第十話 魔皇女、力士に挑む
本取り組みが終わり、興行の合間の息抜きとして、地元の人間や妖怪の子どもたちを土俵に上げて力士に挑戦させる『わんぱく相撲』の余興が始まった。
大きな力士が笑顔で土俵の真ん中に立ち、人間や妖怪の子どもたちがいっしょに「わーっ!」と叫びながら、その巨大な身体に群がって押している。力士は「おっとっと」と楽しそうに笑いながら、びくとも動かない。
「ふん、微笑ましい光景ね。だけど、やっぱり手加減されているだけの温いお遊びだわ」
ルシエラが腕を組んでそう呟いた時、土俵の上の行司が、観客席に向かって声を張り上げた。
「さあさあ、他にも力自慢の子どもたち、男の子だけでなくお嬢ちゃんも、誰でもいいからお相撲さんに挑んでみねえか!」
「……お嬢ちゃん?」
ルシエラの額に、明確な青筋がピキリと浮かび上がった。
「無礼者! 誰がお嬢ちゃんだっていうのよ! いいわ、そこまで言うなら、この私が直々にあの大きな男を土俵から叩き出して、魔界の皇族の本当の『格』というものを和の国の人間に教えてあげるわ!」
「ルシエラ様、お待ちください」
立ち上がろうとしたルシエラのドレスの袖を、小夜がすっと引いて制止した。
「挑むのは構いませんが、ここは神聖な土俵です。絶対に魔法や魔力を使ってはなりません。もし黒色火炎などを使えば、それこそ任務(監視)の都合上、あなたを今すぐ羽交い締めにして地下牢へ連行せねばならなくなります」
「分かっているわよ、そんなこと! 目が、お前の目が本気で怖いのよ、小夜! 言っておくけれど、私は魔力がほとんど残っていない状態だって、ブラッド一族の高貴な血筋なのよ! 魔法なんて必要ないわ! この私の皇族としての威厳と、気高き美貌だけで、あの大男なんて恐怖のあまり自ら土俵の外へ這い出ていくに決まっているわ!」
ルシエラは小夜の手を振り払い、意気揚々と土俵へと上がっていった。
金髪のツインテールに、頭から生えた二本の角。背中には折り畳まれた黒い翼、そして桃色の着物の裾から覗く悪魔の尻尾。
どう見てもカタギではない、異国のお人形さんのような美少女の登場に、会場の町人たちから「なんだあ、あのかわいいお嬢ちゃんは?」「異国の妖怪の子どもかい?」とヒソヒソと囁き声が上がる。
「はっけよい、のこった!」
行司の声が響く。
対峙した大柄な力士は、ルシエラのあまりの小ささと愛らしさに、困ったように眉を下げて笑顔を向けた。
「さあ、お嬢ちゃん。どこからでも押してきなさい」
「お嬢ちゃんと言うな! 喰らいなさい、魔皇女の全力突っ張りよ!」
ルシエラは小さな両手を突き出し、力士の巨大な腹部に向かって、ドスドスと全力で突っ張りを放った。
――ぽよん、ぽよん。
「……え?」
ルシエラの手のひらに伝わってきたのは、岩のような硬さと、それを包み込むような、底なしの弾力だった。
全力で押している。全体重をかけて、足元の土を蹴りながら、必死に汗を流して押している。しかし、目の前の大男は、まるでお城の石垣のように、一ミリどころか、一ミクロンも動かない。
「な、何よこれ……! なんで、なんでビクともしないのよ!? この泥人形め、動きなさいよ!」
「ははは、いい突っ張りだ。だけど、もう少し腰を落とさないとな、お嬢ちゃん」
力士が豪快に笑い、その丸太のような片腕を、ルシエラの細い腰のあたりへとすっと回した。
傷つけぬよう、優しく、しかし抵抗できない圧倒的な質量で、そのまま土俵の外へと、すとんと優しく着地させた。
「はい、勝負あり! お相撲さんの勝ち!」
行司の軍配が上がる。会場から温かい拍手と笑い声が湧き起こった。
「な……ななな、なによこれぇぇぇっ! 私が、この私が、触れられただけであっさりと放り出されるなんて……! 屈辱よ! 天地がひっくり返ってもあり得ない不敬だわ!」
ルシエラは顔を茹で上がったタコのように真っ赤にして大騒ぎし、地べたで地団駄を踏もうとした。
しかし、慣れない下駄のせいで足元がぐらつき、そのまま後ろへとおっとっと、と無様に転びそうになる。
「しまっ――」
目を瞑ったルシエラの身体を、後ろから、驚くほど迅速で、しかし優しい強さを持った『一対の腕』ががっしりと抱きとめた。
「――っ!?」
耳元で聞こえる、微かな、しかし聞き覚えのある静かな呼吸の気配。
小夜だった。彼女はいつの間にか土俵の下まで移動しており、転びかけたルシエラの華奢な身体を、背後から包み込むようにしてしっかりと支えていた。
「怪我はありませんか、ルシエラ様。……お怪我がないなら、速やかに私の背後へ。周囲の人間が、あなたの尻尾の暴れっぷりに驚いています」
「さ、小夜……お、お前、いつの間に……っ。離しなさいよ、近すぎるわよ!」
ルシエラはパニックになりながらも、小夜の腕の温もりに、胸の奥がまたしてもトクンと妙な高鳴りをあげるのを感じ、慌てて飛び退くのだった。
「……おのれ和の国。魔法も使えない、ただの人間のくせに、どうしてあんなに無駄に強いのよ……」
☆
興行が終わり、人気が少なくなった境内の裏手。
ルシエラは長椅子に腰掛け、悔し涙をボロボロと流しながら、自分の漆黒の尻尾を両手でぎゅっと抱え込んでいた。かつてないほどの敗北感と自己嫌悪で、尻尾の先端はだらりと元気をなくしている。
「彼らは、一日にしてあの強さを手に入れたわけではありません」
傍らに立つ小夜が、穏やかに語りかけた。
「暗いうちから起き上がり、冷たい泥の上で、何百回、何千回と、互いの肉体をぶつけ合う『ぶつかり稽古』を重ねるのです。鉄の柱に身体を打ち付け、手のひらが裂けても、足の皮が剥がれても、ただひたすらに、己の肉体を鍛え上げる。何年もの間、その地道な努力を積み重ねた者だけが、あの土俵に立つことを許されるのです」
「努力、の、積み重ね……?」
ルシエラは黙り込んだ。
生まれ持った魔力が強さを決める魔界では、ただひたすら身体を鍛え続けることで強くなるという考え方は、ひどく奇妙に思えた。
しかし、この世界の人間は、生まれ持った脆弱な肉体を、自らの『血と汗と、果てしない時間』を賭して、魔物をも凌駕する鋼の壁へと造り変えている。
「その通りだ、お嬢ちゃん」
不意に、太い声が響いた。
振り返ると、先ほどルシエラをあしらった大柄な力士が、汗を拭いながら歩いてくるところだった。
「あんた、身体はちっちゃいけれど、あの突っ張りの『芯』は悪くなかったぜ。あきらめずに、毎日美味しいものをたくさん食べて、四股を踏んで稽古を続ければ、あんたにだって、いつか俺を押し出すくらいの強さが手に入るはずだ。がんばりな、お嬢ちゃん!」
力士は豪快に笑い、熊手のような大きな手で、ルシエラの金髪の頭をぽんぽんと優しく、包み込むように撫でた。
「な……っ!? 気安くこの私の頭に触るんじゃないわよ!」
ルシエラは怒鳴り散らしたものの、その大きな手の温もりと、向けられた純粋な『敬意と激励』の言葉に、どうにも調子が狂ってしまい、それ以上言葉が続かなかった。
「……ふん。本当に、暑苦しくて面倒くさい国だわ、和の国は」
帰り道、夕暮れてなお熱気の残る江戸の大通りを歩きながら、ルシエラは腕を組み、ぶつぶつと文句を言っていた。相変わらず強がっているが、その紅い瞳には、先ほどまでの濁った悔しさは消え、どこか新しい輝きが宿っていた。
「……ねえ、小夜」
ルシエラは不意に足を止め、隣を歩く小夜をキッと睨みつけた。
ツインテールを揺らし、桃色の着物の裾からのぞく尻尾を、期待を込めるようにピーンと垂直に直立させる。
「お前も、その『努力の積み重ね』とやらで、そんなに無駄に手際が良くて強いわけ? 隠密の修行とかいうので」
「はい。私は幼い頃から、命令を遂行するためだけに、痛覚を殺し、感情を殺し、ただ技術だけを体に叩き込んできました。主君の健康を守ることも、その技術の一部です」
「ふん、やっぱり夢のない理由ね。……だったら、試してあげるわ!」
ルシエラは突然、小夜の正面に回り込むと、彼女の両手首を、自分の小さな手のひらでぎゅっと掴み取った。
「な、何をするのですか、ルシエラ様」
「押し相撲よ! あの力士には勝てなかったけれど、お前相手なら、私のこの皇女としての意地で、一歩くらい後ろへ押し込めるはずよ! さあ、はっけよい、のこった!」
ルシエラは顔を真っ赤にして、小夜の身体を全力でグイグイと押し始めた。
しかし、小夜は重力を完全に無視したかのように、その場にすとんと静止したまま、眉一つ動かさない。
「ルシエラ様、腰が浮いています。それと、押し相撲をするなら、もう少し私との距離を詰めねば力が伝わりません。……こうです」
小夜は掴まれた手を優しく握り返すと、ほんの一寸だけ、自分の身体をルシエラの方へと引き寄せた。
「ひゃんっ!?」
突然のゼロ距離。浴衣越しに伝わる小夜の独特な体温と、至近距離で見つめ合う彼女の黒い瞳。
突然の心理的・物理的な密着に、ルシエラの頭は一瞬で真っ白になり、力の入れ所を完全に失って、そのまま小夜の胸元へと、すとんと自ら倒れ込むような形になってしまった。
「……私の勝ちですね、ルシエラ様」
小夜は倒れ込んできたルシエラの身体を優しく片腕で抱きとめながら、いつもと変わらぬ穏やかな声で呟いた。
「う、うあぁぁん! 卑怯よ、小夜! お前、今絶対に隠密の怪しい妖術を使って私の脳を蕩けさせたでしょう!? 天地がひっくり返っても許さないんだからぁっ!」
夕日に照らされたルシエラの顔は、お団子のタレよりも、昼間のわさびのパニック時よりも、綺麗な夕焼け色に深く深く染まっていた。




