第十四話 人に恋した雪女
夏祭りの喧騒が嘘のように引き、江戸の町に秋の冷涼な風が吹き込み始めた頃、季節外れの怪異が町を騒がせていた。
「……寒い。何よこれ、いくらなんでも寒すぎるわよ! まだ秋の入り口のはずでしょう!?」
長屋の部屋の中で、ルシエラは煎餅布団を頭からすっぽりと被り、ガタガタと全身を震わせていた。金髪のツインテールが布団の隙間から覗き、漆黒の尻尾は寒さのあまり、ルシエラの足首に固く巻き付いている。
魔界の炎熱にも耐えられる皮膚を持つルシエラだったが、この和の国の寒さは、彼女の体内で滞っている魔力を直接凍りつかせるような、奇妙な『妖気』を孕んでいた。
「ただの自然の寒さではありません。市中の一角に、異常なほど強い氷の妖気が立ち込めています。……任務の時間のようです」
部屋の隅で、小夜がいつもと変わらぬ冷静な手つきで黒装束の紐を締めていた。その表情には、寒さを感じている様子は微塵もない。
「待ちなさい小夜! 私も行くわ!」
ルシエラは布団を跳ね除け、立ち上がった。寒さで顔を青くしながらも、紅い瞳には強い意志が宿っている。
「私の『家臣』がそんな不気味な寒気の元に一人で突っ込んでいって、凍りついて戻ってこなくなったら困るでしょう!? 仕方がないから、私が直々にその寒さの元凶を灰にしてあげるわ!」
「……ルシエラ様、尻尾がまだ震えています。ですが、お供していただけるなら心強いです」
小夜はほんの少しだけ目を細めると、ルシエラに厚手の羽織を手渡した。
二人が長屋を出て、妖気の源を追って辿り着いたのは、大通りから外れた寂れた裏路地だった。
周囲の家々の軒先には、季節外れの鋭い氷柱がびっしりと垂れ下がり、地面は真っ白な霜で覆われている。その中心に、白一色の着物をまとい、透き通るような白い肌と、凍てつくような青い髪を持った美しい女が佇んでいた。
彼女の周囲からは、触れるものすべてを凍らせるほどの凄まじい絶対零度の吹雪が、絶え間なく吹き荒れている。
「やっぱり妖怪の仕業ね! どこの馬の骨だか知らないけれど、この魔皇女ルシエラの前で寒気を撒き散らす不敬を働きなさい!」
ルシエラが前に出ようとしたが、その雪女は襲いかかってくる気配を見せなかった。彼女はただ、一軒の長屋の窓を、悲しげな、そして今にも泣き出しそうな瞳で見つめているだけだった。その窓の奥には、二十歳前後と思しき一人の青年が、突然の寒さに身を震わせながら眠っている姿が見えた。少し日に焼けた顔立ちに、無造作に結ばれた黒髪。枕元には、使い込まれた藍色の羽織が置かれている。
「雪女さん。なぜこのような場所で妖気を暴走させているのですか。これでは周囲の人間が凍えてしまいます」
小夜がクナイを低く構えながら、穏やかに問いかけた。
雪女はビクリと身体を震わせ、二人を振り返った。その瞳から溢れた涙は、地面に落ちる前に小さな氷の粒へと変わる。
「……私は、あの人を傷つけたいわけではないのです。ただ、もう一度、あの方のお顔が見たくて……」
雪女の声は、風に消えそうなほど儚かった。
話を聞けば、彼女は人間の青年に恋をしてしまったのだという。数日前、行き倒れそうになっていた彼女を、その長屋に住む実直な大工の青年が助けてくれた。それ以来、彼女の胸には、冷たい身体しか持たない妖怪には許されないはずの『熱い感情』が芽生えてしまった。
しかし、彼女が青年に近づけば近づくほど、彼女の持つ冷気は、青年の身体を容赦なく蝕み、凍えさせてしまう。
「人と妖は、決して結ばれない……。私が傍にいれば、あの人は死んでしまう。だから、姿を消さなければいけないのに……どうしても、胸が苦しくて、ここから動けないのです……」
雪女は顔を覆い、すすり泣いた。彼女の悲しみと葛藤に呼応するように、周囲の吹雪がさらに激しさを増していく。
「好きなら、好きだと言えばいいじゃない!」
不意に、激しい風を突き破るように、ルシエラの澄んだ声が響き渡った。
「え……?」
雪女が驚いて顔を上げる。
ルシエラは羽織を強く握りしめ、雪女に向かって叫んでいた。
「種族の違いなんて関係ないわよ! そんな、近づいたら傷つけるからなんて理由で、自分の気持ちを無かったことにするなんて……そんなの、ただの意気地なしよ! 好きなら、相手にちゃんと伝えなさいよ!」
その言葉は、目の前の雪女だけでなく、小夜の胸の奥深くにも鋭く突き刺さった。
小夜は、ルシエラの横顔をじっと見つめていた。
「ルシエラ様のおっしゃる通りです」
小夜は一歩前に出ると、懐から特殊な火薬の入った忍びの道具を取り出した。
「雪女さん、あなたの冷気を一時的に抑え込む術なら、私の薬学と忍術で用意できます。ですから、諦める前に、あなたのその言葉を、彼に伝えてください」
小夜の言葉と、ルシエラの力強い瞳に背中を押され、雪女はゆっくりと頷いた。
小夜が施した簡易的な結界術によって冷気を完全に封じられた雪女は、意を決して青年の長屋の戸を叩いた。
驚いて出てきた青年は、彼女の姿を見るなり、その手を強く握りしめ、心配そうに彼女を中に迎え入れた。種族の違いなど、青年の温かい笑顔の前には最初から何の問題でもなかったのだ。
裏路地の寒気はすっかりと収まり、穏やかな秋の夜風が戻ってきた。
「……ふん。一件落着ね。和の国の恋愛事情なんて、本当に面倒くさいわ」
ルシエラは腕を組み、歩きながらぶつぶつと文句を言っていた。相変わらず強がっているが、その顔は先ほどの興奮の余韻で少し赤い。
「ルシエラ様」
隣を歩く小夜が、不意に足を止め、ルシエラを見つめた。
「先ほど、雪女さんに『好きなら伝えろ』とおっしゃっていましたが……。もし、ルシエラ様に、それほどまでに大切で、好きな相手ができたなら……あなたは、その気持ちを相手に伝えることができますか?」
「――へっ!? な、何言ってるのよお前は!」
突然の問いかけに、ルシエラは盛大にむせた。顔が一瞬にしてお団子のタレよりも真っ赤に染まり、ツインテールが激しく揺れる。
「わ、私にそんな相手ができるわけないでしょう! 私は高貴なる魔皇女よ!? 人間だの妖怪だの、そんな矮小な生き物に心を奪われるはずがないわ!」
ルシエラは必死に否定し、小夜から顔を背けて早足で歩き出した。
しかし、その着物の裾から覗く漆黒の尻尾は、小夜に問いかけられた瞬間から、破裂しそうなほどに激しく、そして嬉しそうにパタパタと大暴れしていた。




