第十話 剣を持つ理由
森の奥で揺れた枝を見た瞬間、結衣は息を止めた
さっきまで聞こえていた鳥に似た鳴き声も、風が葉を擦る音も急に遠くなったように感じる
実際に森が静かになったわけではない
ただ、目の前で剣を抜いたガルドの背中を見たことで、結衣の意識がそこへ集中してしまっていた
ガルドは動かない
右手に剣を持ち、身体をわずかに斜めへ向けたまま、枝が揺れた場所を見ている
結衣には何がいるのか見えなかった
それなのにガルドには、もう何か分かっているように見えた
「AI先生……まだ見えない?」
声を小さくする
『明確な個体識別には至っていません。右前方の植生内で移動を継続している物体があります』
「近づいてる?」
『先ほどより推定距離は短くなっています』
それを聞いた途端、結衣は荷車の陰へもう少し身体を寄せたくなった
けれどガルドから言われた言葉を思い出す
ステイ
たぶん、止まれ
勝手に動いて邪魔になる方が怖い
結衣は足をその場に留めたまま、せめて周囲を見るためにゆっくり顔を動かした
レオルは荷車の前方に立っている
先ほど火を生み出した右手には淡い光が集まっていたが、すぐに炎を出す様子はない
いつでも何かできるように準備しているのだろうか
そう考えた時、茂みの奥から低い音が聞こえた
唸り声だった
「……っ」
結衣の肩が小さく跳ねる
馬に似たエルガも反応し、首を上げて短く息を鳴らした
ガルドが何かを言う
レオルがすぐに返した
「AI先生、今の分かる?」
『発話内容は推定できません。ただし両名の声量と行動から、警戒状態が継続していると判断できます』
「だよね……」
意味を知りたい
でも今は言葉を覚えることより、目の前で何が起きるのかを見る方が先だった
茂みがもう一度揺れる
今度は結衣にも見えた
葉の隙間から灰色がかった何かが動いている
「いる」
『確認しました』
四本の脚
低い姿勢
結衣が最初に草原で見た小さな兎のような生き物とは明らかに違う
もっと大きい
ガルドの腰ほどまでありそうな背丈で、身体は灰褐色の硬そうな毛に覆われている
頭の形は犬にも狼にも似ていたが、鼻先はそれらより短く、額から後頭部にかけて黒い突起のようなものがいくつも並んでいた
そして口が開いた瞬間、結衣は思わず一歩下がりそうになった
牙が見えた
上顎から伸びた二本だけが異様に長い
「……あれ、絶対近づいちゃ駄目なやつだよね」
『外見のみから危険性を断定することはできませんが、対象は牙を有し、現在威嚇と解釈可能な発声を行っています』
「十分怖いよ」
声が少し震えた
その生き物が茂みから道へ出る
さらに一頭
結衣の表情が固まった
「二匹いる」
『二個体を確認しました』
ガルドは後ろへ下がらない
むしろ荷車から少し離れるように前へ出た
「え、行くの?」
結衣には理解できなかった
二頭もいる
逃げた方がいいのではないかと思う
けれど荷車がある
エルガもいる
森の道で大きな荷車をすぐ反転させることもできない
ガルドが前へ出る理由に気づいた瞬間、結衣は唇を結んだ
「……守るため?」
『行動意図は断定できません』
「でも、たぶんそうだよね」
ガルドが短く何かを叫んだ
レオルが荷車の反対側へ移動する
結衣には言葉が分からなくても、二人が何度もこういう状況を経験していることだけは伝わってきた
迷いがない
誰がどこに立つのかを相談している様子すらなかった
最初の一頭が地面を蹴った
「来る!」
結衣が叫ぶより早く、ガルドが動いた
真正面からぶつかるのだと思った
けれど違った
生き物が飛びかかった瞬間、ガルドは身体を半歩だけ横へずらした
大きく避けたわけではない
牙が服のすぐ横を通り過ぎるほど近い
結衣なら怖くて数歩どころか全力で逃げている
それなのにガルドは必要な分しか動かなかった
身体がすれ違う瞬間、剣が下から斜めへ走る
結衣には、いつ振ったのかほとんど分からなかった
金属が何かへ当たる鈍い音が響き、生き物の身体が地面へ崩れる
「……え」
結衣の声が漏れた
一撃だった
けれど驚いている暇はない
二頭目が横から走り込んでくる
「ガルド!」
名前を叫んだ
意味もなく手を伸ばしかける
ガルドはすでに気づいていた
振り終えた剣を無理に戻そうとはせず、その勢いのまま身体を回す
二頭目の牙を剣で受けた
甲高い音が響く
「っ……!」
結衣は反射的に目を細めた
力で押し合うのかと思った
ところがガルドは剣を押し返さない
相手の頭が前へ流れる方向へ刃を滑らせ、自分の身体を反対へずらす
体勢を崩した生き物の横へ回った時には、もう剣が振り上げられていた
二度目の音は短かった
灰褐色の身体が地面へ倒れる
そのまま少し滑り、動かなくなった
「……」
結衣は何も言えなかった
怖かった
目の前で生き物が倒れたことも、それを人が剣で斬ったことも、日本で暮らしていた結衣には現実感がなかった
映像ではない
ゲームでもない
数メートル先で本当に起きたことだった
胸の奥が気持ち悪くなり、結衣は無意識に口元へ手を当てた
「……死んだの?」
『少なくとも二個体とも自発的な移動は確認できません』
それ以上は聞かなかった
知りたくないわけではない
ただ今は、聞けばもっと現実になってしまいそうだった
ガルドはすぐに剣を収めなかった
倒れた二頭を見ながら距離を取り、周囲へ視線を巡らせる
レオルも光を宿した手を下ろしていない
戦いが終わったように見えても、二人はまだ警戒していた
その姿を見て、結衣も周囲を確認する
「AI先生、他に動いてるものない?」
『現在確認します』
胸元のカメラが向くように、結衣はゆっくり身体を動かした
右側の森から道の奥へ視線を移し、さらに左側まで確認する
『現在の映像範囲では、同程度の大型移動体は確認できません』
「音は?」
『先ほどと同種と推定可能な唸り声は現在検出していません』
「そっか……」
結衣はようやく少し息を吐いた
そこでガルドが振り返った
目が合う
ガルドは結衣へ向かって何かを言った
「……ごめん、分かんない」
まだ緊張が抜けず、結衣の声も小さい
するとガルドが剣を持っていない左手を見せ、ゆっくり下へ向けた
もう一度同じ言葉を言う
レオルもこちらを見ながら似た言葉を続けた
「もしかして……大丈夫?」
『状況から、危険の終了または安全を伝えている可能性があります』
結衣は胸元を押さえたまま、小さく頷いた
「……うん」
意味が完全に分かったわけではない
でも少しだけ肩の力が抜けた
ガルドはそれを確認すると、ようやく剣へ付着したものを草で拭い始めた
結衣はその姿を見つめる
さっきまで、ガルドの腰にある剣が怖かった
初対面の人が武器を持っているというだけで警戒していた
今も剣そのものが怖くなくなったわけではない
ただ、なぜ持っているのかは分かった気がした
「……必要なんだね」
『何がでしょうか』
「剣」
結衣は倒れている生き物を見るのを避けながら答えた
「こういうのがいるなら、持って歩くよね」
『この地域における危険生物の出現頻度は不明です』
「うん。でも少なくとも、今日一回は出た」
自分だったらどうなっていただろう
AI先生が危険を教えてくれたとしても、あの速さで襲われたら逃げ切れたか分からない
知っていることと、対処できることは違う
その当たり前のことを、結衣は目の前で思い知らされた
「AI先生が教えてくれても、私じゃあれ倒せないよね」
『現在把握している結衣の身体能力と装備では、同様の方法による対処は推奨できません』
「だよね」
落ち込むというより、妙に納得した
AI先生がいれば何でもできるわけではない
火を作る時だって、最後に手を動かしたのは自分だった
水を運び、石を熱し、飲めるところまで持っていったのも自分だった
AI先生は方法を考えてくれるけれど、実際に身体を動かす部分までは代わってくれない
そして今目の前にいるガルドには、自分が持っていない技術がある
「……すごい人だったんだ」
結衣が小さく呟くと、
『ガルドが戦闘行動に習熟している可能性は高いと判断できます』
「最初、怖い人なのかなって思ってた」
『現在も人物の性格について判断するための情報は限定的です』
「そうだけど」
結衣は少し笑った
「少なくとも、私よりずっと頼りになる」
その時、ガルドがこちらへ歩いてきた
結衣は反射的に背筋を伸ばした
さっきの戦いを見た直後だからか、最初に会った時より大きく見える
ガルドは何かを言うと、自分の剣を指した
「え?」
次に倒れている生き物を指す
そして剣を振るような仕草をした
「……剣?」
結衣も鞘に収められた武器を指してみる
ガルドが一言発した
「セルド」
「セルド?」
もう一度、剣を指す
「セルド」
結衣の表情が少し明るくなる
「あ、これの名前?」
『対象を指しながら同一音列が反復されています。剣または武器を意味する語である可能性があります』
「セルド」
結衣は覚えるように繰り返した
ガルドが頷く
さっきまで恐怖の対象だったものに、名前がついた
それだけで少し印象が変わる
結衣は剣を指したあと、今度はガルドを指し、それから剣を振るような仕草をした
「ガルド、セルド……」
どう言えば「強い」になるのか分からない
少し考えてから、結衣は両腕で力こぶを作るような仕草をしてみた
「強い」
ガルドが怪訝そうな顔をした
「伝わらないか」
結衣はもう一度剣を振る真似をしてから、倒れている生き物を指し、最後に親指を立てた
今度は分かったらしい
ガルドが口元をわずかに緩めた
そして短い言葉を言う
「ヴァル」
「ヴァル?」
ガルドは自分の腕を軽く叩き、もう一度、
「ヴァル」
結衣は目を輝かせた
「強いって意味?」
『その可能性がありますが、力、強さ、戦士など複数の候補が考えられます』
「じゃあ仮で」
結衣はガルドを指した
「ガルド、ヴァル」
ガルドが笑った
どうやら少なくとも悪い意味ではなかったらしい
結衣もつられて笑う
「通じたっぽい」
『肯定的反応を確認しました』
レオルも近づいてくる
倒れた生き物を指して、何かを言った
聞き覚えのない音だった
結衣はすぐに胸元へ手を添える
「AI先生、今の」
『記録しました』
結衣はレオルへ向き直り、生き物を指す
「もう一回」
指で一を作り、口元へ手を当ててから生き物を示す
伝わったのか、レオルが先ほどと同じ言葉をゆっくり発音した
「グラウ」
「……グラウ」
結衣も繰り返す
レオルが頷いた
「これがグラウ?」
『この生物を示す呼称である可能性が高まりました』
「覚えた」
できれば次に会いたくない言葉だった
それでも、もしまた森の中でレオルたちが「グラウ」と叫んだら、今度は何がいるのか分かる
それは大きな違いだった
ガルドが倒した二頭の処理を始める間、結衣は少し離れたところで待つことにした
近くで見る勇気はまだない
レオルもそれに気づいたのか、結衣へ無理に近づくよう促すことはなかった
代わりに荷車のそばへ戻り、革袋を持ち上げる
「アクァ」
その言葉が聞こえた瞬間、結衣は意味を理解できた
「あ、水」
昨日までならただの知らない音だった
今は違う
「アクァ」
結衣が答えると、レオルが革袋を差し出してきた
受け取りながら、結衣は少し驚いた顔になった
「AI先生」
『はい』
「今、考える前に分かった」
『「アクァ」と飲料水の関連付けが定着し始めている可能性があります』
「……なんか嬉しい」
革袋から少し水を飲む
さっきまで怖くて乾いていた喉が潤っていく
袋を返す時、結衣はふと思った
ありがとう
これをまだ知らない
何度も食べ物や水をもらっているのに、そのたび日本語で言っているだけだった
「ねえレオル」
名前を呼ぶと、レオルがこちらを見る
結衣は革袋を受け取る仕草をもう一度してみせ、それから頭を軽く下げた
「ありがとうって、なんて言うの?」
もちろん、その質問自体は伝わらない
だからもう一度袋を指し、自分を指して、胸元へ両手を重ねる
最後に柔らかく笑って頭を下げた
「ありがとう」
レオルはしばらく結衣を見ていた
やがて意味を理解したらしく、表情が変わる
ゆっくりと一つの言葉を教えてくれた
「セラ」
「……セラ?」
結衣は首を傾げた
聞き覚えがある
「待って」
空を指す
「セラ?」
レオルが一瞬きょとんとしたあと、空を見上げた
それから何かを言い直す
今度は発音が少し違って聞こえた
「セーラ」
「あ」
結衣は目を瞬かせる
「違うんだ」
『音響解析上、空を示した際の発話と、現在の発話には母音長およびアクセント位置と推定される差異があります』
「私にはほとんど同じに聞こえた……」
結衣は思わず困ったように笑った
単語を覚えればいいだけだと思っていたけれど、発音まで違えば意味が変わるらしい
「もう一回お願い」
結衣が感謝の仕草をすると、
「セーラ」
とレオルがゆっくり言う
「セーラ」
レオルが頷く
結衣は嬉しそうに笑った
「セーラ」
今度は革袋を返しながら使ってみる
「レオル、セーラ」
レオルの表情が柔らかくなる
通じた
その瞬間、結衣の中で新しい言葉がただの音ではなくなった
「AI先生、覚えた」
『はい』
「今度からちゃんと言える」
ガルドが戻ってくる
結衣は少し迷ったあと、彼にも覚えたばかりの言葉を使ってみたくなった
何に対してありがとうなのか考え、さっき自分たちを守ってくれたことを思い出す
ガルドを指し、次に剣を指す
グラウがいた方向へ視線を向け、最後に胸へ手を置いた
「ガルド」
ガルドが見る
結衣は少しだけ照れくさそうに笑った
「セーラ」
ガルドは一瞬黙った
それから、ほんの少しだけ頷いた
その反応を見て、結衣の笑顔がもう少し大きくなる
まだ会話なんて呼べるほどではない
伝えたいことのほとんどは伝えられず、相手が話す言葉もほとんど理解できない
それでも水が欲しければアクァが分かる
進む時にはイラが聞き取れる
止まれと言われればステイに反応できる
危険な生き物にはグラウという名前があり、ガルドが腰に下げているものはセルドと呼ばれているらしい
そして誰かに何かをしてもらった時には、もう日本語だけで頭を下げる必要はない
セーラと言えば、少なくとも気持ちは届く
ガルドが荷車へ戻り、レオルも出発の準備を始めた
やがてレオルが道の先を指す
「イラ」
今度は結衣も迷わなかった
「うん、イラ」
意味が分かって返事をした結衣を見て、レオルが少し驚いたように笑う
その顔を見た結衣も嬉しくなり、軽い足取りで荷車の横へ並んだ
森はまだ続いている
人里がどこにあるのかも分からない
それでも結衣の中には、昨日まで存在しなかったこの世界の言葉が少しずつ居場所を作り始めていた
知らない世界そのものを一度に理解することはできなくても、目の前にあるものへ一つずつ名前をつけていけばいい
分からない時は聞いて、AI先生と一緒に考え、間違っていたら覚え直せばいい
そう思えるようになっただけで、前へ続く森の道は、最初に一人で歩いていた時より少しだけ怖くなくなっていた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
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