第十三話 夏祭りの花火と、知らない感情
「わあ、ルシエラちゃん、小夜ちゃん! こっちこっち! 早くしないと、良い場所が他のお客さんに取られちゃうよ!」
夏の終わりの生温かい夜風が吹き抜ける中、江戸の町は年に一度の「夏祭り」の熱気に、文字通り沸き立っていた。
団子屋の看板娘である千代の強い勧めに押し切られる形で、ルシエラと小夜は、境内一面に無数の提灯が掲げられた大きな神社の境内にやって来ていた。夜闇の中に浮かび上がる何百もの朱色の光が、押し寄せる参拝客の波を色鮮やかに照らし出している。
ルシエラは、この日のために昼間から小夜に手伝ってもらって身にまとった、涼しげな藍色と白の金魚の柄があしらわれた爽やかな浴衣を着ていた。慣れない木製の下駄の音を「カラン、コロン」と不器用に響かせながら、右へ左へと忙しなく視線を動かしている。
「な、何よこれ……! 魔界の『魔霊祭』とは、何から何まで全然違うじゃない! あっちの祭りは、誰が一番多くの生贄を捧げるかっていう血生臭い力比べだけど……この国の祭りは、なんだか妙に……その、楽しそうな匂いがするわね」
ルシエラは溢れ返る人混みに圧倒されつつも、どこか浮き足立つ心を隠せない様子で、着物の裾から覗く漆黒の尻尾を小さくパタパタと揺らした。
「生贄などはありません。和の国のお祭りは、神仏への日頃の感謝を捧げ、それと同時に、町の人々がこうして集まって純粋に楽しむためのものです」
小夜もまた、普段の隠密装束を脱ぎ捨て、落ち着いた深い紺色の浴衣に身を包んでいた。
「ふ、ふん。純粋に楽しむ、ねぇ……」
ルシエラは浴衣の裾をいじりながら不満げに声を漏らした。
そんなルシエラの耳に、賑やかな人混みの向こうから「さあさあ、狙いを定めて景品を射落としな!」という威勢の良い声が飛び込んでくる。
見れば、小ぶりの弓を手にした町人たちが、吊るされた玩具や小物を狙う『楊弓』の店が目に留まった。
「何かしら、あの原始的なお遊びは」
「楊弓だよ、ルシエラちゃん! あの小さな弓で欲しい景品を射落とせば、もらえるんだから!」
千代が目を輝かせて説明すると、ルシエラはフッと不敵な笑みを浮かべ、胸を張って行列の最後尾に割り込んだ。魔界の射撃魔法において右に出る者はいないという自負が、彼女の誇り高き魂を刺激したのだ。
「こんな原始的な飛び道具、私の暗黒魔法に比べれば児戯にも等しいわ! 家臣たちよ、この私の神業を目に焼き付けなさい!」
ルシエラは誇らしげにツインテールを揺らし、悪魔の尻尾を期待でパタパタと振りながら、手渡された小ぶりの弓を構えた。狙うは、棚の最上段から細い糸で吊るされた、一番大きな飾り物の箱だ。
「消え去りなさい!」
威勢よく弓を引き絞ると、ヒュッという風切り音が響き、放たれた矢は見事に箱のど真ん中に命中した。――しかし。
「……え?」
箱はわずかに揺れただけで、落ちる気配は微塵もなかった。
「な、何よこれ! 確実に当たったわよ!? この和の国の武器、魔力が込められていないからって、威力が貧弱すぎるわ!」
「ルシエラちゃん、それはね、吊るされた糸も切らないと落とせないんだよ!」
千代の助言を受けて、ルシエラは顔を真っ赤にしながら二本目、三本目の矢を放ったが、狙いはことごとく外れてしまった。
結局、一向に取れない景品を前に、ルシエラは最後の一本を放ってしまった。
「おのれ和の国……! この私をコケにするなんて、絶対に許さないんだから!」
悔し涙を浮かべて地団駄を踏むルシエラの横から、すっと細い手が伸びて、小夜が代わりの楊弓を手に取った。
「ルシエラ様。忍びの狙撃術、ご覧に入れます」
小夜はいつもの無表情のまま、一切の無駄がない動作で弓を構えた。その涼しげな瞳が、棚の隅にある小さな『花の髪飾り』へと向けられる。
刹那、ヒュッ、と短い音が響いた。放たれた矢は、髪飾りに吊るされた糸に正確に命中し、その衝撃で、可憐な桃色の髪飾りが棚からころりと転がり落ちた。
「はい、お見事! お隠密のお姉ちゃん、大当りだよ!」
店主の声に、ルシエラは「なっ……!」と息を呑んだ。自分が手も足も出なかった遊戯を、家臣があっさりと攻略してしまったのだ。プライドがズタズタになり、漆黒の尻尾が完全に元気をなくして地べたへと垂れ下がる。
そんなルシエラの前へ、小夜が歩み寄った。その手には、先ほど撃ち落としたばかりの桃色の髪飾りがある。
「ルシエラ様。こちらをどうぞ」
「な、何よこれ。こんな安物の髪飾り、魔界の最高級宝石に比べたら足元にも及ばないわ……」
ルシエラはぷいと横を向き、ぶつぶつと文句を並べ立てた。しかし、小夜は表情を変えないまま、少しだけ声を潜めて問いかける。
「お嫌い、でしたか?」
「嫌いとは言っていないでしょう! せっかく……せっかくお前が取ったんだから、特別に、この私が使ってあげるわ!」
ルシエラはひったくるように髪飾りを受け取ると、自分の金髪のツインテールの根元へと不器用に差し込んだ。夕方の露店の灯りに照らされた彼女の顔は、桃色の髪飾り以上に真っ赤に染まっている。
「……よくお似合いです、ルシエラ様」
「うるさいわね! お世辞なんていらないわよ!」
強がるルシエラだったが、浴衣の帯の下に隠された悪魔の尻尾だけは、嬉しさを隠しきれずにブンブンと激しく左右に揺れ動いていた。
☆
射的での敗北(と、プレゼントされた気恥ずかしさ)のせいで、ルシエラは腕を組んだまま、しばらく不機嫌そうに唇を尖らせて歩いていた。
「もう、ルシエラちゃん、いつまで怒ってるの? ほら、お祭りといったらやっぱりこれだよ!」
千代がクスクスと笑いながら、二人をさらに賑やかな大通りへと引っ張っていく。
そこは、道の両側にずらりと食べ物の屋台が並んでいた。
じゅわぁぁっと網の上で音を立てる串焼きの肉。たっぷりと濃い醤油のタレを塗られ、パチパチと香ばしい匂いを振りまく焼きとうもろこし。魔界のトゲトゲした宮廷料理とは一線を画す、瑞々しくも暴力的なまでに食欲をそそる未知の香りが、辺り一面に満ちている。
「くっ……!?」
その瞬間、ルシエラの鼻腔を香ばしい匂いがくすぐった。
本人の意思とは裏腹に、彼女の浴衣の裾から、漆黒の尻尾がピーンと垂直に直立し、期待で小刻みに震え始める。
「ルシエラ様。尻尾が、非常に素直に反応していますね」
「なっ、何言ってるのよ小夜! これは和の国の夜風のせいで、勝手に痙攣しているだけよ!」
必死に言い訳を並べ立てるルシエラだったが、千代が「はい、焼き立てのとうもろこしと、牛の串焼きだよ!」と、湯気の立つ食べ物を目の前に差し出すと、もう限界だった。ゴクリ、とあからさまに喉が鳴る。
「ふん。射的は散々だったけれど、この国の庶民が作る食べ物だけは、少しだけ評価してあげてもいいわ! これは慈悲よ、慈悲!」
捨て台詞を吐きながら、ルシエラは焼きとうもろこしをガブッと豪快に齧り取った。
口の中に広がる、弾けるような粒の甘みと、焦げた醤油の圧倒的な旨味。
「――っ、美味しいわこれ……! 魔界の獄炎鳥の丸焼きにも負けない香ばしさだわ!」
ルシエラの紅い瞳が、感動のあまりウルウルと潤む。あまりの幸福感に、背中の小さな黒い翼はバサバサと激しく羽ばたき、尻尾にいたっては地べたを激しく叩く勢いで大暴れし始めた。
「あはは! ルシエラちゃん、本当に美味しそうに食べるねえ!」
「美味しくなんか……っ、もぐ、美味しいけれど! ほら、小夜、お前も家臣ならボサッと見ていないで、あっちの林檎飴というやつを私に献上しなさい!」
口の周りにうっすらとタレをつけた魔皇女が、空になった串を突き出して声を張り上げる。小夜はその様子を静かに見つめながら、ふところから懐紙を取り出し、驚くほど優しい動作で彼女の口元を拭ってやった。
「御意。お望みのままに、ルシエラ様」
小夜の薄い唇の端が、本当に微かに、愛おしそうに綻ぶ。
そうして小夜が人混みを縫って買ってきたのは、夜店の灯りを浴びて、まるで巨大なルビーのように妖しく艶やかに輝く林檎飴だった。
「ほぅ……」
受け取ったルシエラは、思わずその美しさに感嘆の息を漏らした。魔界の宮廷に飾られる一級品の宝石を思わせる深紅の輝きに、彼女の紅い瞳が吸い寄せられるように釘付けになる。
「な、何よこれ。見た目だけは、少しは皇族の持ち物にふさわしい格好をしているじゃない。……いいわ、そこまで言うなら毒味をしてあげるわ!」
ルシエラは小さな口を精一杯に開けると、真っ赤な飴の塊に、小さな犬歯を立てて思い切り齧り付いた。
――カリッ、と静かな夜気に小気味よい音が響く。
その瞬間、ルシエラの脳内に凄まじい衝撃が走った。
(な、何よこれ……っ!?)
外側の薄い飴の膜がパチンと弾けた瞬間、口いっぱいに広がったのは、脳を直接蕩けさせるような濃密な純粋な甘み。しかしそれだけでは終わらない。さらに深く歯を沈めると、中から溢れ出してきたのは、驚くほど瑞々しい林檎の果汁だった。
サクサクとした果肉の爽やかな酸味が、飴の甘さと完璧な調和を奏で、口の中でじゅわじゅわと一体になっていく。魔界の、どれほど贅を尽くした宮廷菓子でも味わったことのない、果実そのものの生命力を活かした二重の美味。
「――っくぅん!」
あまりの美味しさに、ルシエラは身悶えした。
背中で黒い翼が激しく羽ばたき、尻尾が嬉しそうに左右へ揺れ始める。
「最高よ! 最高だわこれ! この『りんごあめ』という名の結晶、魔界の秘宝に認定してあげてもいいわ! ほら、小夜、お前も一口食べなさい! 主君からの格別の褒美よ!」
「いえ、私は家臣ですので、ルシエラ様がすべてお召し上がりください」
「な、何よ、せっかく私が分けてあげるって言っているのに、本当に可愛げのないくノ一ね……!」
頬をふくらせて不満を漏らしつつも、ルシエラは再び目を輝かせ、幸せそうに林檎飴へと齧り付きながら、次なる屋台へと突き進んでいく。
そんなポンコツで愛らしい主君の姿を見つめながら、小夜と千代は顔を見合わせ、楽しげにその後に続いた。
じゅうぶんに露店の味を堪能し、すっかりお腹も心も満たされたルシエラの手を、千代が今度はいたずらっぽく掴み取る。
「次は金魚すくいやろうよ! あたしがコツを教えてあげるから!」
千代にぐいぐいと腕を引っ張られ、ルシエラは木枠の水槽が並ぶ出店の前へと連れて行かれた。
水槽の中では、提灯の光を反射した無数の赤い金魚たちが、気持ちよさそうに泳ぎ回っている。手渡されたのは、薄い和紙が張られた『ポイ』と呼ばれる円形の道具だった。
「ふん、こんな小さな魚をすくい上げるだけなんて、赤子の手をひねるより簡単よ! この私が持つ魔皇女の反射神経を持ってすれば、一瞬ですべての魚を――って、ああっ!? 何よこれ、水に入れた瞬間に紙が破れたわよ! 卑怯よ、こんな脆弱な道具を使うなんて!」
ルシエラがムキになって何度も挑戦するものの、水に勢いよく入れすぎるせいで、和紙はすぐに無惨な穴を開けてしまう。一匹もすくえず、お椀は空っぽのままだ。顔を真っ赤にしてキーキーと悔しがるルシエラの背後から、小夜が音もなくすっとしゃがみ込んだ。
「ルシエラ様、力任せにやっては紙が持ちません。ポイは水面に対して斜めに、滑り込ませるように入れるのです」
小夜はルシエラの背後から包み込むようにして、ルシエラの右手を、自分の少し冷たい手のひらで優しく、しかし包み込むように覆った。
「――っ!?」
小夜の指先から伝わる独特の体温と、背中越しに感じる彼女の微かな呼吸の気配。突然の距離感に、ルシエラの心臓がドクンと大きく跳ね上がった。浴衣越しにも伝わる小夜の存在感に、ルシエラの頭は一瞬で真っ白になる。
「さ、小夜……お前、近、近すぎるわよ……っ」
「集中してください、ルシエラ様。ほら、狙いを定めて、今です」
小夜のリードのままに、滑らかに手を動かす。すくい上げた和紙の上で、一匹の美しい赤い金魚がピチピチと跳ね、見事にお椀の中の水へと滑り落ちた。
「やったわ……! 見たかしら千代、小夜! 私の超絶技巧ですくい上げてやったわ!」
ルシエラは先ほどの緊張も忘れ、嬉しさのあまり、背後の小夜の方を振り返って満面の笑みを浮かべた。その無邪気で、これ以上ないほど輝かしい笑顔を見た瞬間――。
――ヒュゥゥゥ、ドォォォンッ!!
お祭りのハイライトである大花火が、江戸の夜空に向かって高らかに打ち上がった。
地響きのような凄まじい音と共に、真っ黒な夜空に大輪の光の華が咲き誇る。赤、青、緑、そして眩い金色の光が、火の粉となって夜の空間を美しく幻想的に染め上げていく。
「――え?」
ルシエラは驚いて言葉を失い、そのままぽかんと口を開けて空を見上げた。
魔界の凶悪な破壊魔法に比べれば、その威力も規模も遥かに小さいはずだった。ただの火薬の燃焼現象。しかし、その一瞬で消え去る儚い輝きと、腹の底に響く重低音は、ルシエラの心を激しく、そして優しく揺さぶった。
「綺麗ですね、ルシエラ様」
隣から、小夜の穏やかな、どこか弾んだ声が聞こえた。
ルシエラは吸い寄せられるように、空から小夜の方へと視線を移した。
次々と打ち上がる花火の鮮烈な光に照らされて、小夜の横顔が様々な色彩に変色していく。いつもは感情を殺し、人形のようだと言われる小夜の瞳の中に、美しい光の華が万華鏡のように映り込んでいた。そして、小夜の薄い唇の端が、本当に微かに、しかし愛おしそうに、優しく微笑みの形を結んでいたのだ。
その瞬間、ルシエラの胸の奥が、これまでに経験したことのないほど激しく『ざわつき』、締め付けられるように熱くなった。
隣で花火を見つめる小夜の横顔から、どうしても目が離せなくなる。
(な、何よこれ……。どうして私、この娘の顔を見て、こんなに胸が苦しくなっているのよ……?)
ルシエラは自分の浴衣の胸元を、ぎゅっと強く掴みしめた。




