第二十三話 近すぎる主従
「……本気か、小夜」
地下詰所の冷たい暗闇に、服部景綱の低い声が響いた。
「はい」
小夜は跪くこともなく、まっすぐに頭領の鋭い眼光を見つめ返した。
「忍びに私情は不要。そう教えられて生きてきました。ですが……ルシエラ様に『お前自身はどうしたいのよ』と問われたあの夜から、私の身体は、私の心は、もう命令をただ受け入れるだけの機械には戻れないのです。国を護るためであれ、私は……私の大切な人を、実験場のモルモットにするための道具にはなれません」
「それがお前自身の答えならば、もう俺が言うことはない。――去れ、裏切り者め」
景綱がゆっくりと手を挙げた瞬間、周囲の闇から無数の黒い影――幕府直属の隠密たちが音もなく姿を現した。抜き放たれた何十本もの刀が、月光の届かない地下室で鈍い銀色の光を放つ。
小夜は一言も返さず、電光石火の速さで腰の煙玉を床へと叩きつけた。
激しい爆音と共に、視界を完全に奪う濃密な黒煙が部屋に満ちる。
「追え! 生け捕りには及ばん、斬れ!」
景綱の冷徹な怒号を背に受けながら、小夜は天井のわずかな隙間へと跳躍し、追手たちの刃を紙一重で掻い潜りながら、夜の江戸の屋根伝いへと脱出した。
脇腹の古傷が、激しい運動によって悲鳴を上げるようにズキズキと痛む。しかし、今の小夜の胸を支配していたのは、肉体の痛みなど比べ物にならないほどの、狂おしいまでの焦燥感だった。
(ルシエラ様……。幕府の手が、もうすぐそこまで伸びています。黒耀という男の元にいれば安全かもしれない。けれど、幕府の陰謀は、異界の力そのものを狙っている……!)
小夜は夜風を切り裂きながら、ルシエラが滞在しているはずの、森の奥の廃寺へと向かってただ一筋に走り続けた。自分を冷たく突き放し、もう二度と顔も見たくないと怒っていたかもしれないあの金髪の魔皇女に、どうしても伝えなければならない真実があった。
同じ頃、廃寺の本堂では、ルシエラが壇上に膝を抱えて座り込んでいた。
黒耀が差し出してきた魔力結晶のおかげで、体内の魔力は本来の六割を超え、背中の漆黒の翼からは禍々しい波動が絶え間なく溢れ出している。しかし、その強大な力とは裏腹に、彼女の心は完全に凍りついたままだった。
「殿下、次元の門の構築は最終段階に入っております。明日の夜には、この不浄なる世界と決別し、魔界へと凱旋することが可能となります」
黒耀は壇下で恭しく一礼した。
「帰還の準備として、あの長屋に残された人間どもの痕跡、および殿下を監視していたあの生意気なくノ一の娘の情報を、完全に抹消しておきます。あなた様の気高い記憶に、あのような下俗な羽虫の存在を残しておく必要はありませんから」
黒耀のその言葉が、ルシエラの胸の奥で、張り詰めていた弦を激しく弾いた。
「……触るんじゃないわよ、黒耀」
「は? 何にございましょうか」
ルシエラはゆっくりと壇上から立ち上がり、黒耀を冷酷な、しかし激しい怒りを孕んだ紅い瞳で睨みつけた。
「あの長屋も、あそこにいた狸も、団子屋の娘も……そして、小夜も。全ては私の『所有物』よ。私が魔界へ帰るからといって、お前が勝手にそれを取り壊したり、傷つけたりすることは、皇女たるこの私が絶対に許さないわ!」
ルシエラの背後の翼がバサリと大きく広がり、本堂の空間に黒い雷撃のような火花がバチバチと飛び散った。彼女の漆黒の尻尾は、怒りと、そして言葉にできない『寂しさ』で、激しく床を打ち付けている。
「私は……べつにこの国が気に入ったわけじゃないわ! 魔界へ帰る方法が見つかるまで仕方なく滞在していただけよ! だけど……だけど、あいつらが私にくれたお団子も、あの温かいお湯も、全部、全部私のものなのよ! お前なんかに、無かったことにされてたまるもんですか!」
ルシエラは叫び、黒耀を突き放すようにして、本堂の扉を乱暴に開け放ち、夜の森へと飛び出した。
「殿下! お待ちください、どちらへ行かれるのですか!」
黒耀の制止の声を無視して、ルシエラはただ、あの四畳半の長屋がある方向へと、無我夢中で足を動かしていた。
そして、森の入り口、月光が木々の隙間から美しく降り注ぐ、静かな広場で。
駆けつけたルシエラと、息を荒くした小夜が、正面から衝突するように再会した。
「――あっ」
二人は同時に足を止め、互いの姿を見つめ合った。
小夜の黒い装束は、先ほどの追手との戦闘によってあちこちが切り裂かれ、新たな赤い血が滲んでいた。その息はひどく乱れ、いつもなら一寸の乱れもない黒髪が、額に汗で張り付いている。
一方のルシエラは、魔界の漆黒のドレスをまとい、強大な魔力の霧を周囲に漂わせ、完全な『魔皇女』としての姿を取り戻していた。
あまりにも対照的な二人の姿。
ルシエラは、ボロボロになりながら自分を見つめてくる小夜の姿を見た瞬間、胸の奥が張り裂けそうなほどの痛みに襲われた。あの丘の上で、冷たく「ただの任務ですので」と言い放った少女が、なぜ今、こんな死に物狂いな姿で自分の前に現れたのか、理解が追いつかなかった。
「……何よ、お前。どの面下げて私の前に現れたのよ」
ルシエラは必死に声を震わせ、腕を組んで強がってみせた。
「私はお迎えが来たから、明日には魔界へ帰るのよ。お前みたいな冷たい人形隠密なんて、こっちから願い下げだって言ったでしょう! なのに、なんでそんなボロボロの格好で、また私の前に――」
「ルシエラ様、逃げてください」
小夜はルシエラの罵倒を遮るように、一歩前へと踏み出し、彼女の手首をぎゅっと掴んだ。その手のひらは、傷と疲労のせいでひどく冷たかったが、握る力には、狂おしいほどの必死さが籠もっていた。
「幕府が、あなた様を狙っています。あなた様の魔力と、妖怪の力を組み合わせ、国家の兵器として利用しようとする陰謀が、上層部で完全に動き出しました。……私は、あなた様を捕縛しろという正式な命令を受けました」
「――え?」
ルシエラは目を見開いた。
「私は……その主命に、背きました。生まれてから初めて、頭領の命令を拒絶し、裏切り者として追われる身となりました」
小夜は呼吸を整えながら、ルシエラの紅い瞳をまっすぐに見つめ返した。その光を失っていたはずの瞳に、いま、ルシエラの涙によって灯された『一人の少女としての熱い意思』が、月光よりも眩しく輝いていた。
「私は、あなた様を指定の地点へ誘導し、罠に嵌めるためにここへ来たわけではありません。真実を伝え、あなた様を処罰覚悟で、ここから逃がすために走ってきたのです。……さあ、ルシエラ様。黒耀というお方の元へ戻り、今すぐに魔界へお帰りください。あの方の力があれば、幕府の追手など――」
「おのれ和の国ぃぃぃっ!! 勝手なことばかり言うんじゃないわよ!!」
ルシエラの激しい絶叫が、静かな月夜の広場に響き渡った。
ルシエラは小夜に握られていた手を強引に振り払うと、彼女の胸元を、漆黒のドレスの細い腕でぐいと掴み寄せた。至近距離で、二人の視線が激しく交錯する。ルシエラの紅い瞳からは、いよいよ堪えきれなくなった大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出し、小夜の頬へとポタポタと落ちていった。
「引き止めなさいよ、このバカ小夜!!」
ルシエラは涙を流しながら、声を荒らげて叫んだ。
「『任務だからお別れです』なんて、そんなつまらない言葉で私を突き放しておいて、今度は『私のために全部捨てて逃げろ』ですって!? 勝手に私のために裏切り者になって、勝手に一人で命を懸けて、勝手に私を護って死のうとするんじゃないわよ! 私は、私はそんなこと、これっぽっちも望んでないのよ!」
ルシエラの漆黒の尻尾は、彼女の心の叫びに完全に同調するように、地面を激しく叩きつけ、その先端は、小夜の胸元に触れるほどに切なく、狂おしく震えていた。
「お前が言ってほしい言葉があるなら、まず自分が言えばいいって、あの狐女にも言われたわよ! 私は、お前に『行かないで』って、引き止めてほしかったのよ! お前と一緒に、あの狭い長屋で、お団子を食べて、湯屋に入る日々が……私は、魔界の玉座なんかよりも、遥かに……遥かに大切だったのよ! なのに、なんでお前は、いつも自分の気持ちを後回しにするのよ!!」
ルシエラの魂の告白が、小夜の心の奥底に、決定的な大爆発を引き起こした。
あまりにも近すぎる主従。お互いを思いやるがゆえに、最悪の形ですれ違っていた二人の本音が、この月明かりの広場で、ついに完全に重なり合った。
小夜はしばらくの間、呆然と口を開けたまま、目の前でボロボロと涙を流して自分を責め立てる主君の顔を見つめていた。
そして、彼女の薄い唇の端が、初めて、忍びとしてではなく、一人の恋する少女として、本当に愛おしそうに、美しく笑みの形を結んだ。
「……御意」
小夜は小さく呟いた。
「またそれ!? お前、人がこれだけ真面目に怒っているのに、またその機械みたいな返事をするの!?」
ルシエラが涙目で怒鳴ると、小夜はふっと手を伸ばし、ルシエラの涙で濡れた美しい頬を、自分の両手で優しく包み込んだ。
「失礼しました。……私は、命令だからではなく、私自身の意思で、あなた様のおそばにいたいのです。ルシエラ様、魔界へ帰らないでください。私の傍に、いてください」




