第十七話 泥棒狐に近づくな!
「おやおや。今日も今日とて、四畳半のウサギ小屋で健気にひしめき合っているねえ」
長屋の障子戸が、何の躊躇もなく軽快に開け放たれた。そこに立っていたのは、数日前に色街で遭遇したばかりの九尾の大妖狐、お玉だった。
今日も今日とて、胸元を大きくはだけた深紅の豪奢な着物をだらしなく着崩し、その背後では黄金のふさふさとした尻尾が九本、部屋の空間を圧迫するようにゆったりと揺らめいている。
「なっ……! お、お前、なんで私の……隠れ家に堂々と不法侵入してきているのよ! 誰の許可を得て敷居を跨いでいるの!」
畳の上で千代から貰った大福を口に運ぼうとしていたルシエラは、驚きのあまりツインテールを激しく跳ね上げ、手に持っていた大福を落としそうになりながら叫んだ。
「許可なんて、あたしが必要とするわけないじゃないか。江戸の裏社会で、あたしの通れない道なんて存在しないんだよ。それよりお姫様、今日も相変わらず可愛い顔をしてお団子なんか食べてるんだね。どれ、あたしにも一口くれないかい?」
お玉はクスクスと妖艶に笑いながら、ルシエラのすぐ隣へと音もなく滑り込み、その細い指先でルシエラの顎をまたしても弄るように持ち上げた。濃厚な、脳を痺れさせるような梅の香りが、四畳半の狭い空間に一瞬で充満する。
「ひゃんっ!? 近い、近いわよこの泥棒狐!」
ルシエラは顔を真っ赤にして必死にのけぞろうとするが、お玉の持つ強烈な妖気のせいで、どうにも調子が狂って身体がうまく動かない。
しかし、お玉がルシエラの髪に触れようとしたその瞬間――。
シャッ!!!
鋭い風切り音と共に、お玉の指先とルシエラの鼻先の間、僅か一寸の畳に、銀色のクナイが深く突き刺さった。激しい振動で、クナイの柄が「キィィン」と甲高い金属音を立てて鳴り響く。
「……そこまでにしてください、妖狐」
部屋の入り口に、小夜が立っていた。
昼間の定期巡回から戻ってきたばかりの彼女は、いつも通りの無表情、いつも通りの静かな佇まいだった。眉一つ動いていないし、声のトーンも平坦そのもの。
だが、その身から放たれている殺気は、長屋の木造の壁をギチギチと軋ませるほどに濃密で、暗く、重かった。懐から引き抜かれた二本目のクナイの切っ先は、一ミリのブレもなくお玉の美しい瞳の光彩を捉えている。
「おや、お隠密の小娘。帰りが早いじゃないか。せっかくお姫様とあたしで、秘めやかなお直しの相談をしていたところだったのにさ」
お玉はクナイを意に介する様子もなく、楽しそうに九本の尻尾を揺らしながら手を離した。
「ここは幕府の監視下にある区域です。許可なき妖怪の立ち入りは、即座に排除の対象となります。……次はありません」
小夜の声は、いつもの丁寧語でありながら、完全に生気が通っていない『人形』のそれだった。だが、その瞳の奥では、漆黒の炎が燃え盛っていた。
「小夜……お前、帰ってくるなり部屋の空気を氷点下にするんじゃないわよ! 目が、目が本当に怖いわよ!」
ルシエラはお玉から解放された安堵よりも、真横でそっとクナイを構え直す家臣の姿に、本気で背筋を凍らせていた。
「ルシエラ様、こちらへ」
小夜はお玉を冷徹に睨みつけたまま、ルシエラの桃色の着物の袖をぐいと引っ張り、自分の背後の安全な位置へと引きずり込んだ。その掴む手の力がいつもより僅かに強く、ルシエラは胸の奥がまたしてもトクンと妙な高鳴りをあげるのを感じた。
「くすくす、本当に独占欲の強いお嬢さんだねえ。でもねえ、ルシエラ。あんた、こんな冷たい人形みたいな娘と一緒にいて、本当に退屈しないのかい?」
お玉は畳の上に妖艶に寝そべり、煙管に火をつけながら、ルシエラに向かって煙を吹きかけた。
「あたしのところに来れば、江戸で一番の上等な甘味処を貸し切りにしてあげるし、毎日あんたが飽きるまで遊んであげるよ? どうだい、その堅物な隠密を捨てて、あたしの側室になりなさいって」
「そ、側室なんて、何度も何度も気安く口にするんじゃないわよ、この不埒な狐女!」
ルシエラは顔を真っ赤にして抗議したが、頭の中は「お玉に迫られたこと」よりも、「小夜がどう反応するか」で一杯になっていた。
小夜はしばらくの沈黙の後、突き刺さったクナイを音もなく引き抜くと、それを懐に収めた。
「ルシエラ様。本日の夕食の支度を始めます。……妖狐、用がないなら速やかに立ち去ってください」
小夜はそれだけ言うと、台所へと背を向けて去ってしまった。背中越しにも、彼女が露骨に怒っていること、そしてルシエラに対して言葉にできない不満を抱えていることが、痛いほどに伝わってきた。
「……小夜?」
ルシエラは台所から聞こえてくる、いつもより少し乱暴な「トントン、トン」という包丁の音を、不安そうに聞き入っていた。
お玉はそんな二人の様子を、煙管の煙の向こうから、全てを見透かしたような大人の目でじっと見つめていた。
「ほらね、お姫様。あの娘、あんたが他の誰かに触れられるのが、我慢ならなくて仕方が無いんだよ。……だけど、自分のその感情が何なのか、命令でしか生きられない可哀想な人形だから、自分じゃ気づけないのさ」
お玉の琥珀色の目が、一瞬だけ、悪戯っぽいものから、深い悲しみを知る大妖怪のそれへと変わった。
「泥棒狐に近づくなって、顔に書いてある。……可愛いねえ。でも、その素直になれないすれ違いが、いつか二人を壊さなきゃいいけれどね」
お玉はそう言い残すと、濃厚な梅の煙と共に、再び忽然と姿を消した。
部屋に残されたルシエラは、ぽつんと畳の上に座り込み、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
台所からは、まだ小夜の不機嫌な調理の音が響いている。
「……私の、せいで怒っているの?」
ルシエラは自分の漆黒の尻尾が、小夜の不機嫌に同調するように、元気をなくして畳の上にだらりと垂れ下がっていることに気づいた。
☆
その夜、小夜が作ってくれたお味噌汁は、いつもよりほんの少しだけ塩辛かった。




