が、カッと見開かれた。
(な、何よこれ……っ!?)
口の中に広がる、未体験の衝撃。
魔界の暴力的な辛味や、血の滴るような肉の味とは全く違う。優しく、しかし濃厚な甘みと、それを引き締める醤油の香ばしさ。そして、もちもちとした、噛めば噛むほど脳を蕩けさせるような食感。
「――っく!」
ルシエラはあまりの美味しさに身悶えした。背中の小さな翼がパタパタと激しく羽ばたき、漆黒の尻尾は、まるで千切れんばかりの勢いで左右にブンブンと振られ始める。
「どうですか?」
小夜が尋ねる。
ルシエラは必死で幸福に満ちた表情を隠そうと、眉間にこれでもかと皺を寄せた。
「べ、べつにたいしたことないわよ! こんな安っぽい味、魔界の宮廷料理に比べたら足元にも及ばないわ! ……でも、まあ、せっかくお前が作ったんだから、残さず食べてあげるのが皇族の慈悲ってものよ! だから、もっと口に入れなさい!」
「作ったのは私ではなく、近所の団子屋ですが」
「細かいことはいいのよ! 早く次のをよこしなさい!」
そう言って、小夜が差し出す団子を、ルシエラは警戒しながらも次々と口に運んでいく。食べるたびに、その尻尾は嬉しそうに揺れ動いていた。
小夜はその様子をじっと見つめながら、心の中で確信していた。
この少女は、危険な怪異などではない。ただ、強がりで、驚くほど純粋な、異界のお姫様なのだと。
「おいしいですか、ルシエラ様」
小夜がぽつりと呟いた敬称は、まだ任務としての形式的なものに過ぎなかった。しかし、その胸の奥には、確かに小さな火が灯っていた。
こうして、孤高の魔皇女と、感情を忘れたくノ一の、奇妙で騒がしい共同生活の幕が開けたのである。




