第二十話 狐火の夜
品川での激闘から一週間。小夜の驚異的な回復力とルシエラの献身的な(と本人は主張する、ぶつぶつと言い訳を並べ立てながらの)看病により、くノ一の脇腹の傷はどうにか塞がっていた。
もっとも、深く傷ついた身体が完全に元通りになったわけではない。激しく動けば、まだ鈍い痛みが走ることもあった。
しかし、二人の間に流れる空気は、あの雨の夜を境に劇的な変化を遂げていた。形式的な「監視対象と隠密」という壁は崩れ去り、お互いが相手の存在を、言葉にできないほど深く、熱い質量を持って意識し始めていた。
「よし、傷は完全に癒着しました。ルシエラ様、ご心配をおかけしました。今日から通常通りの任務に復帰します」
長屋の部屋の隅で、小夜はいつもの漆黒の装束の紐を、一切の迷いなくきゅっと締め直した。その瞳には、かつての人形のような空虚さはなく、確かな生気が宿っている。
「ふ、ふん。べつに心配なんてしてないわよ。お前がいつまでも情けない顔で寝ているから、この狭い部屋がさらに窮屈に感じられて迷惑だったって言っているの! それに、家臣ならさっさと動いて、私に美味しい和菓子でも献上しなさい!」
ルシエラは縁側に腰掛け、腕を組んでそっぽを向いた。金髪のツインテールを激しく揺らしながら強がっているが、その桃色の着物の裾から覗く漆黒の尻尾は、小夜の完全復活が嬉しくてたまらないと言わんばかりに、畳の上を「パタパタ、パタパタ」と小気味よい音を立てて激しく揺れ動いていた。嘘のつけないその身体の正直さに、小夜はフッと薄い唇の端を綻ばせる。
「おい、お隠密の姉ちゃん、姫さん! 大変だぜ! ちょっと外を見てくれよ!」
その時、庭の植え込みからポン吉が、短い手足をバタバタと震わせながら血相を変えて飛び込んできた。頭に載せた変化の葉っぱが、恐怖のあまり激しく振動している。
「何よ、騒々しいわね。大福を盗み食いしたお前の余罪でも暴かれたの?」
「違う、違うんだぜ! 町が、江戸の町が大変なことになってるんだ! 妖怪たちが、みんなおかしくなっちまってる!」
ルシエラと小夜が顔を見合わせ、即座に縁側から外へと飛び出した。
日が落ちたばかりの江戸の夜空。そこには、いつもと全く違う、異様な光景が広がっていた。
町のあちこちから、不気味な紫黒色の炎――『狐火』が、無数に立ち上っていた。それは自然の火明かりではなく、見る者の正気を狂わせるような、おぞましい妖気を孕んで波打っている。
さらに不穏なのは、大通りから聞こえてくる妖怪たちの咆哮だった。普段は人間に混じって小さないたずらをする程度だった化け狸や河童、あるいは大人しいはずの路地裏の怪異たちが、一様に目を血走らせ、理性を失った獣のように大声を上げて暴れ回っているのが遠目にも分かった。
「これは……ただの妖怪騒動ではありませんね」
小夜は瞬時にくノ一の目になり、懐からクナイを抜き払った。
「妖気の流れが歪んでいます。何者かが意図的に、江戸中の妖怪たちの体内の力を暴走させている……」
「ちょっと、あの紫色の炎の揺らぎ方……どこかで見たことがあるわね」
ルシエラは紅い瞳を細め、宙を舞う不気味な狐火を凝視した。失われていた魔力が徐々に回復し、本来の四割近くまで戻ってきている彼女の鋭い魔力感知能力が、その炎の奥に潜む『本質』を捉える。
「間違いないわ。あの炎の術式……和の国の妖怪のものじゃない。魔界の高位魔術の構成に、酷く酷く似ている……!」
「魔界の、ですか?」
小夜が驚いてルシエラを振り返ったその瞬間、背後の暗闇から、濃厚な、脳を直接麻痺させるような芳醇な『梅の香』が、激しい風と共に立ち込めた。
「おやおや。魔界のお姫様も、この異変に気づいたようだねえ」
現れたのは、九尾の大妖狐、お玉だった。
しかし、今日の彼女には、いつもの飄々とした余裕は一切なかった。深紅の豪奢な着物は煤で汚れ、背後の九本の黄金の尻尾は、怒りと警戒で逆立ち、周囲の空間を圧倒的な妖力で威圧している。その琥珀色の瞳は、かつてないほどに鋭く、険しかった。
「お玉! お前、また不法侵入……って、その怪我、どうしたのよ!?」
ルシエラはお玉の白い腕に、何者かに深く切り裂かれたような、紫色の不気味な光を放つ傷があるのを見逃さなかった。
「あたしの配下の妖怪たちが、一斉に正気を失ってね。止めようとしたら、このザマさ。……ただの身内の反乱ならあたし一人で叩き潰すところだけど、今回の件は少々、お門違いの力が混ざっていてねえ」
お玉は煙管を忌々しげに噛み締め、紫色の狐火が舞う夜空を睨みつけた。
「あの炎、あたしの『狐火』に似せているけれど、中身は全くの別物さ。もっと暴力的で、冷酷な……異国の『魔の力』が、あたしの術式を無理やり上書きして暴走させている。……ねえ、ルシエラ。あんた、これに心当たりはないかい?」
ルシエラは息を呑んだ。
お玉の言葉が、彼女の脳裏に、あの最悪の夜の記憶を鮮烈に蘇らせる。魔界での政争。自分を陥れ、転移魔法を暴走させた敵対勢力の影。
「……まさか。私の転移は、ただの偶然の事故じゃなかったっていうの……? 誰かが意図的に私をこの世界へ送り込み、さらに追ってきて、和の国の力を利用しようとしている……!?」
ルシエラの身体が、怒りと驚愕で小刻みに震え始めた。背中の小さな黒い翼がバサバサと波打ち、周囲の空気にバチバチと黒い火花が飛び散る。
「ルシエラ様」
その震える手を、小夜が横からそっと、けれどがっしりと力強く握りしめた。小夜の手のひらの確かな温もりが、ルシエラの暴走しかけた心を一瞬で現世へと繋ぎ止める。
「過去がどうであれ、今、この江戸の町を脅かす存在は排除せねばなりません。それは私の任務であり、そして……ルシエラ様を不安にさせる存在を、私は絶対に許しません」
小夜はルシエラの目をまっすぐに見つめ、穏やかに、しかし鋼のような決意を込めて言い放った。その瞳の奥で揺らめくのは、かつての冷徹な任務への忠誠ではなく、目の前の少女を護るという、彼女自身の明確な『意志』の熱だった。
「……お前、本当に生意気な家臣ね」
ルシエラは一瞬だけ顔を赤くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべ、小夜の手を強く握り返した。
「いいわ! 私の過去の因縁だろうと、和の国の妖怪だろうと、私の目の前で不遜な真似をする奴は、全員まとめて灰にしてあげる! お玉、今回だけは特別に共闘してあげるわ。皇女の寛大さに感謝しなさい!」
「くすくす、頼もしいお姫様だねえ。じゃあ、あたしが道案内をしてあげるよ。この不気味な術式の『中心』がどこにあるか、あたしの尻尾が完全に捉えているからさ」
お玉が先頭に立ち、無数の九本の尻尾から黄金の妖火を放って、迫り来る暴走妖怪たちを次々と薙ぎ払っていく。
小夜はその影に紛れ、電光石火の体術で敵の死角を突き、クナイと捕縛術で確実に無力化していった。
そしてルシエラは、体内で蘇りつつある本来の魔力を練り上げ、二人の背後から漆黒の魔法陣を展開する。
「よく聞きなさい、江戸の有象無象ども! この私を誰だと思っているのよ! 高位黒色火炎、展開!!」
ルシエラの小さな手から放たれた漆黒の爆炎が、夜空を覆う紫色の狐火を次々と飲み込み、術式を根底から焼き尽くしていく。その爆発的な威力は、本来の四割とは思えないほどの圧倒的な気高さに満ちていた。
三人は凄まじい連携で、暴走する妖怪たちの群れを突破し、ついに江戸の町を一望できる小高い丘の上へと辿り着いた。
そこには、周囲の狐火をすべて吸い上げ、巨大な『魔界の術式陣』を地面に描き出している、不気味な黒い祭壇が設置されていた。その中心で、一人の影が、禍々しい妖気を放ちながら立ち尽くしている。
「――やはり、仕掛け人はお前たちか」
ルシエラが祭壇を見下ろし、怒りを露わにしながら声を尖らせた。
術式の構成、そして空間を支配する禍々しい気配。それは間違いなく、魔界でルシエラを裏切った反乱分子たちの手によるものだった。彼らはルシエラを追ってこの世界へと侵入し、和の国の妖怪たちの生命力(妖力)を強引にハッキングすることで、世界を繋ぐ巨大な門を開こうとしていたのだ。
「ルシエラ様、敵の術式の中心を叩きます。援護を」
小夜がクナイを構え、地を蹴ろうとした、その時。
ザッ、と。
祭壇の影から、もう一つの、圧倒的な質量を持った『魔の気配』が、音もなく姿を現した。
漆黒の長髪に、切れ長の紅い瞳。身にまとうのは、魔界の高級な夜会服を模した、寸分の乱れもない正装。その背中からは、ルシエラのものよりも遥かに巨大な、禍々しい漆黒の翼が四枚、堂々と広がっていた。
ルシエラはその姿を見た瞬間、完全に息を呑み、言葉を失った。
「……黒耀……!? なんで、なんでお前が、ここに……!?」
現れたのは、魔界においてルシエラの最も近くに仕えていたはずの、絶対的な忠誠を誓っていたはずの最高位の側近であった。
その端正な顔立ちには、どこかルシエラと通じる魔族特有の気高さがあった。しかし、彼女の感情豊かな表情とは対照的に、男の顔には彫像のような静けさが張りついていた。
黒耀はルシエラの姿を見るなり、その場に美しく、完璧な動作で片膝をつき、深く首を垂れた。その声には、寸分の狂いもない、絶対的な敬意と忠誠が籠もっていた。
「お久しぶりでございます、ルシエラ殿下。……あなた様を魔界へとお迎えに参りました」




