第七話 言葉が通じなくても
「結衣」
自分の胸元へ指先を添えながら、結衣はもう一度ゆっくり名前を口にした
向かいにいる二人はすぐには反応せず、突然森から現れた見慣れない格好の女をどう扱うべきか迷っているように、結衣の顔と胸元を交互に見ている
近くで見る二人の姿は、遠目で確認した時よりずっと人間らしかった
もちろん、だからといって本当に自分と同じ人間なのかまでは分からないけれど、少なくとも顔には目と鼻と口があり、耳の形も結衣が見慣れたものから大きく外れてはいない
身体を覆っている服は日本で見かけるものとはかなり違っていて、厚手の布を重ねたような上着に丈夫そうな靴を履き、一人は腰に細長い鞘のようなものを下げている
やっと誰かに会えたという嬉しさはまだ胸の中に残っているのに、その鞘へ視線が触れるたび、結衣の身体にはわずかな緊張が戻ってきた
嬉しいから近づきたいのに、知らない相手だから怖い
どちらも本当の気持ちだった
だから結衣は無理に距離を詰めず、相手がこちらを見ている場所で立ち止まったまま、もう一度自分を指した
「結衣」
二人のうち、荷車に近い方に立っていた男が少し眉を寄せ、それから確認するように口を開いた
「……ユイ?」
「あ……」
自分の名前が、知らない発音の中から突然そのまま返ってきた
それだけで結衣の表情がふっと柔らかくなる
「うん、そう。結衣」
言葉が通じているわけではないと分かっていても嬉しくて、何度も頷いてしまった
「ゆい」
「ユイ」
「そう、それ」
ほんの少し前まで、自分以外の人が存在するのかすら分からなかった
それなのに今、自分の名前を誰かが呼んでいる
その事実が思っていた以上に嬉しくて、結衣は緊張していた肩から少しだけ力を抜いた
「AI先生、今ので名前って伝わったかな」
『結衣が自身を指しながら同一の発話を繰り返し、相手もそれを模倣したため、固有名詞であると認識された可能性があります』
「そっか……よかった」
小さく笑った直後、二人の様子が変わった
結衣を見る視線が、ゆっくり胸元へ下がっていく
「……あ」
何を見ているのか気づくまでに少しかかった
胸ポケットに入れたスマートフォンから、今までそこにはいなかったはずの別の声が聞こえたのだから、驚くのも当然だった
一人が胸元を見ながら短く何かを言うと、もう一人も答えながら同じ場所へ視線を向ける
「そりゃ気になるよね……」
結衣はスマートフォンへ手を伸ばしかけ、途中で指を止めた
自分にとっては毎日触っていた普通のスマートフォンでも、この二人が何だと思っているのかは分からない
しかも腰には武器らしいものまである
ここでいきなり黒い物体を取り出せば、相手がどう反応するか分からなかった
「AI先生、出して見せても大丈夫かな」
『相手が警戒している可能性を考慮し、取り出す場合は動作をゆっくり行うことを推奨します』
「うん、そうする」
結衣はまず胸ポケットを指先で示した
それから二人の顔を見て、今からここに触るつもりだと伝えるように、ゆっくり手を近づけていく
一人の肩がわずかに動いたのを見て、結衣はそこで一度止まった
「大丈夫……何もしないから」
日本語が伝わらないことくらい分かっている
それでも、黙ったまま動くより声をかけた方が自分自身も落ち着けた
相手がこちらへ飛びかかってくる様子がないことを確認してから、結衣はスマートフォンをゆっくり引き抜いた
二人の視線が黒い端末へ集まる
結衣は画面を自分へ向けたまま、相手には裏側が見えるように持った
「これから声してたの」
当然、意味は伝わらない
けれど結衣が端末を示したことで、二人には何かしら理解できたらしい
片方がもう一人へ向かって早口で何かを言った
「AI先生、今のも記録できてる?」
『はい。二名の発話を継続して記録しています』
スマートフォンから再び声が聞こえた瞬間、二人の表情がはっきり変わった
特に荷車の近くにいた男は目を見開き、結衣ではなく端末をまっすぐ見つめている
もう一人は腰の辺りへ手を寄せたものの、何かを抜くところまではいかなかった
その動きを見た結衣の胸がひやりとする
「AI先生、ちょっと喋らないで待ってて」
声を潜めると、
『了解しました』
と返事があり、それきりスマートフォンは静かになった
「……最後にもう一回喋っちゃったけど」
思わず漏れた独り言に自分で苦笑しながら、結衣は端末を胸ポケットへ戻した
見慣れないものを無理に見せ続ける必要はない
今はまず、この二人と少しでも意思を通わせる方が大事だった
結衣は改めて相手を見る
さっき自分の名前を伝えられたのだから、同じことを逆にすれば相手の名前も聞けるかもしれない
「結衣」
自分の胸元へ手を添える
それから相手へ視線を移したものの、指をまっすぐ向けるのは何となく失礼な気がして、途中から手のひら全体を相手へ向ける形に変えた
「あなたは?」
少し首を傾けてみる
反応がない
結衣はもう一度自分へ手を戻した
「結衣」
次に相手へ手のひらを向ける
「……あなたは?」
今度は伝わったらしい
男は一瞬だけ隣の男を見ると、自分の胸へ手を置いた
「レオル」
「レオル……?」
結衣が繰り返すと、男が頷いた
その小さな反応が嬉しくて、結衣も自然に頷き返す
「レオル」
今度は最初よりきれいに言えた気がした
すると、隣にいた男も結衣が何を知りたがっているのか理解したらしく、自分から胸へ手を当てた
「ガルド」
「ガルド?」
こちらも頷く
結衣の頬がまた少し緩んだ
「レオルさんと、ガルドさんね」
呼び方が合っているのかも分からないし、こちらの「さん」に相当するものがこの世界にあるのかも知らない
それでも、名前すら知らなかった二人が、ほんの少しだけ身近な存在になった気がした
レオルが結衣へ何かを話しかける
今度は名前ではなく、いくつもの音が続いた
結衣は真剣に聞こうとしたものの、知っている単語は一つも拾えなかった
外国語なら、意味が分からなくてもどこかで聞いたことのある響きが混ざることがある
けれど今聞いている言葉には、それすらない
レオルが話し終えるころには、結衣は申し訳なさそうに眉を下げていた
「ごめん……ほんとに分かんない」
困ったように首を横へ振る
自分の耳を指してから、もう一度首を振ってみると、レオルも結衣が理解していないことには気づいたらしい
少し考えるような表情をしたあと、今度は言葉だけではなく森の方を指した
短い言葉を一つ発する
それから結衣を指し、もう一度森へ指を向ける
結衣は相手の指先を追った
「……私があっちから来たのかって聞いてる?」
胸元のAI先生は、先ほど結衣が待つよう頼んだため黙っている
すぐに答えを求めるのではなく、結衣は自分でも考えてみた
相手は森を指したあとに自分を指した
たぶん、どこから来たのか聞いている
絶対とは言えないけれど、それならこちらも仕草で答えられる
「私」
自分を指す
次に、歩いてきた方向へ腕を伸ばした
「あっち」
そのまま人差し指と中指を使って、手のひらの上を歩かせる
「歩いてきたの」
レオルがその動きをじっと見てから、何かを言った
今度は先ほどより少しゆっくりだった
意味までは分からない
それでも、まったく何も伝わっていない感じではなかった
結衣はそこで胸元へ少し顔を寄せた
「AI先生、もういいよ」
『はい』
「今までの会話、分かりそう?」
『翻訳できるだけの情報はありません。ただし複数の発話と、それに伴う動作は記録しています』
「さっき森を指した時の言葉も?」
『はい。同一と推定される音列が二度使用されています。ただし、それが森そのものを示す名詞なのか、方向、移動、質問など別の意味を持つのかは判断できません』
「なるほど……」
結衣は少し感心してしまった
自分なら、森を指して言ったのだから森という意味だろうとすぐ覚えてしまいそうだった
でも違うかもしれない
もっと会話を聞いて、同じ言葉が別の場面でも出てくるか確かめればいい
「じゃあ、勝手に意味決めないで取っといて」
『状況情報と関連付けて記録します』
「お願い」
これなら少しずつ分かるようになるかもしれない
そう思えただけで、意味の分からない言葉に囲まれている不安がほんの少し小さくなった
その時だった
緊張が緩んだからなのか、結衣のお腹が小さく鳴った
「……」
結衣は固まった
森の中では気にならなかったのに、人と向かい合っている時に限って妙にはっきり聞こえた気がする
恐る恐る二人を見る
レオルと目が合った
「……聞こえたよね」
『マイクでは明瞭に――』
「AI先生には聞いてない」
思わず小声で遮りながら、お腹へ手を当てる
頬がじわっと熱くなってくるのが自分でも分かった
朝から何も食べていないのだから仕方ないとは思うものの、初対面の相手の前で鳴らなくてもいいのにと、結衣は少し恥ずかしそうに唇を結んだ
ところがレオルは笑うでもなく、結衣がお腹へ手を置いたのを見ると荷車の方へ向かった
「え?」
何をするのか分からず目で追っていると、荷台に積まれていた荷物の一つから布包みを取り出して戻ってくる
包みを開くと、中には茶色く焼かれた丸いものが入っていた
形だけならパンに見える
「……食べ物?」
結衣が呟くと、レオルはその一つを手に取り、口元へ持っていく仕草をした
それから結衣へ差し出す
「私にくれるの?」
自分を指してみると、レオルが頷いた
思いがけない反応に、結衣はすぐ手を伸ばせなかった
知らない世界で初めて会った人が、自分に食べ物を渡そうとしてくれている
嬉しい
でも何なのか分からないものを、そのまま口へ入れるのは少し怖い
その二つの気持ちの間で迷いながら、結衣は胸元へ視線を落とした
「AI先生、パンに見えるけど……どう思う?」
『外見は穀物等を加工した焼成食品に類似しています。ただし原材料を特定できないため、安全性は判断できません』
「だよね」
レオルを見る
差し出したまま待ってくれている
断っていると思われるのも嫌だったので、結衣は両手でそっと受け取った
「ありがとう」
軽く頭を下げる
意味は分からなくても感謝していることくらい伝わればいいと思った
受け取ったものを鼻へ近づけると、香ばしい匂いがする
余計にお腹が空いてきた
「食べたい……でも怖いな」
『現地人が実際に摂食していることを確認できれば、少なくとも彼らにとって食用である可能性を高める情報になります』
「あ、それなら」
結衣は手元の食べ物を示したあと、レオルの口元へ視線を向け、自分でも食べる仕草をしてみた
レオルは少し不思議そうな顔をしたものの、やがて意図を察したらしく、布包みからもう一つ取り出した
端をちぎり、そのまま口へ入れる
結衣は思わずほっとした顔になった
「食べてる」
『はい』
「少なくとも、この人たちは普通に食べるものなんだね」
『その可能性は高いです。ただし結衣に対しても安全であることを保証するものではありません』
「うん。ちょっとだけにする」
端をほんの少しちぎる
すぐに飲み込まず、まず舌先へ触れさせるように口へ入れた
変な刺激は感じない
噛んでみると、日本で食べていたパンよりかなり硬く、少しぼそぼそしていた
味付けもほとんど感じない
それでも噛んでいるうちに穀物のような素朴な甘みが広がってくる
結衣はゆっくり飲み込んだ
「……おいしい」
声が自然と柔らかくなった
もっと美味しいものなら、日本にいくらでもあったと思う
コンビニへ行けば好きなパンを選べたし、仕事帰りに何となく甘いものを買うことだってできた
けれど今は、この少し硬い食べ物がひどくありがたかった
もう一口だけ食べる
空っぽだった胃に食べ物が入っていく感覚に安心した途端、結衣の目元が少しだけ熱くなった
「……やだ」
泣くほどのことじゃないと思うのに、朝から張り詰めていたものが緩んだせいなのか、勝手に涙が滲んでくる
結衣は恥ずかしそうに顔を少し伏せ、目尻を指先でそっと拭った
「こんなので泣いてたら、この先どうするの私……」
『涙液の分泌自体に問題はありません』
「そういう話じゃないの」
小さく笑う
顔を上げると、レオルがこちらを見ていた
結衣が泣いた理由までは分からないはずなのに、その表情は先ほどより少し柔らかく見えた
結衣は手に持った食べ物を軽く持ち上げて見せ、もう一度頭を下げる
「ありがとう。本当に」
するとレオルが、その食べ物を指しながら短い言葉を発した
結衣は目を瞬かせる
「……今、これのこと言った?」
『食物を指す動作と同時に発話しています』
もう一度聞きたい
結衣は手元の食べ物を指して首を傾げた
「これ?」
レオルが同じ言葉を繰り返した
今度は結衣も口元をよく見る
「パァナ……?」
少し違ったらしい
レオルがゆっくり発音し直してくれる
結衣もその口の動きを真似するように、もう一度声にした
「……パァナ」
今度はレオルが頷いた
「合った?」
思わず嬉しくなって、結衣の顔に笑みが広がった
「AI先生、今の覚えて」
『同一の対象を示しながら類似した音列が複数回使用されました。現時点では、この食品または食品分類を示す語である可能性があります』
「じゃあまだ仮なんだ」
『はい』
「分かった。私も仮で覚える」
結衣は手の中を見る
「パァナ」
この世界へ来て初めて、自分から覚えた現地の言葉だった
たった一つなのに、それが妙に嬉しい
「こうやって増やせばいいんだね」
『はい。発話と状況の組み合わせが増えるほど、推定可能な情報も増加します』
「じゃあ私もちゃんと聞く。全部AI先生任せにしたら、スマホ見れない時に困るし」
『合理的です』
「でしょ?」
少し得意そうに笑ってから、結衣はパァナをもう一口食べた
今度はさっきより安心して味わうことができた
その間に、レオルとガルドが何かを話し始める
二人の会話はまだまったく理解できない
それでも結衣は、ただ分からない音として聞き流さず、二人がどこを見ているのか、何を指しているのかも一緒に見るようにした
やがてガルドが荷車へ向かい、積んでいた荷物を確認し始める
レオルも森の先を指しながら何かを言ったあと、結衣を見る
「……出発するのかな」
『二名が移動準備を開始している可能性があります』
「どこ行くんだろ」
結衣が見ていると、レオルは荷車を指した
次に森の先へ伸びる道らしき場所を示し、最後に結衣へ視線を戻す
手を軽く動かし、こちらへ来るような仕草をした
結衣は一瞬、何を意味しているのか分からず目を瞬かせた
「……私も?」
自分を指す
レオルが頷く
もう一度道の先を指し、それから結衣を招く
「一緒に来いってこと……かな」
『その解釈と整合する行動です。ただし目的地や意図までは判断できません』
「うん」
すぐに嬉しそうについていくことはできなかった
結衣は手元に残ったパァナを見たあと、レオルとガルド、それから荷車のそばにいる馬によく似た大きな生き物へ順番に視線を向けた
食べ物を分けてくれた
今のところ危害を加えようともしていない
だからといって、二人が絶対に安全な人だと分かったわけではない
向かう場所も知らなければ、どれくらい歩くのかも分からない
それでも後ろを振り返れば、自分が歩いてきた森が続いているだけだった
あちらへ戻れば、また一人で水や食べ物を探さなければならない
火を作ることもできたし、水を飲めるところまで持っていくこともできた
それは今でも嬉しいし、自分にも少しはできることがあると分かった
けれど、だから一人で暮らしていけると思えるほど結衣は楽観的ではなかった
「AI先生」
『はい』
「この人たちについていくの、どう思う?」
『安全性を保証することはできません。現在までに確認できた情報では、二名から結衣への明確な敵対行動はなく、食物の提供も確認しています。一方で、二名の身元、目的地、移動時間については不明です』
「……そうだよね」
答えを決めてもらいたかったわけではなかった
分かっていることと分かっていないことを並べてもらうと、自分で考えやすくなる
結衣は少し俯き、手の中に残ったパァナを見つめた
それから顔を上げる
「私、行ってみる」
『了解しました』
「怖くないわけじゃないけど……ここに一人で残る方が嫌」
そう口にすると、自分の中でも気持ちが決まった
結衣はレオルへ向き直ると、自分を指したあと、彼らが進もうとしている道を指す
それから指先で歩く仕草を作り、最後にレオルと自分を交互に示した
「一緒に行く」
レオルは結衣の仕草をしばらく見ていたが、やがて意味が通じたのか、はっきり笑った
初めて見るその笑顔に、結衣もつられるように表情を緩める
「……よかった」
胸の奥に残っていた緊張が、ほんの少しだけほどけた
まだ相手の言葉はほとんど何も分からない
レオルとガルドが何者なのかも、この先に何があるのかも知らない
それでも、朝の草原で目を覚ました時には何一つ持っていないと思っていた自分が、今は名前を知っている人たちの隣に立っている
自分で飲めるようにした水の感覚も、自分で起こした火の温かさも覚えている
そして胸元では、AI先生がこの世界の言葉を少しずつ記録し始めている
ガルドが荷車の状態を確かめると、馬に似た大きな生き物がゆっくり歩き出し、それに引かれて木製の車輪が土の上を転がり始めた
聞き慣れない車輪の軋む音を聞きながら、結衣は残っていたパァナを大切そうに持ち直す
少し先へ進んだレオルが振り返り、結衣へ手招きした
「うん、今行く」
もちろん、その言葉もまだ彼には伝わらない
それでも結衣は自然に返事をして、小走りになりかけた足をすぐ緩めると、二人の後を追って歩き出した
朝からずっと続いていた、自分とAI先生だけの道に、初めて二人分の足音と荷車の音が重なっていた
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