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おのれ和の国! ~孤高の魔皇女、うっかり懐いた忍びの少女に絆される~  作者: 明石竜


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第十二話 魔皇女、寺子屋で落第する

「てらこや、ですって? 何よそれ。魔界の『大魔術学院』みたいなものかしら?」

 夏の終わりが近づき、江戸の町にほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた頃。

 長屋の縁側で、ルシエラは通りがかった近所の少年――いつも川辺で泥だんごを作って遊んでいる新太(あらた)から差し出された、手習いの手本をのぞき込んでいた。

「違うよ、ルシエラちゃん! 寺子屋っていうのはね、俺たち町の子どもが集まって、お師匠様から読み書きや計算を教えてもらう場所なんだ。明日、ルシエラちゃんも一緒に行ってみない?」

「ふん、計算に読み書き? やっぱり、高度な術式を展開するための基礎教養を叩き込む場所に違いないわね。いいわ、魔界を統べる一族の皇女であり、若くして指折りの大魔術を操るこの天才ルシエラが、和の国の『魔術学院』とやらを直々に視察してあげるわ!」

 ルシエラは胸を張り、金髪のツインテールを誇らしげに揺らした。

 失われた魔力はいまだ三割から四割程度しか戻っていないが、頭脳の冴えは魔界にいた頃と何ら変わりはない。ドレスの裾から覗く漆黒の尻尾が、知的好奇心を満たせる予感に嬉しそうに小さくパタパタと揺れる。

「ルシエラ様、寺子屋は魔術を学ぶ場所ではありません。ですが、この国の庶民がどのような教育を受けているかを知ることは、市井に紛れる任務としても有意義です。お供いたします」

 傍らで懐紙を整理していた小夜が、感情の読めない涼しげな瞳でルシエラを見つめ、ゆっくりと立ち上がった。

「分かっているわよ。私の圧倒的な頭脳を見せつけて、和の国のお師匠様とやらを驚愕させてあげるんだから!」

               ☆

 翌朝、小夜と新太に連れられてやってきたのは、近所の熱心なお師匠様が私塾として開いている、こぢんまりとした寺子屋だった。

 部屋の中には十人ほどの子どもたちが、小さな文机を前にして賑やかに座っていた。年齢は五歳ほどの幼児から、上は十歳を過ぎた少年まで様々だ。

「おや、新太が新しいお友達を連れてきたね。いらっしゃい」

 白髪交じりの優しそうなお師匠様が、にこやかにルシエラたちを迎えた。

 ルシエラは桃色の町娘風の着物を翻し、部屋の真ん中に座ると、子どもたちが机の上に置いている『妙な木製の道具』に目を留めた。

 長方形の木枠の中に、細い軸が何本も通っており、そこに小さな木製の玉がぎっしりと並んでいる。

「お師匠様、質問よ。その机の上にある、怪しい触媒が仕込まれた魔導具は何かしら? 呪文の詠唱速度を倍化させるための補助兵器?」

「ははは、これは『そろばん』というんだよ、お嬢ちゃん。魔導具なんかじゃなくて、数を数えたり、足し算や引き算をするための計算の道具さ」

「そろばん……? 計算の、道具……?」

 ルシエラは怪訝そうに片方の眉を跳ね上げた。

「何よ、この玉が並んだ変な道具は! どうして計算をするのに、いちいちこの小粒の玉を手で動かす必要があるのよ! 魔界の高等魔術式ではね、大気の波動と魔力の質量、そして敵の防御陣の展開速度をすべて脳内で同時に暗算し、一瞬で幾何学的な数式を導き出すのが常識なのよ! こんなおもちゃみたいな道具に頼るなんて、人間の知性も知れたものね!」

 ルシエラは腕を組み、ふんぞり返って高笑いした。

「では、ルシエラ様。言葉だけでなく、実際に子どもたちと競ってみてはいかがでしょうか。ちょうどこれから、算術のおさらいを始める時間です」

 小夜が背後から音もなく現れ、ルシエラの前に新品のそろばんをすとんと置いた。その切れ長な目元には相変わらず感情の起伏はないが、どこかいたずらっぽい光が宿っている。

「いいわよ! 私の天才的な脳細胞が、こんな木製のおもちゃよりも遥かに速く、正確に答えを導き出すところを見せつけてあげるわ!」

「それじゃあ、始めるよ。願いましては――、五文(もん)なり、二文なり、三文引きまして、九文なり、五文引きまして、その答えは?」

 お師匠様の小気味よい声が響く。

「ふん、そんなの簡単よ! 答えは――」

 ルシエラが口を開きかけた、その瞬間だった。

 ――パチパチパチパチパチパチ!!!

 部屋中に、小気味よい、しかし凄まじい密度の木製の音が鳴り響いた。

 周りの子どもたちが、目にも留まらぬ速さで指先を動かし、そろばんの玉を上下に弾いている。その正確無比な指の動きは、まるで熟練の暗殺者がクナイを操るかのようだ。

「はい! 八文です!」

 隣に座っていた、おかっぱ頭の八歳ほどの女の子が元気よく手を挙げた。

「正解。お初ちゃん、早いねえ」

 お師匠様が微笑む。ルシエラは呆然と口を開けたまま、自分の前に置かれたそろばんを見つめた。

「ちょっと待ちなさいよ……! 答えは頭の中で分かっていたけれど、この道具の上にどうやってその数字を表現すればいいのよ!? この上の玉(五だま)は何よ、下の四つの玉はどういうルールで動いているの!?」

「ルシエラちゃん、そろばんはね、こうやって指で玉を弾いて数を置いていくんだよ。ほら、次の問題が来るよ!」

 新太に急かされ、ルシエラはムキになってそろばんに向かった。

「願いましては――、六文なり、八文なり、四文引きまして――」

「くっ、六文だから……上の玉を一つ下げて、下の玉を一つ上げて……、そこに八文を足す!? 足りないわよ! 下の玉がもう残っていないじゃない! どうして十の位に繰り上がるのよ、術式が崩壊するわ!」

 ルシエラは顔を真っ赤にして、小さな指先で焦るように玉をガタガタと動かした。暗算なら一瞬でできる簡単な計算なのに、そろばんという未知のインターフェースを通した瞬間、脳内の高度な魔術回路が完全にショートしてしまう。

「あ、お姉ちゃん。そこ、弾く玉が違うよ? 八を足すときは、二を引いてから十を上げるんだよ?」

 隣のお初ちゃんが、ルシエラのそろばんをのぞき込み、心配そうに小さな指でツンツンと正しい玉を教えてくれた。

「う、うるさいわね! 分かっているわよ! 私、魔界では数百桁の魔術計算を暗算していたのよ! これは、魔界の十二進法や暗黒多元数式とは構造が違うだけよ! 私の指先が、和の国の脆弱な木製品に一時的に適応できていないだけなんだから!」

 ルシエラは声を裏返らせて言い訳を並べ立てた。しかし、背中の小さな黒い翼はパニックでパタパタと激しく羽ばたき、漆黒の尻尾にいたっては、恥ずかしさのあまり畳をバチバチバチバチと激しい音を立てて叩き続けていた。

「はい、そこまで。……ルシエラ様、完全に落第ですね」

 背後に控えていた小夜が、真顔のまま、すっと冷淡な(しかしどこか楽しそうな)声で告げた。

「きゃあぁぁっ! 小夜、お前、身内の恥をそんな冷静に指摘するんじゃないわよ! 落第なんて、この私が人生で一番縁遠い言葉よ!」

 ルシエラが大騒ぎする様子を見て、寺子屋の子どもたちは「あはははは!」と一斉に大笑いした。

「金髪のお姉ちゃん、おもしろい!」「暗算はできるのに、そろばんは全然ダメなんだね!」と、子どもたちの純粋な笑い声が部屋いっぱいに広がる。

「うう……、おのれ和の国……。魔法も使えない、こんな小さな子どもたちに、勉強で負けるなんて……」


 寺子屋の放課後。ひとけがなくなった教室の片隅で、ルシエラは文机に突っ伏したまま、悔し涙をポロポロと流していた。抱え込んだ漆黒の尻尾の先端は、完全に元気をなくして床にだらりと垂れ下がっている。

「お姉ちゃん、泣かないで」

 不意に、小さな声が響いた。

 振り返ると、先ほど隣に座っていたお初ちゃんが、自分の小さなそろばんを小脇に抱えて、はにかみながら立っていた。

「そろばんはね、最初はみんな難しいんだよ。私も最初は玉がこんがらがっちゃって、お師匠様に毎日怒られてたの。でもね、毎日パチパチやってると、指が勝手に覚えて楽しくなるんだよ。……よかったら、私、使い方を教えてあげようか?」

 お初ちゃんは、ルシエラの紅い瞳を真っ直ぐに見つめ、小さな手のひらを差し出した。

「な……っ」

 ルシエラは驚いて言葉を失った。

 自分に勝った相手が、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。

「……ふん。お前がそこまで言うなら、特別に教えてもらってあげてもいいわ。これは、皇女としての寛大な歩み寄りよ」

 ルシエラはモジモジと着物の裾をいじりながら、おずおずとそろばんに手を伸ばした。

 お初ちゃんは嬉しそうに笑うと、ルシエラの隣にちょこんと座り、「ここはね、こうやって親指で上げるの」「引くときは人差し指だよ」と、丁寧にそろばんの弾き方を教え始めた。

「……ねえ、お初。どうして私に教えるのよ。さっきはあんなに笑っていたくせに」

「だって、ルシエラお姉ちゃんもできるようになったら、もっと楽しいでしょ?」

「……そういうものなの?」

「うん! 今度は一緒に百まで数えようね!」

 ルシエラは返事に困り、そろばんの玉を一つだけ弾いた。

 数百年生きる魔界の天才魔術師が、八歳の女の子の言葉を真剣に聞き入り、不器用ながらも「パチ、パチ」と一粒ずつ、真剣な目で玉を動かしていく。

 小夜はその様子を、部屋の入り口から静かに見守っていた。

 いつもは尊大で頑なだった魔皇女の心が、この和の国の小さな寺子屋で、子どもたちの純粋な温もりに触れて、また一つ、優しく柔らかく解き放たれていく。その光景を見つめる小夜の胸の奥には深く、穏やかな温かい灯火が揺れていた。


 その日の夕方。長屋へと続く帰り道を歩きながら、ルシエラは右手にしっかりと、お師匠様から「練習用にお使い」と貰ったそろばんを握りしめていた。

「……ねえ、小夜」

 ルシエラは歩きながら、不意に隣の小夜を見上げた。

 夕日に照らされた金髪のツインテールを揺らし、桃色の着物の裾からのぞく尻尾を、決意を込めるようにピーンと垂直に直立させる。

「お前、明日も寺子屋の巡回(監視)に行くわよ!」

「御意。ルシエラ様がそう望まれるのであれば、いつでもお供いたします」

 小夜はいつもの無表情のまま、深く一礼した。その声には、日常の任務をこなす以上の、確かな喜びの響きが混ざっている。

「当然よ! 私は魔界の天才なのよ!? このまま和の国の子どもに負けたままでいられるわけがないでしょう! 見ていなさい、今夜中にこのそろばんの術式を完全に解明して、明日こそは、あの小娘――お初ちゃんに絶対、天地がひっくり返っても算術競争で勝ってやるんだからぁっ!」

 顔を真っ赤にして、夕暮れの空へ向かってそろばんを突き出すルシエラ。

               ☆

 そして翌日。再び寺子屋を訪れた魔皇女は、お初ちゃんとの算術競争に挑んだものの……。

「願いましては――、十六文なり、二十三文なり、十一文引きまして、三十五文なり、二十六文引きまして、その答えは?」

 お師匠様が読み上げた問題に、ルシエラは目を剥いた。

「なによこれ。昨日よりも桁数増えてるじゃない!」

「三十七文です!」

 お初が元気よく答える。

 またしても完敗した。

「おのれ和の国ぃぃぃっ! もう二度と寺子屋なんかに行かないんだからぁぁぁっ!」

 その絶叫が、寺子屋の外まで響き渡ったのだった。

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