第二十一話 魔界から来た男
紫色の狐火が禍々しく蠢く丘の上で、時間は完全に凍りついていた。
黒耀から放たれる圧倒的な魔界の波動は、和の国という異世界の理を強引に侵食し、周囲の空間を重苦しく圧迫していた。
「……黒耀……。お前、本当に黒耀なのね」
ルシエラは絞り出すような声で、目の前の側近の名を呼んだ。
紅い瞳が驚愕と動揺で激しく揺れ、背中の小さな黒い翼は本能的な困惑から小刻みに震えている。魔界にいた頃、常に自分の影として付き従い、あらゆる不条理から己を護り抜いてくれた最強の盾。その懐かしい存在が、まさかこの異世界の、それも妖怪たちが暴走する最悪の火事場に現れるなど、夢にも思っていなかった。
「はい。あなた様の忠実なる影、黒耀にございます。ルシエラ殿下、こうして再び御前に平伏す誉れを授かり、この胸、万感の思いに満ちております」
黒耀はゆっくりと顔を上げた。寸分の乱れもない美しい漆黒の長髪の隙間から、ルシエラと同じ冷徹な紅い瞳が覗く。彼の声には、絶対的な敬意と、そして一点の曇りもない狂信的なまでの忠誠が籠もっていた。
「殿下、あのようなくだらない政争の最中、次元の裂け目へと消え去ったあなた様を追い、私は狂う一歩手前で魔界のあらゆる禁術を貪り尽くしました。そしてついに、この下等なる異世界へと繋がる術式の糸口を掴んだのです。……さあ、殿下。全ては整いました。今すぐにこのような不浄なる世界を捨て、魔界へと、あなた様が君臨すべき本来の玉座へと戻りましょう」
黒耀はそう言うと、美しく手入れされた白い手袋の手を、ルシエラへと恭しく差し出した。その態度はどこまでも紳士的でありながら、ルシエラの意思など最初から「魔界へ帰る」という一択以外に存在しないと確信している、絶対的な傲慢さに満ちていた。
「ま、待ちなさいよ。魔界へ帰るって……そんな急に言われても……」
ルシエラはおずおずと一歩後ろへ下がった。
本来であれば、待ち望んでいたはずの報せだった。理解不能な文化ばかりの和の国からおさらばして、高貴な皇女としての生活を取り戻せる。
だが、いざその扉が目の前に現れると、胸を襲ったのは歓喜ではなく、強烈な躊躇いだった。
ルシエラの視線が、無意識のうちに隣の小夜へと向かう。
小夜は黒い装束をまとい、クナイを低く構えたまま、微動だにしない。その横顔は、まるで出会った頃の『冷たい人形』に戻ってしまったかのように、無機質だった。
黒耀が口にした「本来の玉座」という言葉。それは小夜に、ルシエラが自分とは違う世界の住人であることを突きつけていた。
お玉はそんな二人を、九本の尻尾をゆったりと揺らしながら、全てを見透かしたような琥珀色の瞳で見つめていた。
「……なるほどねえ。お姫様を迎えに来た本物のサーヴァントってわけかい。ずいぶんと上等な魔力を隠し持っているじゃないか、そこのお兄さんは」
黒耀は、お玉の言葉を完全に無視した。
しかし、その冷徹な視線がルシエラの隣で押し黙っている小夜へと向けられた瞬間、紅い瞳が不快そうに細められた。
「……殿下。一つ、不躾ながらお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
黒耀は立ち上がり、ルシエラの隣に控える小夜を、ゴミを見るかのような冷酷な目で見下ろした。
「あなた様のすぐ隣にいる、その薄汚れた、人間の隠密の娘は何にございますか? 先ほどから見ていれば、殿下に対してあまりにも不敬な距離感で立ち塞がっている。……まさか、あなた様をこの世界に縛り付け、その高貴なる心を惑わせている下俗な羽虫ではありますまいな?」
黒耀の身から放たれる殺気が、一劇的に膨れ上がった。彼にとって、ルシエラの純粋な心を少しでも揺るがす存在は、たとえ人間だろうと妖怪だろうと、即座に根絶やしにすべき対象だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい黒耀! そ、その娘は……!」
ルシエラは慌てて小夜の前に立ち、彼女を庇うように翼を広げた。
「その娘は、私の『家臣第一号』よ! 私が魔力を失って行き倒れていたところを、仕方がないから私の傍に置いて、身の回りの世話をさせてあげているの! だから、お前が勝手に手を出すことは許さないわ!」
ルシエラは必死に声を荒らげて弁明した。小夜を護りたい、その一心だった。
しかし、その「家臣」という言葉、そして「好きでここにいるわけじゃない、仕方がなく傍に置いている」というニュアンスを含んだ強がりが、最悪の形で小夜の胸の奥深くを突き刺した。
(……やはり、私は、仕方がなく傍に置かれているだけの、ただの監視役)
小夜の胸の中で、品川の夜にようやく芽生えかけた『自分自身の意志』の小さな火が、黒耀の圧倒的な正論の前に、みるみるうちに冷たく凍りついていく。ルシエラ様は魔界へ帰るべきお方だ。それが一番正しい。なら、自分がそこに私情を挟み、引き留めようとするなど、忍びとしても、一人の人間としても、あってはならない傲慢だ。
「ルシエラ様」
小夜の、信じられないほど穏やかで、冷たい声が響いた。
彼女は一歩後ろへと下がり、ルシエラの背後から完全に離れた。そして、出会ったばかりの頃の、完璧な、一寸の乱れもない『幕府の人形』としての礼をとった。
「そのお方のおっしゃる通りです。あなた様が本来あるべき魔界へと帰還されること、それこそが最も望ましい結末です。我が隠密組織の任務としても、異界の脅威がこの国から去ることは、完全に合致しています。……私は、好きでここに留まっていたわけではありません。ただの、任務ですので」
「――え?」
ルシエラは息を呑み、信じられないものを見るような目で小夜を振り返った。
小夜の瞳には、何の感情も映っていなかった。数日前、四畳半の部屋で、自分の手を握りしめながら「あなたを泣かせたくない」と言ってくれたあの少女の面影は、どこにもなかった。
「お前……何言ってるのよ……? 私の、私の傍にいたいって、あの時……!」
「あれは、任務を円滑に進めるための、一時的な方便に過ぎません。……お迎えが来たのであれば、どうぞ、速やかにお帰りください」
小夜の冷酷な拒絶が、ルシエラの胸を粉々に打ち砕いた。
ルシエラの顔から一気に血の気が引き、紅い瞳から、今にも涙が溢れ出しそうになる。しかし、黒耀の前で、そして自分を拒絶した小夜の前で、皇女としてのプライドが、涙を流すことを激しく拒んでいた。
「……そう。そう、そうよね!」
ルシエラは声を震わせながら、無理やり不敵な笑みを作ってみせた。
「べ、べつに私も、こんなウサギ小屋みたいな国に、いつまでもいるつもりなんて更々なかったわよ! 魔界へ帰れるなら、それが一番に決まっているじゃない! お前みたいな可愛げのない人間の小娘なんて、こっちから願い下げよ!」
ルシエラはそう叫ぶと、黒耀の方へと乱暴に歩み寄った。
だが、彼女の着物の裾から覗く漆黒の尻尾は、かつてないほどに絶望し、悲しみに暮れ、今にも千切れそうなほど力なく、地面へとだらりと垂れ下がっていた。本人の口から出る罵倒の言葉とは裏腹に、その身体は、小夜に「行かないで」と引き留めてほしいと、激しく、痛いほどに乞い願っていたのだ。
小夜はその正直すぎる尻尾の動きを、網膜に焼き付けるようにじっと見つめていた。
胸の奥が、品川で負った脇腹の傷など比べ物にならないほどに、狂おしく、粉々に引き裂かれるように痛む。引き留めたい。行かないでほしい。私の傍にいてほしい。そんな、命令ではない、自分自身の本当の叫びが、喉元まで出かかっていた。
だが、小夜の薄い唇は、ただ固く結ばれたまま、一言の言葉も紡ぎ出すことはできなかった。自分は忍びだ。私情は不要だ。その呪縛が、彼女の身体を金縛りのように縛り付けていた。
「素晴らしい決断にございます、ルシエラ殿下。さあ、こちらへ。次元の門を開くための準備を、早急に進めましょう」
黒耀は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ルシエラを伴って、紫色の狐火が舞う闇の奥へと歩き出した。ルシエラは一度も後ろを振り返らなかった。
丘の上には、濃厚な梅の香りを漂わせるお玉と、そして完全に光を失った小夜だけが残された。
「……本当に、救いようのないバカ娘だねえ、あんたは」
お玉は煙管の煙を大きく吐き出し、静かに佇む小夜を見下ろした。その琥珀色の瞳には、かつてないほどの呆れと、そして深い哀れみが混ざり合っていた。
「あの姫さんの尻尾、見ていられなかったよ。あんなに泣きそうな顔で、あんたが引き留めてくれるのを待っていたってのにさ。任務だから、なんて、そんなつまらない言葉で、自分の本当の心を殺しちまって。……そんな生き方をしていて、本当に幸せかい?」
小夜は何も答えなかった。ただ、ルシエラが去っていった暗闇を、じっと見つめ続けていた。




