↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おのれ和の国! ~孤高の魔皇女、うっかり懐いた忍びの少女に絆される~  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/25

第二十二話 帰る場所

 江戸の空を不気味に染めていた紫色の狐火は、術式の『中心(コア)』が黒耀によって掌握されたことで一時的にその勢いを潜めていた。しかし、町全体に漂う重苦しい妖気と魔力の混ざり合った不穏な空気は、一向に晴れる気配がない。

 ルシエラが小夜と別れてから、しばらく経った頃。

 江戸の町外れ、深い森の奥に隠された、かつて妖怪たちの住処だった廃寺。

「殿下、本拠の設営は完了いたしました。和の国の怪異どもが集う、この不浄なる土地の裏に潜む次元の歪みを固定し、魔界への巨大な転移門(ゲート)を穿つための術式を編み進めております」

 黒耀はその本堂の冷たい石畳の上に、完璧な仕草で跪いていた。周囲の壁には、彼が魔界から持ち込んだ高位の魔術文字が血のような赤色でびっしりと描き連ねられ、不気味な黒い光を放っている。

「……そう。手際が良いわね、黒耀。さすがは私の側近だわ」

 本堂の奥、かつて仏像が置かれていたであろう壇上に、ルシエラは一人、ぽつんと腰掛けていた。

 身にまとっているのは、桃色の町娘風の着物ではない。黒耀が「あなた様にあるまじき下俗な衣服」として即座に破棄しようとしたため、魔力で無理やり復元させた、魔界のブラッド一族の正装たる漆黒のドレスだった。

 黒耀に見つからぬよう、ルシエラはその桃色の着物を小さく畳み、傍らに置いていた。

 ふと、その袖に指を伸ばす。

 最初は、こんな地味な布切れを着せられるなど屈辱だと思っていた。

「……何よ。たかが庶民の着物じゃない」

 そう呟きながらも、ルシエラはそれを片付けようとはしなかった。

 金髪のツインテールも、紅い宝石のような瞳も、魔界にいた頃の気高さそのもの。体内の魔力も、黒耀が持参した魔力結晶を摂取したことで、本来の五割から六割近くまで劇的に回復していた。本来であれば、これ以上ないほどに皇女としての威厳を取り戻しているはずだった。

 しかし、壇上のルシエラの姿は、信じられないほどに小さく、そして孤独に見えた。

 彼女のドレスの裾から覗く漆黒の尻尾は、嬉しそうに揺れ動くことも、怒りで激しく叩きつけられることもなく、冷たい石の床の上に力なく横たわったままだ。

「殿下。魔界より、さらなる凶報が届いております」

 黒耀は冷徹な紅い瞳を上げ、ルシエラを見つめた。

「あなた様が不在のこの長い間、魔界の政争はさらに泥沼化しております。反乱分子どもは、殿下が『和の国』と呼ばれる異世界に墜ちたことを嗅ぎつけ、その強大な魔力を兵器として逆利用せんとしつこく次元の裂け目へ刺客を送り込んでいました。先ほどの狐火の暴走も、奴らの残党が和の国の怪異をハッキングして仕掛けた悪あがきに過ぎません。……帰還すれば、殿下には即座に軍勢を率い、裏切り者どもを根絶やしにする苛烈な戦いが待っております」

 黒耀の言葉は、ルシエラに『魔皇女』としての本来の義務と、血生臭い現実を思い出させた。

 強い者が弱い者を従え、裏切りには死を、敵には圧倒的な滅びを。それがルシエラの知る魔界の常識であり、彼女の生きてきた世界のルールだった。

(戦い、ね……。帰れば、またあの殺し合いの日々が始まるのね……)

 ルシエラは自分の小さな手のひらを見つめた。

 かつては、それが自分の全てだと思っていた。不可能などない、己の力で全てをねじ伏せることこそが皇族の誇りだと信じて疑わなかった。

 だが、その手のひらには今、あの泥だらけの川辺で、言葉も通じない不細工な河童と一緒に掴み上げた、人間のゴミの感触が、ありありと残っていた。

 目を閉じれば、脳裏に浮かび上がってくるのは、魔界の広大な宮廷の景色ではない。

 あの狭くて、暗くて、天井が低い、四畳半の長屋の畳の匂い。

 千代が「ルシエラちゃん、本当に美味しそうに食べるねえ」と笑いながら差し出してくれた、焼き立てのみたらし団子の甘辛い香り。

 お湯が熱すぎると文句を言う自分を、優しく湯船へと誘い、濡れた黒髪から石鹸の香りを漂わせながら背中を流してくれた、あの湯屋の温もり。

 そして何より――。

「私は、好きでここに留まっていたわけではありません。ただの、任務ですので」

 あの丘の上で、冷たく自分を突き放した、小夜の光のない瞳だった。

「……あんな可愛げのない、中身が空っぽの人形隠密のことなんて、こっちから願い下げだって言ったのに……」

 ルシエラは胸元をぎゅっと強く掴みしめた。

 魔界に帰れば、皇女としての立場も、圧倒的な力も、全てが元通りになる。なのに、どうして自分の胸の奥は、こんなにも引き裂かれるように痛むのか。どうして自分は、あの「ただの任務」と言い放った少女のことを、素直に憎むことすらできないのか。


 その頃、江戸の町を一望できる丘の上には、小夜が一人、夜風に吹かれながら立ち尽くしていた。

 彼女の黒い装束の脇腹の傷はすっかり癒えていたが、彼女の心に刻まれた亀裂は、血を流し続ける傷口よりも遥かに深く、暗かった。

「……ルシエラ様」

 小夜の口から、微かな、消え入りそうな呟きが漏れた。

 彼女の瞳には、かつての人形のような虚無が戻っていた。しかし、その胸の奥では、ルシエラから向けられた「お前自身はどうしたいのよ!?」という悲痛な問いかけが、今もなお、激しい警鐘のように鳴り響き続けていた。

 引き留めたかった。私の傍にいてほしいと、あの金髪をもう一度抱きしめて、言いたかった。

 だが、自分は忍びだ。主命に従い、国を護ることだけが生きる目的だと教えられてきた。黒耀という圧倒的な存在を前にして、自分がルシエラの足枷になることなど、あってはならないと理性が告げていた。

 小夜が懐から取り出したのは、品川の密貿易組織から命懸けで奪取した、あの密帳の残骸だった。

「小夜」

 不意に、背後の闇から、低く厳格な男の声が響いた。

 小夜が瞬時に振り返り、その場に跪く。闇の中から姿を現したのは、幕府隠密組織の頭領であり、彼女の上司である服部景綱だった。その鋭い眼光は、いつに増して冷酷で、張り詰めていた。

「頭領。品川での潜入任務、証拠の密帳の一部を確保いたしました。敵の裏には、人間だけでなく、一部の強力な怪異……そして、魔界と呼ばれる異世界の術式が絡んでいる模様です」

 小夜は私情を完全に殺し、淡々と公務の報告を口にした。

「……そのようだな。だが、小夜。お前が長屋で監視していた『魔皇女ルシエラ』の件だが、事態は我々の想定を遥かに超えて動き始めている」

 景綱は地図を乱暴に畳むと、小夜を見下ろして言い放った。

「幕府上層部、および老中の方々は、江戸の町を覆ったあの紫色の狐火と異界の魔力を、極めて重大な『国家の脅威』と断定された。……同時に、その強大すぎる力を、幕府の軍事兵器として利用しようとする勢力が、上層部で完全に主導権を握ったのだ」

「兵器、ですか……?」

 小夜の無表情な顔が、一瞬だけ微かに強張った。

「そうだ。異界の魔力と、この国の妖怪の力を組み合わせれば、いかなる列強の軍勢をも退ける絶対的な力を獲得できる。だが、俺にはそれだけが目的とは思えん。連中が欲しているのは、外敵を退けるための力だけではない。その力を独占し、幕府そのものを意のままに動かすつもりなのではないか……そんな疑念もある」

「幕府を、ですか……?」

「確証はない。だが、すでに一部の術師たちは、通常の指揮系統から外れて動いている。どうにも嫌な予感がする。その野望のため、幕府上層部より、お前に新たな『絶対遵守』の密命が下された」

 景綱は懐から、徳川家の葵の御紋が押された、重々しい赤い公文書を突き出した。

「――魔皇女ルシエラを、あらゆる手段を用いて捕縛し、幕府の地下実験場へと引き渡せ。抵抗するようであれば、その四肢を切り落としてでも生かしたまま連行しろ。……命令は絶対だ、小夜。お前はただ、人形としてこの主命を遂行すればいい」

 その瞬間、小夜の脳裏を、凄まじい衝撃が駆け抜けた。

 捕縛。兵器としての利用。地下実験場。

 それは、あの気高く、尊大で、少しからかわれただけで顔を真っ赤にし、お団子を美味しそうに食べていたルシエラの自由を、尊厳を、そして命を、完全に蹂躙し、消費し尽くすことを意味していた。

 小夜の身体が、小刻みに震え始めた。

 命令は絶対。それが忍びとして生きてきた彼女のすべてだった。これまでの人生、どんなに不条理な命令であっても、彼女は眉一つ動かさずにそれを遂行してきた。自分の意思などない、ただの便利な道具として。

 だが、今、彼女の胸の奥で、ルシエラの流した涙の熱さによって目覚めた『一人の少女としての意思』が、その命令に対して、狂おしいほどの叫びを上げて拒絶していた。

(嫌だ。……そんなことは、絶対に、させない)

「……小夜? どうした、早く書状を受け取れ」

 景綱の督促の声が響く。

 小夜はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての人形のような空虚さは微塵もなかった。

 服部景綱が幼い頃から知る、どの『小夜』よりも、強く、真っ直ぐで、そして激しい、一人の人間としての意思の光が、そこにはっきりと灯っていた。

「……申し訳ありません、頭領」

 小夜は差し出された書状を受け取ることなく、穏やかに、しかし鋼のような決意を込めて言い放った。

「私は……その命令には、従えません。私は、ルシエラ様を幕府へ引き渡すことは、絶対にできません」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。