第十八話 忍びは命令で生きる
「――潜入調査ですか」
「そうだ。近年、江戸の裏社会で急速に勢力を拡大している密貿易組織がある。奴らは人間だけでなく、一部の妖怪とも結託し、御禁制の品を仕入れている。その中には、妖力を増幅させる妖しい薬物も含まれているようだ」
長屋から遠く離れた、幕府の隠密組織が所有する地下の秘密詰所。
薄暗い蝋燭の火が揺れる部屋の奥で、小夜は自身の頭領であり上司でもある中年男、服部景綱の前に膝をついていた。五十を過ぎたと思しき景綱は、白髪交じりの髪をきっちりと結い、濃紺の着物を寸分の乱れもなく着こなしていた。頬はこけ、眉間には深い皺が刻まれている。その鋭い眼差しには、長年にわたり幕府の影として生きてきた男特有の冷徹さが宿っていた。
景綱は厳格な面持ちで、机の上の地図を指差しながら冷徹に言い放つ。
「奴らのアジトは、品川宿の寂れた倉庫街の地下にある。小夜、お前には単身でそこへ潜入し、密貿易の実態、つまり禁制品の取引を記した密帳の奪取、および首謀者の特定を命じる。ただし、敵の警戒は極めて厳重だ。腕利きの浪人や、狂暴な妖怪を雇い入れているとの情報もある。……危険な任務になるぞ」
景綱の鋭い眼光が小夜を射抜く。それは、個人の私情など微塵も挟む余地のない、冷酷な現実主義者の目だった。
「御意。国を護るためなれば、この命、いつでも差し出す覚悟です」
小夜は表情一つ変えず、深く一礼した。
「……時に、小夜。お前が長屋で監視している『魔皇女』の様子はどうだ? 妙な動きはしていないか」
「問題ありません。我が監視下において完全に制御しております。……彼女が幕府の脅威となることはありません」
「ならば良い。忍びに私情は不要だ。お前は命令を遂行すればいい。……行け」
「はっ」
小夜は音もなく立ち上がり、闇の中へと消えていった。
長屋に戻ると、部屋の中ではルシエラが不機嫌そうに腕を組み、畳の上を激しくペチペチと叩く尻尾の音を響かせていた。
「遅いわよ、小夜! 家臣のくせに主君をこんな狭い部屋に何時間も放置するなんて、どんな教育を受けてきたのよ! お腹が空いて死にそう……って、ちょっと待ちなさい。お前、またその黒い装束を着ているじゃない。これから仕事なの?」
ルシエラは立ち上がり、小夜の漆黒の装束、そして腰にいつもより多く仕込まれたクナイや煙玉、さらに新しく用意された解毒薬の薬瓶に目を留めた。紅い瞳が、本能的な危うさを察知して微かに細められる。
「はい。頭領から、少々急を要する任務を拝領しました。これより品川の倉庫街へと向かいます」
小夜はいつも通り、淡々と旅支度を整えながら答えた。
「品川? 遠いわね。……だったら、私も同行してあげるわ! 最近、私の魔力も本来の三割から四割近くまで戻ってきているのよ。あの不細工な河童を片付けた時のように、お前の任務とやらを私の魔法で一瞬で終わらせてあげるわ!」
ルシエラは胸を張り、金髪のツインテールを誇らしげに揺らした。お玉の一件以来、小夜が一人で危険な場所に赴くことが、どうしようもなく不安だったのだ。
「いいえ。今回の任務は隠密性が最優先される潜入調査です。ルシエラ様のその目立つお姿と、不安定な魔力では、敵に察知される危険性が高すぎます。お留守番を。……これは命令ですので」
小夜は一度もルシエラと目を合わせることなく、冷淡に突き放した。
「め、命令ですって……!?」
ルシエラの身体が凍りついた。
「お前、忘れたの!? お前は私の『家臣』でしょう!? なんで私がお前の命令に従わなきゃいけないのよ! 私はお前が心配だから、一緒に行ってあげるって言って――」
「心配など、不要です」
小夜は荷物を背負い、ようやくルシエラの方を振り返った。その瞳は、出会ったばかりの頃の、中身のない人形のような冷たさに戻っていた。
「私は忍びです。命令に従い、それを遂行することだけが私の存在理由です。そのためなら、この命がどうなろうと構いません。ルシエラ様が私に私情を挟むのは、監視対象として、そして形だけの『主君』として、行き過ぎた行為です」
「な、何よ……それ……」
ルシエラは言葉を失った。
小夜のその徹底した拒絶は、ルシエラの高貴なプライドをズタズタに引き裂き、それ以上に、彼女の胸の奥を鋭い刃で抉るように痛めつけた。
「留守中の結界は強化しておきました。……行ってまいります」
小夜はそう言い残すと、障子戸を音もなく開け、夜の闇へと溶け込むように去っていった。
長屋の角を曲がったところで、小夜は一度だけ足を止めた。
振り返れば、障子の向こうにルシエラの影が見える。
いつもなら、ここで「早く帰ってきなさいよ」という声が飛んでくるはずだった。
小夜はその声を待ちかけて、すぐに唇を引き結んだ。
そして、再び夜の闇へと歩き出した。
「――っ、何よ! バカ小夜! 人形隠密! 勝手に死んできたら承知しないんだからね!!」
ルシエラは誰もいなくなった部屋に向かって、声を裏返らせて絶叫した。
溢れそうになる涙を必死に堪えながら、畳の上に膝をつく。彼女の漆黒の尻尾は、かつてないほどの恐怖と寂しさで、ボロボロと畳を叩き、やがて力なく丸まってしまった。
その頃、小夜は品川の地下倉庫へと潜入していた。
張り巡らされた監視の目を紙一重で掻い潜り、目的の隠し部屋へと到達する。しかし、彼女の手が密帳に触れたその瞬間、周囲の壁が開き、無数の浪人たちと、どす黒い妖気を放つ大蜘蛛の妖怪が姿を現した。
「カカッ! 幕府のネズミがかかりおったわ!」
「曲者だ! 出口を塞げ!」
(――しまっ、罠か……!)
小夜は瞬時にクナイを投擲し、煙玉を炸裂させたが、敵の数は想定を遥かに超えていた。狭い地下空間での乱戦。大蜘蛛の放つ粘着性の糸が小夜の身動きを奪い、浪人の鋭い一撃が、小夜の脇腹を深く切り裂いた。
「くっ……!」
鮮血が漆黒の装束を濡らす。激痛が脳を白く染める中、小夜の脳裏に不意に浮かんだのは、長屋で自分を待っている、あの傲慢で、しかし誰よりも温かい金髪の魔皇女の姿だった。
(私は、命令を遂行しなければならない。……ここで、倒れるわけには……!)
小夜は気力を振り絞り、懐の禁薬を口に含むと、捨て身の忍術を発動して倉庫の天井を爆破。崩落する瓦礫の混乱に乗じて、どうにかその場からの脱出を果たしたのだった。
深夜。長屋の部屋で、ルシエラは一睡もできずに、体育座りのまま障子戸を睨み続けていた。
「……遅い。遅すぎるわよ、あのバカ……」
胸のざわつきが、恐怖となって身体を支配していく。
その時、ガサリ、と力なく障子戸が開いた。
「――小夜っ!?」
ルシエラが跳び起きる。
そこに立っていた小夜は、壁に身体を預け、呼吸を荒くして喘いでいた。衣服はボロボロに引き裂かれ、脇腹からは、今もなおドクドクと赤い血が流れ落ち、畳を黒く染めていく。その顔色は、死人のように青白かった。
「ルシエラ、様……。ただいま……戻り、ました……」
小夜はそれだけ言うと、力尽きたように、前方へと崩れ落ちた。
「小夜――ッ!!」
ルシエラは叫び、なりふり構わず駆け寄って、小夜の倒れる身体をその華奢な両腕で必死に抱きとめた。
手のひらに触れる、生温かい血液の感触。小夜の身体は驚くほど冷たくなっており、呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうだった。
「何よこれ……なんでこんなに怪我をしているのよ!?」
ルシエラの頭はパニックで爆発しそうだった。魔界の治癒魔法を唱えようとするが、焦るあまり術式が上手く組み上がらない。
「す、すぐに手当てを……。ポン吉! 薬箱を寄越しなさい、早く!!」
「ひ、ひえぇぇっ! お隠密の姉ちゃんが死んじまう! すぐ持ってくるぜ!」
寝ていたポン吉が飛び起き、泣き叫びながら長屋の奥から薬箱を引っ張ってきた。
ルシエラは震える手で小夜の装束を脱がせ、傷口を洗い、千代から教わっていた和の国の止血の布を強く巻きつけた。
「痛い? 痛いわよね……。なんで、なんでこんなになるまで……!」
ルシエラの紅い瞳から、ついに大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、小夜の青白い頬を濡らした。
数刻の必死の手当ての末、明け方近くになって、ようやく小夜の出血が止まり、呼吸が安定し始めた。
ルシエラは小夜の枕元に座り込み、彼女の細い手を、両手でぎゅっと握りしめていた。
手当てをしている間、ルシエラの胸を支配していたのは、凄まじいまでの『苛立ち』と、それ以上の、小夜を失うことへの圧倒的な『恐怖』だった。
「……ん……」
小夜の長い睫毛が微かに揺れ、その切れ長の目が、ゆっくりと開かれた。
「ルシエラ……様……?」
「お前――っ!!」
小夜が意識を取り戻したのを見た瞬間、ルシエラの感情が爆発した。握りしめていた小夜の手を強く引き、寝ている彼女の顔のすぐ近くまで迫る。
「命令なら、死んでもいいっていうの!? 命令なら、そんなボロボロになるまで、私を一人で置いていって、命を投げ捨てても構わないっていうの!?」
ルシエラは涙を流しながら、声を荒らげて激怒した。
「私はお前の主君でしょう!? お前の命は私のものよ! なのに、なんでそんな幕府の、顔も知らない奴の命令一つで、勝手に死にそうになっているのよ! 答えなさいよ、小夜!!」
ルシエラの悲痛な叫びが、狭い四畳半の部屋に響き渡った。背中の翼は大きく広がり、漆黒の尻尾が激しく畳を叩いていた。
小夜は、涙を流して自分を怒鳴りつけるルシエラを、じっと見つめていた。
何か言おうとして、唇が微かに震える。
しかし、小夜は何も答えられなかった。




