第十五話 魔皇女、花に心を乱される
「は? 花を生ける、ですって?」
からりと晴れ渡った秋の日の午前。江戸の町外れにある長屋の縁側で、ルシエラは桃色の町娘風の着物の裾を揺らしながら、怪訝そうに片方の眉を跳ね上げた。
彼女の視線の先にいるのは、先日、寺子屋でそろばんを教えてくれた八歳の少女、お初だった。お初は小さな手に、黄色や白の可憐な野菊をいくつか抱え、目をきらきらと輝かせている。
「うん! 今日ね、近くのお寺の境内で、お師匠様が『いけばな』の催しを開いてくれるの。新太たちも行くんだよ。ルシエラお姉ちゃんも、小夜お姉ちゃんと一緒に行こう?」
「ふん……要するに、植物の細胞に直接魔力を注ぎ込み、強制的に急成長させて操る魔術のことね。そんなもの、わざわざ人間に教わるまでもないわ。植物を操る程度なら、魔界の幼児でも鼻歌交じりにできるわよ!」
ルシエラはふんぞり返り、金髪のツインテールを誇らしげに揺らした。桃色の着物の裾から覗く漆黒の悪魔の尻尾が、己の知識の深さを誇示するように誇らしくピンと直立している。
「ルシエラ様。和の国の『生け花』は、魔術で植物を巨大化させるものとはかなり毛色が異なります」
傍らでクナイの手入れを終え、漆黒の装束から藍色の町娘風の浴衣へと着替えを済ませていた小夜が、感情の読めない涼しげな瞳でルシエラを見つめた。
「ですが、この国の住人が四季折々の植物にどのような意味を見出しているのかを知ることは、市井に紛れる任務としても有意義です。お供いたします」
「お前がそこまで言うなら、和の国の『植物魔術』とやらがどれほどお粗末なものか、この私が直々に検分してあげるわ! さあ、案内しなさい!」
☆
お初に連れられてやってきたのは、境内にある静かなお堂だった。
堂内には、大きな木箱や陶器の花器がいくつも並べられ、その周囲には、秋の訪れを告げる見事な菊の花が色とりどりに用意されていた。大輪の気品ある白菊、燃えるような美しさを持つ黄菊、そして、ひっそりと佇む野菊や、青々とした楓の枝。
お堂の中央には、穏やかな笑みを浮かべた年配の女性――生け花の師匠が腰掛けていた。
「さあ、皆さん。お花は命です。その命を器の中でどう生かすか、心で感じたままに生けてみてくださいね」
師匠の言葉を聞き、子どもたちが一斉に鋏を手に取り、思い思いに花を器へと挿し始める。
小夜もまた、手際よく小さな花器を選び、その前に端然と腰掛けた。
「ふん、見ていなさい小夜。魔皇女たる私の、圧倒的な芸術センスというものをね!」
ルシエラは腕を組み、用意された植物の前に立つと、目の前にある一番大きくて派手な黄菊に目を留めた。
(私の得意な魔法は、すべてを灰燼に帰す『黒色火炎』……つまり、破壊の魔法。けれど、無から有を生み出す創造の分野だって、天才の私にかかれば造作もないわ!)
ルシエラは、己の頭脳に宿る凄まじい誇大妄想を爆発させた。
「目指すは、魔界の頂点に聳え立つ我がブラッド一族の皇宮! 漆黒の闇と、血の滴るような暴力的美しさの再現よ!」
ルシエラは手当たり次第に、太くトゲトゲした枯れ枝や、背の高いススキ、そして見上げるほど大きな大輪の菊を、力の限り花器の中央にある剣山へと突き刺していった。
一本、また一本。およそ「調和」という概念から最も遠い、質量と破壊のエネルギーだけで構成された植物の塔が、見る見るうちに組み上がっていく。
「はっはー! これぞ魔皇女流、暗黒魔宮・百花繚乱よ! どうよ小夜、この圧倒的な質量と威厳の前に跪きなさい!」
「……ルシエラ様。一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「ふん、何よ。私の芸術的才能に圧倒されたの?」
「この作品は、どこから鑑賞するのが正しいのでしょうか」
「当然、正面からよ!」
「正面がどちらなのか、分からないのですが」
「なっ……! ぜ、全部正面よ! 皇女の芸術に裏表なんてないんだから!」
ルシエラが勝ち誇ったように腰に手を当て、高笑いを上げたその時だった。
メキメキ、と不穏な音が響く。ルシエラが、自分の身の丈ほどもある巨大な枝や花を、限界を超えて詰め込みすぎたせいで、小さな陶器の花器が重みに耐えきれなくなっていたのだ。器はぐらぐらと大きく傾き、今にも床へひっくり返りそうになる。
「ふええ……ルシエラお姉ちゃん、お花が、お花が苦しそうだよぉ……」
隣でおずおずと自分の野菊を生けていたお初が、今にも泣き出しそうな顔でルシエラの作品を見上げていた。
「え……? く、苦しそう……?」
ルシエラはハッと我に返った。
見れば、詰め込まれた大輪の菊たちは、互いの葉や茎に押し潰され、せっかくの美しい花びらが無惨に変形し、窮屈そうに悲鳴を上げているように見えた。
「――そこまでですよ、お嬢ちゃん」
静かな、しかし確かな重みを持つ声と共に、生け花の師匠がルシエラの前にそっと歩み寄った。師匠は、倒れそうになっていた花器を優しい手つきで支え、ルシエラへと微笑みかけた。
「とても力強くて、あなたの真っ直ぐな心が伝わってくる、見事な勢いです。……ですがね、お嬢ちゃん。美しさというのは、お花の数や大きさ、力強さだけで決まるものではないのですよ」
「な、何よ……。大きい方が強いし、たくさんあった方が豪華でしょう!?」
ルシエラは顔を真っ赤にして反論した。魔界では、魔力の量が多い者が、軍勢の数が多い者が正義だったからだ。
「それは戦いのお話でしょう?」
師匠は首を小さく横に振った。
「生け花はね、お花を無理に戦わせるものではありません。一本一本のお花が、どこに向かって咲きたがっているのか。風はどこから吹いているのか。それを感じて、お花に『呼吸をするための隙間』をあげるのです。お花を生かすということは、余白を愛するということでもあるのですよ」
「余白、を……愛する……?」
ルシエラは言葉を失い、口をパクパクと開閉させた。
そんなルシエラの視線が、ふと隣の小夜の元へと向けられた。
「……っ」
ルシエラは息を呑んだ。
小夜の前に置かれた小さな黒い陶器の器には、ほんの数本の植物しか生けられていなかった。
すらりと伸びた一本の枯れ枝。その足元に、静かに寄り添うように咲く、淡い紫色の小さな野菊が二輪。そして、秋風の通り道を示すかのように、一枚の楓の葉が添えられている。
それは、ルシエラの作った豪奢な「魔宮」に比べれば、あまりにも質素で、あまりにも地味な作品だった。
しかし――どういうわけか、見つめれば見つめるほど、小夜の花からは目が離せなくなった。静かな秋の野原の景色が、その小さな器の中に確かに広がっているような、言葉にできない洗練された美しさがそこにはあった。
「……なんでよ」
ルシエラは悔しそうに唇を噛み、小夜を睨みつけた。
「……こんなに地味なのに。私の花の方がずっと高貴なはずなのに……どうしてお前の花の方が、こんなに綺麗に見えるのよ」
小夜は、研ぎ澄まされたクナイを眺める時と同じ、感情の読めない冷徹な瞳で自分の花を見つめていた。しかし、ルシエラに向けられたその声には、ほんの僅かな、雪解けのような温もりが混ざっていた。
「私には、あなたの言う芸術のセンスも、魔術の知識もありません。ただ、お師匠様に教わったとおりに……お花が一番気持ちよさそうに見える向きを探して、周りに十分な空気の通り道を作っただけです。この花が、ここで生きていられるように」
「生き、られるように……」
ルシエラは、もう一度自分の作った「魔宮」を見た。
押し潰され、窒息しそうになっている秋の菊たち。
(私は……これまで、何かを生かすための力なんて、考えたこともなかった……)
魔界の皇女として、敵をいかに効率よく破壊するか、いかに圧倒的な恐怖でねじ伏せるか。それだけが彼女の世界のすべてだった。だが、この和の国の人々は、脆弱な肉体しか持たないくせに、こうして小さな花の「命」と向き合い、それを美しく生かすための知恵を持っている。
「……ふん。分かったわよ。そこまでお前たちが言うなら、この天才ルシエラ様が、本当の『生かす技術』というものを見せてあげるわ!」
ルシエラはツインテールを乱暴に揺らし、今度は鋏を慎重に握り直した。
傲慢なプライドを一度脇に置き、ルシエラは初めて、一本の白菊を目の前に掲げてじっと見つめた。
(この子は……どっちを向きたいのよ)
少しだけ茎が曲がっている。ならば、その曲がった形を活かして、器の端から外を覗き込むように配置すればいいのではないか。
(ススキは多すぎるわ。これじゃあ、菊の顔が見えないじゃない。……これくらい、間引いて……)
一本、また一本。ルシエラは驚くほど真剣な表情で、時には尻尾の先端を不安げにピキピキと揺らしながら、花と対話を試みるように生け直していった。小夜はその様子を、一言も発さず、ただ静かに、優しい眼差しで見守り続けていた。
☆
「まあ! なんて素敵なお庭が出来上がったのでしょう」
しばらくして、完成したルシエラの作品を見て、生け花の師匠がパッと顔を輝かせた。
器の中に完成したのは、以前の暴力的で不格好な塔ではない。中央には、のびのびと葉を広げた大輪の白菊が堂々と鎮座し、その周囲には、まるで主君を守る家臣のように、黄色い野菊たちが程よい距離感を保って優しく咲き誇っている。風が通り抜けるための「余白」が、そこには確かに存在していた。
「わあ! ルシエラお姉ちゃん、お花がすっごく嬉しそうに笑ってる!」
お初が手を叩いて大喜びし、ルシエラの着物の袖を引っ張った。
「ふ、ふん! 当然よ! この私がほんの少し本気を出せば、和の国の植物たちだって、私の威厳に打たれて自ら最も美しい形へと整列するのよ! 慈悲深い私が命を吹き込んであげたのだから、この菊たちも冥利に尽きるというものね!」
ルシエラは勝ち誇ったように腕を組み、いつもの高飛車な態度で胸を張った。しかし、その頬は照れ隠しのせいで、お団子のタレよりも、わさびのパニック時よりも、綺麗な夕焼け色に深く深く染まっていた。
背後で小さく羽ばたく背中の黒い翼が、嬉しさを隠しきれずにパタパタと動いている。
催しが終わり、師匠から「おうちに飾ってくださいね」と、それぞれが生けた花を小さな簡易的な器に分けてもらった。
夕暮れ時、茜色の美しい夕日に包まれながら、ルシエラと小夜は静かな長屋への帰り道を歩いていた。
ルシエラは、自分の作った小さな菊の束を大事そうに抱えながら、下駄をカラン、コロンと不器用に響かせていた。
「……ねえ、小夜」
「はい、何でしょうか、ルシエラ様」
「今日のお花っていうの? ……まぁ、その、戦いにはこれっぽっちも役に立たないけれど、たまにはあんな風に、脳に刺激を与えない地味な作業というのも、高貴な私の休日の娯楽としては、悪くはなかったわ」
「それは何よりです。案内した甲斐がありました」
「でも、勘違いしないでよね! 私が花を生かしてあげたのは、ただの気まぐれなんだから! 明日になったら、また全部黒色火炎で灰にしてあげるんだからね!」
「御意。その時は、私が全力でお止めいたします」
小夜の薄い唇の端が、本当に微かに、しかし確かに、愛おしそうに結ばれた。ポンコツで愛らしい魔皇女自身は、自分の心臓のトクンという高鳴りに必死に蓋をするあまり、その微笑みには気づいていなかった。
☆
長屋に帰り着き、夜の帳がすっかりと下りた頃。
ルシエラは四畳半の畳の上に寝転びながら、ふと部屋の隅へと視線を向けた。
「……あ」
ルシエラは思わず、煎餅布団の上で跳ね起きた。
長屋の薄暗い一室。障子のそばの、昼間は柔らかな日差しが差し込み、小夜が部屋を出入りする際にも必ず目に入る場所。
そこに、ルシエラが今日作った、あの不格好ながらも一生懸命に生けた白菊と黄菊の小さな花束が、綺麗な竹筒の器に入れられて、丁寧に飾られていたのだ。
近くには、小夜の生けた地味な野菊も寄り添うように並べられている。
ちょうど部屋の障子戸が開き、漆黒の夜間装束に身を包んだ小夜が静かに入ってきた。背中にはクナイ、腰には縄を忍ばせ、これから江戸の夜の巡回へと向かうところだった。
ルシエラは飾られた花と小夜を交互に見つめ、顔を林檎のように真っ赤にしながら、声を裏返らせて詰め寄った。
「ちょ、ちょっと小夜! 何よこれ! なんで私の作った花が、こんな一番目立つ場所に飾られているのよ! お前、私の許可なく勝手なことを……!」
「任務へ赴く前、そして戻った時に、主君の作られた見事な『庭』が目に入るのは、家臣としてこれ以上の誉れはありません」
小夜は真顔のまま、いつも通りの静かなトーンで淡々と答えた。
「そ、そんなに……そんなに気に入ったの? 私の作った、その、不格好な花が……」
ルシエラは自分の着物の袖をぎゅっと握りしめ、上目遣いで小夜を盗み見た。着物の裾から覗く漆黒の尻尾が、恥ずかしさと、言葉にできない期待のせいで、畳の上をペチペチペチペチと凄まじい速度で連続して叩きつけている。
小夜は動きを止め、冷徹な人形のようだと称されるその顔に、これ以上ないほど優しい『微笑み』を浮かべた。
「はい。私は、ルシエラ様の生けたお花、とても好きですよ」
「っ――!?」
(好き、ですって……!?)
ルシエラの頭の中で、何かが爆発したような衝撃が走った。
それが「ルシエラの作った花」を褒めた言葉だと分かっていても、小夜の口から放たれた「好き」というあまりにも真っ直ぐな響きが、彼女の純粋すぎる心臓を激しく狂わせる。
「お前、本当に可愛げがないわね! もう知らないわよ!」
ルシエラは叫ぶと同時に、布団を頭からすっぽりと被り、壁の方を向いて完全に丸くなってしまった。
「ルシエラ様。顔が茹で上がったタコのように真っ赤ですよ。それに、帯の下の尻尾が、喜びのあまり千切れんばかりに大暴れしています」
「うるさいわね! これは和の国の秋の夜風が寒くて、身体が勝手に痙攣しているだけよ! さっさと仕事に行きなさい、この泥棒猫!」
布団の中からキーキーと怒声を上げる魔皇女。
「御意。では、行ってまいります」
カサリ、と静かに障子戸が閉まり、小夜の気配が夜の闇へと消えていった。
静まり返った四畳半の部屋の中で、ルシエラはおずおずと布団から顔を出した。
窓から差し込む青白い月光が、床の間に飾られた菊の花を優しく照らしている。
「……本当に、なんなのよ、あの娘は」
ルシエラは火照った両頬を手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
もう一度、障子のそばに飾られた花を見つめる。
白菊と黄菊。その隣には、小夜の生けた紫色の野菊が、静かに寄り添っていた。
ルシエラはしばらくその光景を眺めていたが、やがて顔を赤くしたまま、再び布団を被った。
ただ、布団の裾から覗く漆黒の尻尾だけは、いつまでも嬉しそうに、小さく左右に揺れていた。
一方、長屋を出た小夜は、屋根の上で一人の忍びと落ち合っていた。
「頭領からの書状だ。近いうちに、お前にも新たな役目が下される」
「……承知しました」
小夜は差し出された書状を受け取り、懐へ収めた。
「小夜。あの異界の娘に、情を移してはおるまいな」
その問いに、小夜はすぐには答えられなかった。
ほんの一瞬の沈黙。
それだけで、忍びとしてはじゅうぶんすぎるほどの失態だった。




