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おのれ和の国! ~孤高の魔皇女、うっかり懐いた忍びの少女に絆される~  作者: 明石竜


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第二十四話 幕府の命令

「……しつこいわね、和の国のネズミどもは! これなら魔界の吸血蝙蝠の群れを相手にしている方が、まだ風通しが良いわよ!」

 深い森の奥、月光すら届かない鬱蒼とした茂みの中を、ルシエラは小夜の手を引いて疾走していた。

 身にまとう漆黒のドレスの裾が、鋭い茨の棘に引っかかって音を立てて裂ける。しかし、今のルシエラはそんな宮廷の最高級の布地のことなど、これっぽっちも気にかけていなかった。ただ、自分の小さな手のひらの中で、驚くほど冷たく、そして激しく震えている小夜の手のぬくもりを失わないこと――それだけが、彼女の脳内を支配する唯一の絶対的な命令だった。

「ルシエラ様、足元が乱れています。これ以上の強行軍は、あなた様の未完全な肉体に……くっ……」

 小夜は並走しながら、苦しげに顔をしかめて脇腹を強く押さえた。

 幕府の地下詰所を強行突破した際に負った新たな創傷と、かつての古傷が同時に悲鳴を上げている。装束の隙間から滲み出る赤い血が、漆黒の布地をどす黒く濡らし、地面の枯れ葉の上に点々と滴り落ちていた。

「お前こそ、さっきから口を開けばそればかりじゃない! 私は魔界の皇女よ!? この程度の山道、お前に心配される筋合いは無いわ! それよりその脇腹……また血が出ているじゃないの! 家臣のくせに、私の許可なく勝手に衰弱するんじゃないわよ!」

 ルシエラは叫び、小夜を急かすようにさらに強く手を引っ張った。

 彼女の背中にある漆黒の翼は、怒りと焦燥で大きく波打ち、周囲の空気にバチバチと黒い魔力の火花を散らしている。ドレスの裾から覗く尻尾は、小夜の肉体が限界を迎えていることへの恐怖から、破裂しそうなほどに激しく、切なく左右に振れ動いていた。

 二人の背後の闇から、無数の不気味な気配が、音もなく、しかし確実に距離を詰めてくる。

 シュッ、シュシュッ!!!

 突如として夜の帳を切り裂き、冷酷な銀色の軌跡が何十本も襲いかかってきた。幕府隠密組織が誇る、特殊な毒が塗布された手裏剣の雨。

「――しまっ!」

 小夜が瞬時にルシエラを背後に庇い、懐からクナイを抜き放って火花を散らしながら叩き落とそうとした。しかし、手負いの彼女の身体は、全盛期の速度には程遠い。

「私の家臣を、舐めるんじゃないわよ!!」

 ルシエラが前に踏み込み、小さな両手を力強く突き出した。

「高位黒色障壁(ダーク・シールド)!!」

 ルシエラの周囲に、禍々しい漆黒の魔術文字が描かれた巨大な円形の魔法陣が瞬時に展開される。魔力が六割まで回復している彼女の障壁は、かつての脆弱なものとは比べ物にならないほどに強固だった。キィィン、と甲高い金属音を立てて、全ての手裏剣が黒い霧に触れた瞬間に腐食し、塵となって地面へ落ちていく。

「カカッ! やはり異界の化け物め、凄まじい妖力よ!」

「囲め! 頭領の命令だ、生かしたまま連行せよ! 裏切り者の小夜は、その場で首を刎ねても構わん!」

 茂みの奥から、顔を黒い頭巾で覆った無数の隠密たちが姿を現した。その数は、品川の密貿易組織の時とは桁が違う。幕府が本気でルシエラの『兵器としての力』を奪い、そして組織の不名誉たる裏切り者を処刑するために送り込んできた、直属の精鋭討伐部隊だった。

「くっ……これほどの数、正面から受けては……!」

 小夜がクナイを構え直すが、その足元は出血のせいで微かにふらついていた。

「おやおや。ずいぶんと派手な鬼ごっこをしているじゃないか、お二人さん」

 その絶望的な包囲網の真ん中に、ふわりと、濃厚で脳を直接麻痺させるような芳醇な『梅の香』が立ち込めた。

 提灯の明かりも届かない漆黒の森の中に、突如として黄金の巨大な炎――狐火が無数に浮かび上がる。その中心に立っていたのは、深紅の豪奢な着物をゆったりと揺らす、九尾の大妖狐、お玉だった。

「お、お玉……!? お前、なんでこんなところに……」

 ルシエラが目を丸くする。

「あたしの縄張りに、幕府のネズミどもがこれだけ大挙して押し寄せてるんだ。大首領(ボス)として、挨拶に来るのが筋ってもんだろう?」

 お玉は煙管(キセル)を軽く振ると、その琥珀色の狐の目を冷酷に細めた。

「それにさ、あたし、一度目をつけた『側室候補』が、あんな幕府の小汚い地下実験場で壊されるのを見るなんて、趣味じゃないんだよねえ。……小娘、行くよ。あたしの隠れ家まで、道を開けてあげるからさ」

 お玉が背後の九本のふさふさとした黄金の尻尾を大きく一振りした瞬間、周囲に浮かんでいた狐火が一斉に爆発し、幕府の隠密たちに向かって濁流のように襲いかかった。

「うわあぁっ!? なんだこの炎は! 消えんっ!」

 炎に包まれた隠密の一人が悲鳴を上げる。

「妖狐お玉か! おのれ、幕府に反旗を翻す気か!」

 別の隠密が怒鳴った。

「反旗も何も、あたしたちは最初から、あんたたちの道具になった覚えなんて無いんだよ!」

 お玉の圧倒的な大妖怪としての妖力が、隠密たちの包囲網を力任せに消し飛ばしていく。

「さあ、今のうちに走りな! 森の東の崖を降りたところに、あたしの古い結界を張った洞窟がある! そこなら、幕府の犬どもの鼻も届かないさ!」

「――感謝します、お玉殿!」

 小夜はルシエラの手を再び強く握りしめると、炎の幕が上がる戦場を駆け抜け、お玉が示した東の崖へと向かって迷いなく跳躍した。


 しばらくして、三人は森の東の崖を下り、岩肌を流れ落ちる滝の前に辿り着いた。

 激しい追撃の手をどうにか振り切ると、滝の裏側に隠された、古い苔に覆われた岩穴――お玉の秘密の隠れ家へと滑り込んだ。

 入り口にお玉が何重もの幻術の結界を施すと、外の騒がしい足音や気配は、嘘のように完全に遮断され、洞窟内には静かな水の滴る音だけが響くようになった。

「……はぁ、はぁ……っ……」

 洞窟の奥に辿り着くなり、小夜の身体から完全に緊張の糸が切れた。彼女は壁に背中を預けたまま、地面へと力なく崩れ落ちた。脇腹からは、衣服を完全に真っ赤に染めるほどの血が流れ出している。

「小夜――っ!!」

 ルシエラはなりふり構わず駆け寄り、小夜の身体をその華奢な両腕で抱きとめた。

「お前、本当にバカじゃないの!? なんでそんなになるまで平気な顔をして走っているのよ! 家臣のくせに、主君にこんな無様な姿を見せるなんて、絶対に、絶対に許さないんだから……!」

 ルシエラの紅い瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、小夜の血に汚れた顔を濡らしていく。

「ポン吉! 薬を……って、あの狸は長屋に置いてきたんだったわ! くっ、どうすれば……私の魔力で、治癒の術式を……!」

 ルシエラはパニックになりながら、体内の魔力を無理やり練り上げようとした。しかし、攻撃魔法は得意なものの、繊細な治癒の術式は、魔力が完全に回復していない今の彼女には酷く難解だった。

「おや、お姫様。そんなに慌てなさんな。あたしの特製の妖薬があるからさ」

 お玉が苦笑しながら歩み寄り、懐から小さな琥珀色の液体の入った小瓶を取り出した。

「これを傷口に塗って、少し飲ませな。人間の隠密の身体なんて、あたしたちの薬にかかれば数日で元通りさ。……ただし、かなり痛むけれどねえ」

 お玉の手を借りながら、ルシエラは小夜の衣服の紐を解き、剥き出しになった脇腹の凄惨な傷口に、その薬を慎重に塗布していった。

「――っ、く……あ、ああぁっ……!」

 普段はどんな激痛にも声を上げない小夜が、初めて、一人の少女としての苦悶の声を漏らし、ルシエラの衣服の袖をぎゅっと強く掴みしめた。その身体は、薬の激しい拒絶反応で、ガタガタと大きく震えている。

「小夜、大丈夫よ……! 私がここにいるわ! お前の主君が、ずっとここにいてあげるから!」

 ルシエラは小夜の震える身体を、自分の胸の奥へと強く抱き寄せた。金髪のツインテールが小夜の首筋に絡み合い、ルシエラの熱い鼓動が、小夜の冷え切った肌に直接伝わっていく。

 ルシエラの漆黒の尻尾は、小夜の苦痛を少しでも和らげたいと願うように、彼女の足首に何度も、何度も優しく巻き付いて、安心させるように小さく揺れていた。

            ☆

 数刻の凄まじい看病の末、夜が完全に更ける頃、小夜の激しい呼吸はようやく穏やかなものへと変わっていった。傷口の出血は完全に止まり、薬の力で肉体が急速に再生を始めている。小夜はルシエラの膝の上に頭を乗せたまま、深い、心地よい眠りへと落ちていた。

 ルシエラは、自分の膝の上で無防備に寝息を立てている小夜の顔を、月光の届かない暗い洞窟の奥で、じっと見つめ続けていた。

 衣服は血と泥で汚れ、髪は乱れている。それでも、今の小夜の顔は、かつての長屋で出会った頃の『中身のない人形』のそれとは、完全に違っていた。自分の意思で主命を裏切り、「おそばにいたい」と言ってくれた、愛おしい一人の少女の顔が、そこにはあった。

「……本当に、生意気な家臣ね、お前は」

 ルシエラはぽつりと呟き、小夜の額に張り付いた黒髪を、細い指先で優しく払った。

 胸の奥が、熱い質量を持って激しく高鳴っている。魔界の玉座に戻ることなど、もうどうでもよかった。ただ、この少女の隣にいたい。この少女の願いを叶えてやりたい。それだけだった。

 お玉はそんな二人の様子を、洞窟の入り口で煙管を燻らせながら、ひどく優しい、しかし悲しげな瞳で見つめていた。

「……よかったねえ、お姫様。ようやく、その人形に本当の心が宿ったようだ」

 お玉は煙を大きく吐き出し、夜空を見上げた。

「だけどさ、これで終わりじゃないんだよ。幕府はお前たちの力を完全に危険視し、本気で潰しに来る。……そして、あの魔界から来た漆黒のお兄さんも、あんたが人間に絆されたことを知れば、黙っちゃいないだろうねえ」

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