第十六話 妖狐、お玉
雪女の事件から数日後。
「いや、本当に寒気が引いて助かったぜ。あのまま長屋が凍りついてたら、わしの変化の葉っぱまで霜柱になるところだったからな!」
ポン吉が、長屋の縁側で胸を撫でおろしながら、大袈裟に短い手足を振っていた。
「それにしても姫さん、この前の雪女の姉ちゃんにあんなこと言うなんて、ずいぶん熱いじゃねえか。わし、感動しちゃったぜ?」
「うるさいわよ、この下等狸! お前は黙って、この前私が食べ損ねたお団子の買い出しにでも行きなさい!」
ルシエラは顔を真っ赤にして、ポン吉に向かって枕を投げつけた。
見事に脳直撃を食らったポン吉が「ひえ~ん!」と泣きながら庭へと転がり落ちていくのを横目に、ルシエラはふんっと鼻を鳴らす。
だが、その視線は部屋の隅で黙々とクナイの手入れをしている小夜へと、どうしても向かってしまう。
先日、小夜に「好きな相手ができたら伝えるか」と問われた瞬間の、胸の奥が焼き切れるような感覚がいまだに消えない。小夜はいつも通り淡々と作業をこなしているが、その静けさが逆にルシエラの心を激しく波立たせていた。
「ルシエラ様、あまりポン吉をいじめないでください。彼が泣くと、長屋の周囲に妙な妖気が集まります」
小夜が顔を上げ、いつもと変わらぬ穏やかな、しかし感情の読めない瞳でルシエラを見つめた。
「い、いじめてなんかいないわよ! 家臣の教育よ! それより小夜、今日の巡回はどこに行くのよ。退屈だから、早く私を美味しい甘味処にでも案内しなさい!」
「分かりました。では、少し足を伸ばして、江戸の裏社会とも繋がる大きな色街の近くを通りましょう。最近、その周辺で奇妙な残り香が観測されています」
二人は長屋を出て、賑やかな大通りを抜け、次第に華やかでどこか退。廃的な雰囲気が漂う一角へと足を踏み入れた。
そこは、昼間だというのに艶やかな着物をまとった女性たちが多く行き交い、三味線の音がどこからともなく響いてくる、江戸の夜を支配する歓楽街のすぐ近くの茶屋だった。
「……何よここ。魔界の堕落街に雰囲気が似ていて、なんだか落ち着かないわね」
ルシエラは羽織の襟をきゅっと締め、周囲を警戒するように見回した。彼女の背中の小さな翼が、不穏な空気を感じ取ってピクピクと細かく震えている。
「ここから先は、人間の欲望と、それに惹きつけられた妖怪たちが最も濃く交錯する場所です。不用意に動かないで――」
小夜が言葉を言いかけた、その瞬間だった。
ふわり、と。
周囲の三味線の音や人々の雑音が一瞬で遠のき、辺りに濃厚な、脳を直接麻痺させるような『芳醇な梅の香』が立ち込めた。
「おやおや。魔界のお姫様は、ずいぶん可愛らしい顔で周囲を睨みつけているんだねえ」
頭上から、鼓膜を優しく撫でるような、信じられないほど妖艶で美しい女の声が降ってきた。
「――っ!?」
小夜の身体が、これまでにない速度で反応した。一瞬でルシエラの前に踏み込み、腰の刀の柄に手をかける。
茶屋の二階の欄干。そこに、一本の細い足をだらしなく投げ出し、煙管を指に挟んで煙を燻らせている絶世の美女がいた。
見た目の年齢は二十歳前後。艶やかな漆黒の長い髪を複雑な簪でまとめ、胸元が大きくはだけた、深紅の豪奢な着物を崩して着ている。そして何より異様なのは、その頭から生える、ふさふさとした美しい一対の『狐の耳』。そして、彼女の背後で、まるで生き物のようにゆったりと揺らめく、九本の巨大な黄金の尻尾だった。
「お前……ただの妖怪じゃないわね」
ルシエラの肌が、本能的な恐怖と興奮で粟立った。失われているとはいえ、魔皇女としての鋭い勘が告げている。この女の持つ妖力は、これまでに遭遇した狸や河童とは桁が違う。江戸の、いや、和の国そのものの闇を統べるレベルの大妖怪だ。
「あたしの名前はお玉。玉藻前の血を引く、九尾の妖狐さ。人間たちからは、江戸の裏の首領なんて呼ばれているけれどねえ」
お玉は煙管を軽く振ると、二階の欄干から、重力を全く感じさせない優雅さで、すとんとルシエラの目の前へと着地した。
濃厚な梅の香りが、さらに強くルシエラの鼻腔を突く。お玉はルシエラの顔のすぐ近くまで顔を寄せ、その美しい、琥珀色の狐の目を細めた。
「ふぅん……。間近で見ると、本当に綺麗な顔をしているね。金色の髪に、紅いお目目。背中には可愛い羽まで生やしちゃって。ねえ、お姫様。あたし、面白いものが大好きでね。あんたみたいな異国の珍しい魔族を、ずっと探していたんだよ」
お玉の細い、白い指先が、ルシエラの顎をクイと持ち上げた。
「な、ななな、何するのよお前! 離しなさい!」
ルシエラは顔を真っ赤にしてのけぞろうとしたが、お玉の瞳に宿る強烈な『魅了』の妖術のせいで、身体が金縛りにあったように動かない。
お玉はクスクスと妖しく笑い、さらに距離を詰めてルシエラの耳元で囁いた。
「そんな、幕府の道具にしかならない冷たい忍びの小娘なんかと一緒にいるより、あたしと一緒にいた方が百倍は退屈しないよ? どうだい、あたしの可愛い『側室』にでもならないかい? 毎日、江戸中の最高級の甘味と、最高の贅沢をあんたに尽くしてあげるけれど?」
「そ、側室ぅぅぅっ!? 何を言っているのよ、この泥棒狐女!!」
ルシエラは頭が爆発しそうなほどの大混乱に陥った。側室なんて言葉、魔界の婚姻制度でも聞いたことがない(いや、意味は分かるが、同性から向けられる言葉としてはあまりにも刺激が強すぎた)。
だが、ルシエラが大騒ぎしているその真横で。
この世の終わりのような、凄まじい『絶対的な殺気』が、音もなく立ち上がった。
「――ルシエラ様から離れてください、泥棒狐」
地を這うような、極寒の絶対零度の声。
小夜だった。彼女はいつも通り、完全に無表情だった。眉一つ動いていないし、息一つ乱れていない。
しかし、その瞳の奥には、濁った漆黒の炎が網膜を焼き尽くさんばかりに燃え盛っていた。抜刀された刀の切っ先は、一ミリのブレもなくお玉の喉元を正確に捉えている。クナイを握る指先からは、殺気があまりに強すぎて「キィィン」と大気が鳴動するほどの金属音が響いていた。明らかに、これまでのどんな任務よりも、圧倒的に目が怖かった。
「小夜!? お前、目が、目が本気で怖いわよ!! 殺す気満々じゃないの!!」
ルシエラはお玉よりも、真横の家臣の豹変ぶりに腰を抜かしそうになった。
「あらあら、怖いねえ」
お玉は小夜の刀を前にしても、全く怯む様子なく、むしろ楽しそうに笑って指先をルシエラの顎から離した。
「幕府の忠実な『人形』が、ずいぶんと人間らしい、泥臭い顔をするじゃないか。ただの監視対象を、そんな風に自分のものみたいに囲い込んじゃってさ。隠密組織の頭領がこれを見たら、なんて言うだろうねえ?」
「……私は、頭領の命令に従っているだけです。怪異を市井で監視する、その障害となる存在を排除する。それだけです」
小夜の言葉は論理的だったが、刀を握る手には、明らかに『公務』以上の、ドス黒いまでの独占欲と嫉妬が乗っていた。
「くすくす、建前は立派だね。でもねえ、人間と妖怪、ましてや異界の魔族が、いつまでもそんな曖昧な関係で一緒にいられると思っているのかい?」
お玉の目が、一瞬だけ、悪戯っぽいものから、何百年もの過酷な歴史を見てきた大妖怪の、ひどく冷徹で悲しげなものへと変わった。
「人と妖は違うものさ。生きる時間も、世界のルールも違う。お姫様、あんたが魔界へ帰る方法を見つけた時……あるいは、幕府がその牙をあんたに向けた時、その娘がどう動くか、今から楽しみだよ」
お玉はそう言い残すと、再びぽんっと濃厚な梅の煙を巻き上げた。
煙が晴れた時には、彼女の姿は影も形もなく、ただ静かな色街の茶屋の風景だけが残されていた。
「……本当、嵐みたいな狐女ね」
ルシエラはへたり込みそうになる足を必死に堪え、乱れた服を整えた。
そして、未だに刀を構えたまま、微動だにしない小夜の方を恐る恐る振り返る。
「あの、小夜……? もうあいつはいないわよ? だから、その怖い殺気を引っ込めてちょうだい……」
ルシエラが恐る恐る小夜の袖を引くと、小夜はしばらくの沈黙の後、ようやく刀を鞘へと収めた。その瞳の奥の濁った炎が消え、いつもの人形のような無表情に戻る。
「……失礼しました、ルシエラ様」
小夜は小さく一礼した。だが、その声は心なしか、いつもより低く、固かった。
「あの妖狐の言葉は、ただの挑発です。お気になさらないでください。私は……あなたの家臣ですから」
「分かっているわよ、そんなこと」
ルシエラは腕を組み、早足で長屋の方向へと歩き出した。
しかし、その心臓はいまだに激しく脈打ち続けていた。




