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おのれ和の国! ~孤高の魔皇女、うっかり懐いた忍びの少女に絆される~  作者: 明石竜


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第十一話 河童は魔族より礼儀知らず

「た、助けてくれぇ! 川から変な、ぬめぬめした緑色の化け物が出てきたんだ!」

 ある日の突き抜けるような青空の下、江戸の町を南北に流れる大きな川の堤防近くで、数人の人間の子どもたちが顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、一目散に走ってきた。彼らは手に持っていた竹とんぼや泥だんごを放り出し、後ろを振り返る恐怖に怯えながら逃げていく。

「おや、任務の気配ですね」

 町娘風の着物に身を包み、市井の定期巡回を行っていた小夜は、その叫び声を聞いた瞬間にいつもの冷徹なくノ一の目へと切り替わった。すっと足元を滑らせるように、子どもたちが逃げてきた川辺の方向へと躊躇なく駆け出す。

「ちょっと小夜! 待ちなさいよ、そんなに急に走ったら着物の裾が乱れるじゃない!」

 桃色の着物を翻し、金髪のツインテールを激しく揺らしながら、ルシエラもその後を必死に追いかける。失われた魔力は未だ完全には戻っておらず、少し走るだけでも息が上がってしまうが、家臣である小夜を一人で行かせるわけにはいかないという、皇女としての謎のプライドが彼女の足を突き動かしていた。

 二人が瑞々しい草木の生い茂る川岸へと辿り着くと、そこには奇妙な生き物が直立していた。

 体長は人間の子どもほど。全身がぬめぬめとした緑色の皮膚に覆われ、背中には亀のような頑丈な甲羅、そして頭のてっぺんには水を湛えた丸いお皿が載っている。

 その妖怪は、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、手にした瑞々しいキュウリをバリバリと乱暴に齧り倒していた。そして、子どもたちが恐怖のあまり置き忘れていった木製のおもちゃや、川辺に転がっていた小石を、八つ当たりするように「カパッ!」と鋭い声を上げながら川の中へと次々に投げ捨てている。

「何よ、あの不細工で締まりのない生き物は。魔界の最下層にある底なし沼にもあんな緑色の低級魔獣が群生していたけれど、あいつはそれ以上に礼儀作法というものがなってないわね。神聖な自然の恵みである食べ物をそんな風に乱暴に扱うなんて、育ちが悪すぎるわ」

 ルシエラは不快そうに額の二本の角を尖らせ、着物の裾から覗く漆黒の尻尾をピキピキと怒りで震わせた。

「あれは河童と呼ばれる水辺の妖怪です。本来は人間に悪戯を仕掛ける程度で、基本的には温厚な種族のはずですが……今回は少々、手が付けられないほどに荒れているようですね」

 小夜は浴衣の袂からすっと二本のクナイを抜き払い、いつでも投擲できる構えを取りながら、冷淡な視線で河童の挙動を観察した。

「ふん、ちょうどいいわ! ここ数日、お団子を食べて湯屋に入っていたおかげで、私の身体にも少しずつ魔界の波動が戻ってきているのよ! その証明として、あの無礼な両生類を私の高位黒色火炎(ダーク・フレア)で一瞬にして炭化させてあげるわ! お前はそこで、私の偉大なる力を称える賛美歌でも歌っていなさい!」

 ルシエラは勝ち誇ったように笑い、小さな右手を天に掲げ、魔力を練り上げようとした。彼女の周囲の空気が、微かな漆黒の魔法陣の輝きと共に歪み始める。

「待ってください、ルシエラ様」

 しかし、その魔法陣が完成するよりも早く、小夜の手がすっと伸びてルシエラの手首を優しく、けれど確実に制圧するように掴み取った。せっかく集まりかけていた魔力の霧が薄れていく。

「な、何するのよ小夜! 邪魔をしないでちょうだい! 家臣のくせに主君の戦闘を妨害するなんて、魔界なら即座に極刑よ!」

「力任せに排除するのは、隠密の、いいえ、この国での正しい解決法ではありません。まずは、あの河童がなぜこれほどまでに怒り、周囲を威嚇しているのか、その根本的な理由を突き止めるべきです」

 小夜はルシエラを自分の背後へとそっと下がらせると、クナイを構えたまま、ゆっくりとした足取りで河童の前へと歩み寄った。河童は人間の気配を察知し、手にしたキュウリを投げ捨てて「シャーッ!」と鋭い威嚇の声を上げ、水かきのついた鋭い爪を剥き出しにする。

「河童さん。なぜ子どもたちを脅かし、おもちゃを奪うのですか。この川は人間にとっても、あなた方にとっても大切な場所のはずです」

 小夜が感情の起伏がない、穏やかな声で問いかけると、河童はさらに激昂したように、川の浅瀬から何かを両手で掴み上げ、地面に叩きつけた。

 それは、上流から流れてきたと思われる、人間が捨てた壊れた木箱や、油の浮いた汚れたボロ布、そして悪臭を放つ生ゴミの塊だった。

「カパッ! カパカパッ! カパァッ!」

 河童は激しく足を踏み鳴らし、自分の頭のお皿を指差しながら、川底を何度も何度も足で蹴りつけた。言葉は通じない。しかし、その必死な身振りと、お皿の水が濁って今にも干からびそうになっている様子から、彼が何を訴えたいのかは明白だった。

「なるほど。上流の人間たちが川にゴミを不法に投げ捨てたせいで、あなたの住処である川底が汚れ、水質が悪化してしまったのですね。お皿の水が濁り、魚も住めなくなって困っていたから、抗議のために人間に嫌がらせをしていた、と」

 小夜は一瞬で状況を把握し、クナイをそっと懐へと収めた。そして、着物の袂から白い手拭いを取り出すと、泥に汚れるのも厭わずに浅瀬へと足を踏み入れ、川底に沈んでいた人間のゴミを一つずつ手作業で拾い上げ始めた。

「ちょ、ちょっと小夜、何をしているのよ!? そんな泥臭くて汚いゴミ拾い、お前の崇高な隠密の仕事じゃないでしょう? あんな生意気な妖怪、やっぱり一発殴って黙らせれば済む話じゃない!」

 ルシエラは川岸から、信じられないものを見るような目で小夜を怒鳴りつけた。

「力で黙らせるだけでは、その場しのぎに過ぎません。恨みが残り、彼らはまた別の場所で人間を襲うでしょう」

 小夜は淡々とゴミを堤防の上に積み上げながら、振り返らずに答えた。

「原因を取り除かなければ、本当の解決にはならないのです。強い者が弱い者をただ踏みにじるのではなく、互いの理不尽を解消する。それが、私の知る和の国のやり方です」

「互いの理不尽を、解消する……?」

 ルシエラはその場に立ち尽くした。

 魔界では、不満を持つ者がいれば、それを圧倒的な暴力でねじ伏せるのが絶対のルールだった。従わない者は消し去り、奪う者はそれ以上の力で奪い返す。それがルシエラの知る唯一の統治であり、世界の真理だったのだ。しかし、この小夜という少女は、自分より遥かに脆弱で、言葉すら通じない妖怪の痛みに耳を傾け、その原因を自らの手を汚して取り除こうとしている。

 その姿は、ルシエラの価値観を根底から揺さぶるほどに、不思議な気高さに満ちていた。

「……本当に、面倒な国ね、和の国は。効率が悪すぎるわ」

 ルシエラは盛大なため息をつくと、ぶつぶつと文句を言いながらも、しぶしぶと桃色の着物の裾を膝の上までたくし上げた。

「ちょっと、そこの不細工なトカゲ! 私の大切な家臣が、こんな汚い泥仕事に一人で奔走しているのを見るのは、皇女として非常に気分が悪いのよ! 仕方がないから、この私が直々に手伝ってあげるわ! 魔界の最高権力者による、一生に一度あるかないかの名誉奉仕活動だと思って、五体投地してありがたく思いなさい!」

 ルシエラはバシャバシャと川に足を踏み入れ、小夜の隣に並んで、泥まみれの木箱を両手で持ち上げた。

「ルシエラ様……着物が汚れます」

「うるさいわね! 汚れたらお前が洗えばいいでしょう! ほら、さっさとこの大きなゴミを片付けるわよ!」

 河童は、驚いたようにその二人の姿を見つめていた。人間への不信感で凝り固まっていたその目が、少しずつ丸くなっていく。やがて、河童は嬉しそうに「カパッ!」と高く鳴くと、自らも川底の奥から大きなゴミを抱えて戻り、三人で一緒になって川の掃除を始めた。

              ☆

 夕暮れ時になる頃には、川辺は見違えるほど綺麗に澄み渡っていた。川底の砂が見えるほどに透明になった水が、夕日を浴びてキラキラと黄金色に輝いている。

 河童は頭のお皿に綺麗な水をたっぷりと満たし、元気に満ち溢れた様子で、どこからか持ってきた新鮮で立派なキュウリを二本、ルシエラと小夜の前に差し出した。

「カパ、カパッ(ありがとう、これ、あげる)」

「ふん、ただの生野菜じゃない。魔皇女の貴重な労力に見合う報酬とは到底言えないわね。小夜。これ、魔界の貨幣に換算したらいくらになるの?」

「キュウリ一本ですので、銭数文ほどでしょうか」

「す、数文!? この私が泥まみれになって働いた報酬が!?」

「ですが、河童にとっては大変貴重な贈り物ですよ」

「……そ、そう。ならば特別に受け取ってあげるわ。皇女の慈悲よ!」

 ルシエラは不満げに文句を言いつつも、受け取ったキュウリを大きく一口齧った。みずみずしい水分と、ほのかな甘みが、疲れた身体に心地よく染み渡っていく。

 小夜はその横顔を見つめ、いつもと変わらぬ無表情の裏側で、穏やかに、けれど深く微笑んでいた。力で支配することしか知らなかった、孤独で傲慢だった魔皇女の心が、この和の国の小さな川辺で、確かに優しく、誰かを思いやる形へと成長し始めている。

「おいしいですか、ルシエラ様」

「……べ、べつに普通よ! ただ、私が少しだけ喉が渇いていたから、特別に美味しく感じただけなんだからね!」

 夕日に照らされたルシエラの頬は、キュウリの緑色とは対照的に、綺麗な夕焼け色に染まっていた。その背後では、漆黒の尻尾が、川のせせらぎに合わせて、とても満足そうにゆったりと揺れ動いていたのだった。


 その夜。誰もいなくなった川辺で、水面が小さく波打った。

 川底のさらに深い場所。日差しも月明かりも届かない暗闇で、何かが微かに蠢いた。

 水面に浮かんだ黒い羽根が、一枚。それは流れに乗ることなく、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと川底へ沈んでいった。

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