第八話 知らない言葉を集めながら
レオルたちについていくと決めたものの、実際に歩き始めてみると、結衣は自分がどこに立てばいいのか分からなくなった
荷車のすぐ後ろを歩けば邪魔になりそうだし、かといって離れすぎれば、せっかく同行を許してもらったのに勝手についてくる怪しい人みたいになってしまう気がする
少し迷った末、結衣はレオルより半歩ほど後ろを選んだ
それなら相手の動きも見えるし、何かあった時には立ち止まれる
何より、腰に鞘らしきものを下げているガルドから少し距離を取れることに、結衣は密かに安心していた
「……これくらいでいいよね」
『現在の位置で移動に支障は確認できません』
「うん」
胸元から返ってきた声に、前を歩いていたレオルが振り返る
結衣は一瞬気まずくなり、曖昧に笑った
「ごめん、気になるよね」
当然ながら意味は伝わらない
それでもレオルは結衣の胸元を一度見ただけで、今度は立ち止まらず前へ向き直った
少なくとも先ほどのように大きく驚くことはなくなったらしい
慣れるの早いな、と結衣は少しだけ感心する
自分だったら、森から現れた知らない女の胸元から突然男とも女ともつかない声が聞こえてきたら、もう少し長く怖がる気がする
そう考えてから、自分が相手からどう見えているのかを想像してしまい、結衣は自分の服を見下ろした
薄いピンク色のパジャマ
足元だけはスニーカー
胸元には黒いスマートフォン
改めて考えると、かなり変だった
「……私、すごい格好で初対面してるよね」
『現地の一般的な服装に関する情報が不足しているため、比較できません』
「そういう意味じゃなくて」
小声で笑いながら顔を上げる
前方では、馬によく似た大きな生き物が一定の速さで歩き続けていた
近くで見ると、地球の馬と完全に同じではないことがよく分かる
身体の大きさや四本脚で歩く姿はよく似ているものの、首から背中にかけて生えている毛は馬の鬣より短く、代わりに耳の後ろから首の付け根まで細い筋のような隆起が並んでいる
尻尾も長い毛の束ではなく、根元のかなり先まで太く、その先から毛が広がっていた
「AI先生、あの子ちゃんと撮れてる?」
『はい。現在も記録しています』
「やっぱり馬じゃないよね」
『地球上のウマ科動物と共通する外見的特徴は複数ありますが、確認できる形態には相違があります。既知のウマ科動物として分類することは推奨しません』
「じゃあ馬っぽい何か」
『暫定的な呼称としては問題ありません』
「本人に聞かれたら怒られそう」
『言語を理解する可能性については判断できません』
「そこ真面目に考えなくていいから」
結衣は口元を緩めながら歩き続けた
誰かと一緒に歩いているだけで、森の見え方まで少し変わったように感じる
一人だった時は木の陰が動くたびに何かいるのではないかと身構え、草が揺れれば足を止めていた
今も警戒していないわけではない
それでも自分よりこの場所に慣れていそうな二人が普通に歩いていることで、身体に入り続けていた余計な力が少し抜けていた
その分、周囲を見る余裕も出てくる
地面には明らかに何度も何かが通った跡が続いていた
舗装された道ではないけれど、草がほとんど生えておらず、荷車の車輪が繰り返し通ったらしい二本の浅い窪みもある
「ちゃんと道なんだ」
『継続的な通行によって形成された可能性が高いです』
「ってことは、この二人以外も使ってる?」
『その可能性は高いと考えられます』
「じゃあ、人がいるところにつながってる可能性も高そう」
『はい。ただし規模や距離は不明です』
「それでも十分」
結衣は前を向いた
人が一人、二人いるだけではなく、人が行き来している
その証拠が足元にずっと続いている
それだけで、この先に何かあるのではないかという期待が膨らんだ
しばらく歩いていると、レオルとガルドが会話を始めた
結衣には相変わらず意味が分からない
けれど今度は、分からないからと聞き流さなかった
二人の声を聞きながら、どこを見ているのかを追う
ガルドが荷車の車輪を指した
何かを言う
レオルが返事をする
その直後、二人の歩く速度が落ちた
「……何かあった?」
結衣も足を緩める
ガルドがしゃがみ込み、右側の車輪へ手を伸ばした
レオルは馬に似た生き物の横へ移動して、その身体を軽く叩いて止める
荷車が止まった
「車輪?」
『ガルドが車輪周辺を確認しています』
結衣も少し離れたところから覗き込む
木製の車輪そのものが壊れているようには見えなかった
ただ、車軸に近い部分へ細い植物の蔓のようなものが巻きついている
「あれかな」
『映像上でも異物を確認しました』
ガルドは腰から小さな刃物を取り出すと、巻きついた蔓を切り始めた
その間にもレオルが何かを言い、ガルドが短く返す
「AI先生、こういう会話も役に立つ?」
『はい。対象物と動作が明確な場面は、語彙推定に有用です』
「じゃあいっぱい聞いといて」
『記録しています』
ガルドが蔓を切り終えると、それを持ち上げながら何かを言った
レオルが同じ音を含む言葉を返す
結衣は胸元へ少し顔を近づけた
「今、同じのあった?」
『類似した音列を確認しました。ただし蔓を示す語なのか、絡まる、切る、車輪など別の意味なのかは確定できません』
「そっか。こういうの、思ってたより難しいね」
『単語の境界も未確定です』
「境界?」
『どこからどこまでが一つの単語なのか、という意味です』
「ああ……」
日本語だって、まったく知らない人が聞けば、どこで言葉が切れているのか分からないのかもしれない
結衣は少し考えてから頷いた
「じゃあ、同じ音が何回も出てきたら分かってくる感じ?」
『その方法も有効です。さらに指示、行動、結果を関連付けることで推定精度を高められます』
「よし。いっぱい喋ってもらおう」
そう言ってから、結衣はレオルたちを見る
「……どうやって?」
『質問の意味が共有できていないため、現段階では自然な会話を観察する方が効率的です』
「だよね」
結衣は少し残念そうに笑った
やがて蔓を取り除いたガルドが立ち上がり、荷車が再び動き始める
結衣も後を追った
道は緩やかに下り始めていた
右側には森が続いているものの、左側は少しずつ木々の間隔が広がり、遠くまで見通せる場所が増えている
時折吹き抜ける風が髪を揺らし、頬に張りついた毛先を結衣は指で耳の後ろへ払った
歩き続けているせいで身体は少し汗ばんでいる
「あとどれくらい歩くんだろ」
『目的地が不明なため推定できません』
「聞けたら楽なんだけどなぁ」
レオルの背中を見る
試しに聞いてみようかとも思ったけれど、距離や時間を示す言葉すら知らない今では難しそうだった
それなら今は歩くしかない
結衣はそう思っていたが、しばらくするとレオルがこちらを振り返った
結衣の歩き方を見てから何かを言う
「ん?」
レオルが少し先を指し、そのあと自分の口元へ手を持っていく
結衣は首を傾げた
「食べる?」
しかしレオルは首を振り、今度は手で何かを飲むような仕草をする
「あ、水?」
結衣が飲む真似をすると、レオルが頷いた
「休憩かな」
少し先には道から外れた場所に大きな木があり、その下だけ草が短くなっている
どうやらそこで止まるらしい
「助かる……」
誰かに合わせて歩いていたせいで、自分が思っていたより疲れていたことに気づく
結衣はレオルたちについて木陰へ入り、邪魔にならない場所を選んで腰を下ろした
地面へ座った瞬間、脚がふっと軽くなる
「はぁ……」
思わず息が漏れた
レオルが荷車から革の袋らしいものを取り出し、口を開けて飲む
ガルドも別の袋を受け取った
結衣はそれを見て、自分にも容器があればよかったのにと思った
川で飲んだ水は身体に入っているけれど、持ち運べる水はない
これからどれほど歩くのか分からない以上、その問題はかなり大きい
「AI先生、やっぱり水入れるもの欲しいね」
『はい。継続的な移動を行う場合、携行可能な飲料水の確保は有用です』
「町みたいなところ着いたら探したい」
『優先事項として記録できます』
「お願い」
結衣がそう話していると、レオルがこちらを見た
手に持っていた革袋を一度見てから、結衣へ差し出す
「……え」
結衣は思わず自分を指した
レオルが頷く
「いいの?」
言葉は伝わらないのに、つい確認してしまう
レオルはもう一度袋を差し出した
結衣は両手で受け取った
「ありがとう」
革らしい手触りの袋は少し冷たく、中で液体が動いているのが分かる
口元へ近づけたところで、結衣は一度止まった
「AI先生」
『はい』
「この人たちが飲んでたやつなら、さっきの食べ物と同じ考え方でいい?」
『少なくとも二名が摂取している液体であることは確認しています。ただし結衣にとって安全である保証はできません』
「うん」
匂いを確かめる
強い香りはない
結衣は少量だけ口へ含んだ
水だった
「……水」
思わずほっとして、もう少しだけ飲む
川辺であれだけ苦労して飲める水を作ったことを思い出すと、袋からそのまま水を飲めることがものすごく贅沢に感じた
「これ持って歩けるの、すごい便利……」
結衣は名残惜しく思いながらも飲みすぎないようにして、袋をレオルへ返した
「ありがとう」
レオルは受け取ると、何か短く言った
結衣には意味が分からない
でも声の調子は柔らかかった
それだけで少し嬉しくなる
休憩が終わるころには、結衣の脚もだいぶ楽になっていた
再び荷車が動き始める
今度は結衣も最初ほど遠慮せず、レオルの少し後ろを自然に歩けた
道はさらに森の奥へ続いている
木漏れ日が地面を流れ、車輪が小石を踏むたびに乾いた音がする
その穏やかな移動がしばらく続いたあと、不意に馬に似た生き物が耳を動かした
足が止まる
「……どうしたの?」
結衣も反射的に立ち止まった
レオルとガルドの雰囲気が変わる
ガルドが腰へ手を伸ばした
今度は先ほどの小さな刃物ではない
長い鞘の柄らしい部分へ手をかけている
結衣の背筋が伸びた
「AI先生」
『前方右側の植生に動きを確認しました』
結衣は胸元を前へ向けるように身体の向きを変える
道の右側
木々の間
最初は風で草が揺れているだけに見えた
けれど一か所だけ、周囲とは違う方向へ枝が動いた
「いる?」
『何らかの移動体が存在する可能性があります』
レオルが短く何かを言う
ガルドが前へ出た
結衣は邪魔にならないよう、荷車の反対側へ一歩下がった
怖い
でも森を一人で歩いていた時とは違う
何かあれば教えてくれるAI先生がいて、目の前には武器を持っているらしいガルドもいる
結衣は息を殺しながら、枝の奥を見つめた
しばらくして、木の陰から小さな影が飛び出した
「っ」
身体が勝手に跳ねる
現れたのは、人間よりずっと小さな四足の生き物だった
茶色い毛に覆われ、細い脚で道を横切ると、そのまま反対側の茂みへ消えていく
「びっくりした……」
結衣は胸元へ手を当てた
ガルドも柄から手を離す
レオルが何か言って笑った
「絶対いま私のこと笑ったでしょ」
『発話内容は不明です』
「顔で分かるもん」
少し恥ずかしくなりながら髪を耳へかけ直す
するとガルドが、先ほど生き物が消えた方向を指した
短い言葉を発する
レオルも同じ言葉を繰り返した
結衣の表情が変わった
「AI先生、今の」
『記録しました。両名が生物の移動直後に同一と推定される音列を使用しています』
「名前かな」
『その可能性があります』
「覚えといて」
『はい』
結衣は生き物が消えた茂みを見た
知らないものに遭遇するたび、少しずつこの世界の情報が増えていく
今までなら、知らないというだけで怖かった
けれど記録して、次に会った時には前回より少し分かるかもしれないと思えるだけで、怖さの中に別の感情が混じり始めていた
「なんか楽しいかも」
『何がでしょうか』
「知らないもの覚えてくの」
結衣は歩き出した荷車を追いながら、小さく笑った
「だって今は何にも分かんないけど、いっぱい見て聞いたら、AI先生の中にこの世界の図鑑みたいなの作れるんでしょ?」
『十分な観測情報を得られれば、分類と検索は可能です』
「じゃあ作ろうよ」
『記録は既に継続しています』
「そうじゃなくて、気分の話」
『気分は記録方式に影響しません』
「もういい」
呆れながらも笑みは消えなかった
その後もしばらく歩き続けた
道の傾斜が緩やかになり、森の木々が少しずつ疎らになっていく
空が広く見えるようになったころ、前方に小さな石造りのものが見えてきた
道の脇に置かれた、結衣の腰より少し高い程度の石柱だった
「何あれ」
『人工物である可能性が高いです』
レオルたちは特に警戒せず、そのまま近づいていく
結衣も後を追った
石柱の表面には、何かが彫られている
文字のようにも見えるが、結衣には読めない
「文字かな」
『規則的な刻線を確認できます。文字体系である可能性はあります』
「撮っといて」
『記録しました』
結衣は通り過ぎながら何度も振り返った
言葉だけではなく、文字まである
それだけでも、この先にある社会への興味が強くなった
そして石柱を越えて少し進んだところで、レオルが突然立ち止まった
「ん?」
結衣も止まる
レオルは道端へ寄ると、そこに転がっていた乾いた枝を一本拾った
ガルドが何かを言う
レオルが返事をしながら、枝の先を持ち上げた
何をするのか分からず見ていると、レオルは空いている手を枝へ近づけた
短い言葉を口にする
その直後だった
枝の先に、小さな火が灯った
「……え?」
結衣の足が止まった
火打石を使ったようには見えなかった
何かを擦った様子もない
レオルの手にはライターらしき道具もなかった
ただ手を近づけ、何かを言ったあと、そこに火が現れた
「ちょっと待って」
結衣は思わず一歩近づきかけて、慌てて止まる
「AI先生、今の見た?」
『はい』
「どうやったの?」
『映像上では、着火に必要な既知の器具の使用を確認できませんでした』
「火種持ってた?」
『確認できません』
「隠してたとか」
『映像のみから否定することはできません』
結衣はレオルの手元を凝視した
レオルは結衣が驚いていることに気づいたらしく、不思議そうにこちらを見る
その手では、確かに枝の先が燃えている
「……もう一回やってほしい」
もちろん言葉では伝わらない
結衣は別の枝を拾い、レオルへ見せた
それから燃えている枝を指し、自分の枝を指す
「これも」
レオルは結衣の意図を理解できず、少し首を傾げた
結衣は燃えている先端を指してから、何も起きていない自分の枝を見せる
もう一度同じ動作を繰り返した
「あ」
レオルの表情が変わる
どうやら伝わったらしい
結衣から枝を受け取る
そして先ほどと同じように片手で持つと、もう片方の手を近づけた
結衣は今度こそ見逃さないよう、その手元をじっと見つめた
「AI先生、ちゃんと見てて」
『記録しています』
レオルが短く何かを口にする
指先の周辺に、一瞬だけ淡い光のようなものが見えた
次の瞬間、乾いた枝の先から煙が上がり、小さな炎が生まれた
「……」
結衣は何も言えなかった
レオルが燃え始めた枝を見せてくる
結衣は受け取ることも忘れて、その火とレオルの手を交互に見た
「AI先生」
『はい』
「今の……何?」
返事までに、ほんの短い間があった
『現時点の観測情報だけでは説明できません』
「……だよね」
結衣は炎を見つめたまま、小さく息を呑んだ
自分があれほど苦労して作った火が、レオルの手の中では何の道具も見えないまま生まれていた
知らない言葉も、知らない動物も、知らない文字もあった
それでも、それらはまだ「自分が知らないだけ」と思えた
けれど今目の前で起きたことだけは、少し違う
結衣は燃える枝の向こうにいるレオルを見つめながら、胸元のスマートフォンへそっと手を添えた
「……これ、本当に私の知らない世界なのかも」
AI先生は、それを肯定もしなければ否定もしなかった
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
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