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おのれ和の国! ~孤高の魔皇女、うっかり懐いた忍びの少女に絆される~  作者: 明石竜


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第十九話 お前は何がしたいの?

 品川の密貿易組織潜入任務から、三日が経過した。

 小夜が負った脇腹の深い一撃は、ルシエラの必死の止血処置と、化け狸のポン吉が山から引っこ抜いてきた妖怪特効の野草を煎じた薬が功を奏し、どうにか最悪の事態だけは免れていた。しかし、人間の肉体にとって、妖怪の糸による捕縛の負荷と浪人の鋭利な太刀筋が残したダメージは想像以上に重く、小夜はいまだに長屋の万年床の上から起き上がることができずにいた。

 部屋の空気は、あの嵐のような夜以来、ひどく沈殿したままだ。

 ルシエラは縁側に背を向け、四畳半の隅に体育座りをして、膝の間に顔を埋めていた。金髪のツインテールはどこか元気がなく元気がなく垂れ下がり、その着物の裾から覗く漆黒の尻尾は、畳の網目をなぞるようにして、弱々しく、しかし絶え間なくトントンと寂しい音を刻み続けている。

 小夜が目を覚ましてからも、ルシエラは一言も口を利こうとしなかった。お団子を寄越しなさいと威張ることも、このウサギ小屋が狭いと文句を言うこともしない。ただ、小夜が少しでも身体を動かそうとして衣服が擦れる音が聞こえると、ルシエラの尻尾がビクリと過敏に跳ね上がる。それが、彼女がどれほど隣の病人を意識し、そして怯えているかの証明だった。

「……ルシエラ様」

 布団の中から、小夜の、いつもより数段低く、かすれた声が響いた。

 包帯を幾重にも巻きつけられた脇腹を押さえながら、小夜はゆっくりと上体を起こそうとした。しかし、その僅かな動作だけでも、傷口が引き裂かれるような劇痛が走り、彼女の白磁のような額に大粒の冷や汗が滲む。

「動くんじゃないわよ、バカ小夜」

 ルシエラは膝から顔を上げないまま、押し殺したような、しかし刺すような声で遮った。

「せっかく私が、高貴な手を泥と血で汚しながら繋ぎ止めてあげた命よ。お前が勝手に動いて傷口を開かせたら、私のこれまでの苦労が全て水の泡になるじゃない。大人しく寝ていなさい」

「……申し訳ありません。主君に、このような無様な姿を晒すなど、隠密としてあるまじき失態です。……ですが、品川での潜入の件、奴らの密貿易の証拠となる密帳の一部は、この懐に確保してあります。頭領への報告を急がねばなりません」

 小夜は痛みに耐えながら、いつも通りの平坦な口調で、義務を果たそうと言葉を紡いだ。その瞳には、あの死にかけた夜を越えてなお、冷徹な『人形』としての光しか灯っていないように見えた。

 その言葉が、ルシエラの胸の奥で燻っていた導火線に、ふたたび最悪の形で火をつけた。

「――まだそんなことを言っているの、お前は!!」

 ルシエラは勢いよく立ち上がり、畳を激しく踏み鳴らして小夜の枕元へと詰め寄った。

 紅い瞳には、怒りと、それ以上に、どうしようもないほどの悲痛な色が混ざり合って、激しく揺れている。背中の小さな黒い翼が、感情の激昂に伴ってバサバサと大きく広がり、四畳半の壁を叩いた。

「密帳? 頭領への報告? 冗談じゃないわよ! お前、自分が死にかけたのよ!? あの時、もし私が手当てをしていなかったら、お前は今頃、冷たい死体になって品川のドブ川にでも浮いていたのよ! なんでそんな、自分の命よりも、顔も見たことのない幕府の偉い奴の命令が大事なわけ!?」

「それが、忍びの生き方だからです」

 小夜はルシエラの激しい気迫に圧されながらも、その視線を逸らすことなく、穏やかに答えた。

「私は、幼い頃の記憶がありません。物心ついた時には、すでに隠密組織の育成所――暗い山奥の里にいました」

 小夜の口から、これまで決して語られることのなかった、彼女の生い立ちが語られ始めた。

「そこでは、感情を持つことは『欠陥』であると教えられました。泣くことも、笑うことも、痛みに声を上げることも、全ては任務の障害になる不純物だと。叩き込まれたのは、潜入の技術、暗殺の手順、そして『上司の命令には絶対に従う』という、ただ一つの鉄則だけでした。命令を遂行することだけが、私がこの世界に存在することを許される唯一の理由なのです。そこに、私の私情が挟まる余地はありません」

 小夜の声には、悲しみも、恨みもなかった。ただ、太陽が東から昇って西へ沈むという自然の摂理を語るかのように、淡々としていた。

 里での修行時代、共に競い合っていた同世代の仲間が、過酷な訓練の最中に命を落としても、誰も涙を流さなかった。ただ『未熟ゆえの淘汰』として処理され、次の日には何事もなかったかのように新しい命令が下される。小夜にとって、自分の命とは、国家という巨大な歯車を動かすための、いつでも取り換えのきく小さな部品の一つに過ぎなかったのだ。

「だから……ルシエラ様に『死んでもいいのか』と問われても、私は『はい』と答えるしかありません。命令であれば、それが私の全てだからです。私は……自分が何を望んでいるのか、自分自身がどうしたいのか、そのようなことを考える脳を持ち合わせていないのです」

 小夜はそう言うと、そっと目を伏せた。

 その横顔は、やはり驚くほど美しく、そして救いようがないほどに空っぽだった。何百年もの時間を生きる魔界の魔族から見れば、人間の十六歳など、ほんの一瞬の命に過ぎない。その短い命を、自らの意思を持たぬ人形として消費し尽くそうとする小夜の姿が、ルシエラにはどうしようもなく耐え難かった。

「……大嫌いよ」

 ルシエラは拳を血が滲むほどに固く握りしめ、震える声で言い放った。

「お前のそういう、中身のない機械みたいな答え、私は本当に、反吐が出るほど大嫌いよ!」

 ルシエラは小夜の布団の上に両手をつき、彼女の顔のすぐ近くまで身を乗り出した。金髪のツインテールが小夜の頬に触れ、ルシエラの熱い吐息が小夜の唇をかすめる。

「命令されたからなんて、そんなつまらない理由で死なれてたまるもんですか! お前は私の『家臣第一号』でしょう!? だったら、お前の命の所有権は、幕府の頭領とかいう奴じゃなくて、この私にあるのよ! 私の許可なく、勝手に他人の命令で命を投げ捨てるなんて、絶対に許さないんだから!」

「ルシエラ様、それは理屈が通っていません。私は幕府の――」

「うるさいわね! 理屈なんて関係ないわよ!」

 ルシエラは声を荒らげて、小夜の言葉を力任せにねじ伏せた。彼女の紅い瞳から、いよいよ堪えきれなくなった涙が溢れ出し、小夜の胸元へとポタポタと落ちていく。

「お前自身はどうしたいのよ!? 命令だからじゃなくて、お前自身の心は、本当は何を望んでいるのか言いなさいよ! 美味しいお団子をもっと食べたいとか、あの熱い湯屋にまた入りたいとか、そういう下らないことでも何でもいいわ! お前という一人の少女は、本当は……本当はどうしたいのよ!?」

 ルシエラの悲痛な問いかけが、四畳半の狭い部屋の中に、激しいこだまとなって響き渡った。

 ルシエラの漆黒の尻尾は、彼女の心の叫びに完全に同調するように、畳を壊さんばかりの勢いで激しくブンブンと打ち付けられ、その先端は、小夜の心を揺り動かしたいと願うように、切なく震えていた。

「私は……」

 小夜は言葉を失い、口を微かに開けたまま、目の前でボロボロと涙を流して自分を睨みつける主君の顔を見つめ返した。

 胸の奥の、幼い頃に固く閉ざされ、鍵をかけられていたはずの『何か』が、ルシエラの涙の熱さによって、じわじわと、しかし決定的に溶け出していくのを感じていた。

 自分がどうしたいか。

 そんなこと、生まれてから一度も考えたことがなかった。考えれば、忍びとして死ぬからだ。

 だけど、今、目の前で自分のためにこれほどまでに心を痛め、怒り、泣いてくれている金髪の魔皇女を前にして――小夜の胸の奥からは、命令でも、任務でもない、どす黒いほどに強烈な『一つの衝動』が、確かに鎌首をもたげ始めていた。

「分かり……ません」

 小夜はしばらくの沈黙の後、掠れた声で、しかし初めて『自分自身の言葉』として、ぽつりと呟いた。

「今はまだ、私自身がどうしたいのか、本当に分かりません。……ただ」

 小夜は震える右手をゆっくりと持ち上げ、自分の布団の上につかれていたルシエラの小さな手を、そっと、包み込むように握りしめた。小夜の手はまだ怪我のせいで冷たかったが、その握る力には、確かに彼女の明確な『意志』が乗っていた。

「ただ……ルシエラ様にそうやって泣かれると、私の胸の奥が、脇腹の傷よりも遥かに酷く痛むのです。……あなたを、これ以上泣かせたくない。それだけは、命令ではなく、私の……私の、本当の気持ちなのだと思います」

 小夜の瞳に、いつもとは違う、微かな、けれど絶対に消えない人間らしい『熱』が灯ったのを見て、ルシエラは一瞬だけ息を呑んだ。

 そして、握られた手の温かさに耐えかねるように、ふいと顔を背けて、さらに激しく涙を拭った。

「……だったら、さっさとその怪異を治しなさいよ。お前がそんな情けない顔で寝ていると、私の尻尾まで元気がなくなるんだからね」

 ルシエラはそう毒付いたが、その顔は、夕焼けの空よりも遥かに赤く染まっていた。そして、小夜に握られたままの手は、決して振り払おうとはしなかった。

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