第九話 少しずつ言葉が増えていく
レオルの手元で生まれた小さな炎は、結衣がどれだけ見つめても普通の火にしか見えなかった
枝の先端を橙色に染めながら揺れ、乾いた木を焦がして細い煙を上げている
違うのは、その火が生まれるまでの過程だった
結衣はほんの数時間前、川辺で何度も木を擦り、手のひらを赤くしながら、それでも火種すら作れずに苦労した
最後には水滴と光まで利用してようやく小さな火を作ったのに、レオルは道具らしいものを使うこともなく、手を近づけただけで同じものを生み出してしまった
「……ずるい」
思わず漏れた言葉に、レオルが首を傾げる
「いや、こっちの話」
結衣は苦笑しながら手を振ったものの、視線はすぐ燃えている枝へ戻った
さっきは驚くことしかできなかったけれど、落ち着いてくると今度は知りたい気持ちが強くなってくる
「AI先生、もう一回映像見ても、何か使ってるようには見えない?」
『直前の映像を再解析しましたが、既知の着火器具に該当する物体は確認できません』
「指のところ光ってたよね」
『はい。発火直前、レオルの手指周辺で短時間の発光を記録しています』
「火花?」
『映像のみでは判定できません。少なくとも、一般的な静電気放電と断定できる情報はありません』
「じゃあ……何なんだろ」
『現時点では不明です』
いつも通りの答えだった
けれど今回は、その「分からない」が少しだけ楽しかった
朝に一人で歩いていた時なら、理解できない現象に遭遇しただけで怖くなっていたと思う
今は目の前にそれを使った本人がいる
言葉さえ少しずつ覚えれば、いつか聞けるかもしれない
結衣は燃える枝を指した
「これ」
レオルを見る
もう一度、火を指す
「これ、なんて言うの?」
日本語が伝わらないのは分かっているので、最後は首を傾げてみせた
レオルは最初こそ意味が分からなかったようだが、結衣が何度か炎と彼の顔を交互に見ると、ようやく意図に気づいたらしい
炎を指しながら短く発音した
「フィア」
結衣は目を瞬かせた
「フィア?」
レオルがもう一度発音する
「フィア」
「……フィア」
今度は頷いてくれた
それだけで結衣の顔に小さな笑みが浮かぶ
「AI先生、今の」
『炎を指示対象として同一音列が二度使用されました。「フィア」に近い音として記録します。ただし、火そのものを示す名詞であることは未確定です』
「分かってる。仮でね」
結衣は燃えている枝を見つめる
「フィア」
今度は自分から口にした
レオルが頷いた
「……通じた」
小さな成功だった
それでも結衣には嬉しかった
自分の名前以外で、初めてこちらから現地の言葉を使って、それが相手に伝わった
さっき覚えた食べ物らしい「パァナ」もあるけれど、あれはまだ口にする機会がなかった
結衣はもう一度火を指してみる
「フィア」
レオルが笑いながら頷いた
どうやら少なくとも完全な間違いではないらしい
「よし」
嬉しくなって小さく拳を握る
その動きを見たガルドが何か言い、レオルが答えた
二人とも少し笑っている
「……絶対なんか言われてる」
『内容は判断できません』
「子供みたいって言われてたら恥ずかしいんだけど」
『推定するための情報がありません』
「分かってるよ」
頬に少し熱を感じながらも、結衣は炎を見るのをやめなかった
次に知りたいのは、どうやって火を出したのかだった
ただ、それを身振りだけで聞くのは難しい
結衣は自分の手を見る
それからレオルの手を見る
試しに自分の人差し指を枝へ向け、先ほどレオルがしていたような動きを真似してみた
「フィア」
もちろん何も起こらない
レオルが目を丸くする
「こう?」
もう一度やってみる
「フィア」
やはり何も起こらない
今度はレオルが声を上げて笑った
「ちょっと、そんな笑わなくてもよくない?」
結衣は恥ずかしくなって手を引っ込めた
ガルドまで口元を緩めている
「もう……」
頬を少し膨らませながら、結衣は胸元へ視線を落とした
「AI先生まで笑ったら怒るからね」
『私は笑っていません』
「知ってる」
そう答えた自分も結局笑ってしまった
その時、レオルが何かを言いながら自分の胸へ手を置いた
次に掌を上へ向ける
先ほどとは違って枝は持っていない
結衣は何をするつもりなのか分からず、じっとその手を見る
レオルが短く息を吐いた
指先の周囲に、先ほど見た淡い光が現れる
「……また光った」
結衣は思わず身体を前へ傾けた
次の瞬間、掌から少し離れた位置に小さな炎が生まれた
「えっ」
今度は枝すらない
火はほんの一瞬だけ宙に浮かび、すぐ消えた
結衣は目を大きくしたままレオルを見る
「それ、できるんだ……」
レオルは少し得意そうだった
その顔を見る限り、少なくとも本人にとって危険な事故が起きたわけではない
結衣は胸元へ顔を寄せる
「AI先生、今のも?」
『記録しています。発光後、レオルの掌上方で炎と推定される現象が約一・四秒間継続しました』
「燃えるものなかったよね」
『映像から確認可能な範囲ではありません』
「じゃあ燃料は?」
『不明です』
「温度は?」
『スマートフォンの標準センサーでは遠隔測定できません』
「そっか……」
結衣はもう一度レオルの手を見る
聞きたいことが一気に増えてしまった
どうやったのか
誰でもできるのか
火以外にもできるのか
さっきの光は何なのか
でも今の結衣には、そのどれも聞く言葉がない
「……言葉覚えたい」
思わず呟く
『現在も音声記録と状況情報の関連付けを継続しています』
「うん。でもAI先生だけじゃなくて、私も」
結衣は少し考えてからレオルを見た
火の名前を教えてもらえたのなら、他のものも同じやり方で聞けるかもしれない
道の脇へ視線を向ける
ちょうど近くに木があった
結衣は幹を指した
「これ」
レオルを見る
首を傾げる
さっきと同じやり方だったので、今度はすぐ意図が伝わった
「アルバ」
「アルバ?」
レオルが頷く
結衣は木を見上げる
「アルバ」
次に地面を指す
レオルが答える
「テラ」
「テラ」
頷く
結衣は少し嬉しくなった
今度は空を指す
「セラ」
「セラ」
レオルがまた頷く
「すごい、増えてる」
『現時点では各語と指示対象の対応は暫定です。複数の用例を確認する必要があります』
「分かってるけど、今は覚えさせて」
『記録しています』
結衣は次に自分のスニーカーを指そうとして、少し考えた
靴を覚えて今すぐ役に立つのかと言われると微妙な気がする
「何から覚えたらいいと思う?」
『生存と意思疎通を優先する場合、飲食物、移動、危険、肯定と否定、人物を示す語などが有用と考えられます』
「じゃあ水」
それならすぐ使う
結衣は飲む仕草をしたあと、レオルが持っている革袋を指した
レオルが袋を持ち上げる
「アクァ」
「アクァ?」
結衣が繰り返すと頷いた
「アクァ……水」
覚えるため、日本語と続けて小さく呟く
「アクァ」
『記録しました』
「これは絶対覚える」
次に自分の口元を指し、さっきもらった食べ物を思い出して「パァナ」と言ってみる
レオルの表情が変わった
荷車の方を指して、同じ言葉を返してくる
「あ、通じた!」
思わず声が弾んだ
さっき教えてもらったばかりなのに、ちゃんと覚えていた
たったそれだけのことが嬉しくて、結衣は少し誇らしそうに笑った
「パァナは食べ物で合ってそうだね」
『少なくとも先ほど提供された食品との関連性は高いと判断できます』
「フィア、火。アクァ、水。パァナ、あのパンみたいなの」
頭の中で結びつけるように繰り返す
レオルは結衣が何をしているのか分かったらしく、今度は自分から近くの物を指し始めた
道を指して何かを言う
「ヴィア」
「ヴィア?」
頷く
次に荷車
「カル」
「カル」
馬に似た生き物を指す
「エルガ」
「エルガ……」
結衣は思わずその生き物を見る
「あなたエルガっていうの?」
もちろん返事はない
ただ耳だけがこちらへ少し動いた
「かわいい」
『呼称が種全体を示すのか、この個体の名称なのかは未確定です』
「あ、そっか」
結衣はすぐ納得した
「名前の可能性もあるんだ」
『はい』
「じゃあエルガ仮登録で」
『記録しました』
レオルはさらに何かを教えようとしていたが、ガルドが短く声をかけた
レオルが振り返る
二人が少し話し、ガルドが道の先を指した
どうやらそろそろ進むらしい
レオルが結衣を見ると、道の先を指して一言発した
「イラ」
結衣は首を傾げた
レオルが歩く仕草をする
もう一度、
「イラ」
「……行く?」
結衣も道を指して歩く真似をする
レオルが頷いた
「イラ」
「イラ」
また一つ増えた
結衣は嬉しくなって、胸元を軽く押さえた
「AI先生、これも」
『移動開始を促す表現である可能性が高いとして記録します』
「よし」
レオルが歩き出す
結衣もその後を追いながら、小さな声で繰り返した
「フィア、アクァ、パァナ、アルバ、テラ、セラ、ヴィア、カル……エルガはまだ分かんない。イラ」
『一度に多数の語を暗記するより、使用場面と関連付けて反復する方が定着しやすいと考えられます』
「学生の時に言ってほしかった」
『当時の会話履歴にも類似する学習方法について――』
「それ今は掘り返さなくていいから」
昔の自分が何を聞いていたのか怖くなって、結衣は慌てて止めた
レオルたちには意味が分からないはずなのに、結衣が一人で胸元と会話していることには少しずつ慣れてきたらしい
時々こちらを見るものの、歩みを止めることはなくなっていた
結衣も歩きながら、覚えたばかりの言葉を実際の景色へ重ねてみる
道ならヴィア
木ならアルバ
水はアクァ
空はセラ
目で見るたびに頭の中で名前を言い直すと、ただの知らない音だったものが少しずつ意味を持ち始めた
それが不思議だった
世界そのものは何も変わっていない
それでも名前を一つ知るたび、ほんの少しだけ自分のいる場所が近くなってくる
しばらく進んだところで、先頭を歩いていたガルドが突然片手を上げた
荷車が止まる
結衣も足を止めた
ガルドが振り返り、低い声で短く何かを言った
レオルの表情から笑みが消える
「……何?」
結衣も声を落とした
『前方の二名に警戒行動を確認しています』
ガルドは腰の剣へ手をかけた
今まで何度も見ていた動作だったが、今回は手を置くだけでは終わらなかった
鞘から金属が滑る音が聞こえる
結衣は息を止めた
抜き出された剣は、飾りには見えなかった
陽の光を受けた刃には細かな傷がいくつもあり、柄の革も使い込まれている
ガルドはそれを片手で構えながら、道の先を見つめていた
結衣もそちらを見る
「AI先生、何かいる?」
『現在解析しています』
胸元のカメラへ映る範囲を広げるため、結衣はゆっくり身体を動かした
右側の森
左側の低い茂み
道の先
『右前方、約三十二メートルの植生内に断続的な動きを確認しました』
「……動物?」
『判定できません』
結衣の背中に冷たい感覚が走る
レオルが荷車の近くへ移動した
先ほどまで簡単に火を生み出していた彼も、今は笑っていない
結衣は邪魔にならないよう荷車の後ろへ下がろうとした
その時、ガルドがこちらを見た
手のひらを結衣へ向け、強い口調で言う
「ステイ」
結衣は反射的に止まった
「……今の」
『ガルドの動作と状況から、停止を指示する語である可能性があります』
結衣は小さく頷く
「ステイ……止まれ」
今度は忘れないと思った
ガルドの視線が再び森へ戻る
結衣はその背中を見ながら、さっきまで覚えていた穏やかな単語とはまるで違う緊張を感じていた
フィアを覚えた時は嬉しかった
アクァを覚えた時も、イラを覚えた時もそうだった
けれど今覚えた言葉だけは、二度と使う場面が来なければいいと思った
森の奥で、枝が大きく揺れた
ガルドの剣先がわずかに上がる
レオルの片手には、あの淡い光が再び集まり始めていた
結衣は荷車の陰で息を潜めながら、胸元のスマートフォンをそっと押さえた
少しずつ分かるようになってきたこの世界が、優しいものだけではないことを、今度は言葉ではなく目の前の二人の姿から教えられようとしていた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
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