第十一話 言葉が少しずつ聞こえてくる
荷車が再び森の道を進み始めても、結衣の頭にはさっきの光景がまだ鮮明に残っていた
茂みから飛び出してきたグラウの速さも、その口から覗いていた長い牙も怖かったけれど、一番忘れられないのはガルドの動きだった
大きく飛び退いたわけでも、力任せに剣を振り回したわけでもない
襲いかかってくる相手をぎりぎりまで見て、ほんの少し身体をずらし、すれ違う一瞬で剣を振るった
二頭目に横から襲われた時もそうだった
真正面から力で押し返すのではなく、相手の勢いを流すようにして体勢を崩し、そのまま仕留めていた
今はもう剣を鞘へ戻し、何事もなかったように荷車の少し前を歩いている
けれど結衣には、その腰で揺れている剣が出会った時とはまるで違うものに見えていた
「AI先生」
『はい』
「あれってさ、私でも練習したら使えるようになるのかな」
『剣についてでしょうか』
「うん。ガルドみたいにっていうのは無理かもしれないけど……自分の身くらい守れたらいいなって」
そう言いながら、自分が剣を持っている姿を想像してみる
薄いピンク色のパジャマ姿で剣を構えている自分しか浮かばず、結衣は思わず眉を寄せた
「……今は絶対似合わないけど」
『外見上の適合性と武器操作能力に直接的な関係はありません』
「そういう意味じゃないの」
思わず小さく笑う
こうしてAI先生へ突っ込めるくらいには、さっきまでの緊張も少しずつ薄れてきていた
『適切な訓練を受ければ、現在より武器を扱う能力を向上させることは可能と考えられます。ただし、ガルドと同程度の技量へ到達可能かどうかは判断できません』
「それは分かってるよ」
結衣はガルドの背中を見る
「でも、ちょっと習ってみたいな」
もしまた一人になった時、グラウのような生き物と出会わない保証はない
AI先生が先に危険を見つけてくれたとしても、逃げられない状況になれば最後に自分を守るのは自分の身体になる
そのことは、さっき嫌というほど分かった
「ガルドに教えてもらえないかな」
『本人の意思を確認する必要があります』
「それができないんだよね」
結衣は困ったように笑った
「剣は分かるけど、教えてくださいが分かんないもん」
結局そこへ戻ってしまう
けれど、今朝のような絶望感はなかった
何も分からなかったところから、水や火、木や道の名前を知り、行く、止まるといった簡単な言葉も分かるようになった
ありがとうも言える
なら、教えてほしいという言葉だって、いつか分かるはずだった
そんなことを考えながら歩いていると、前を進んでいたレオルがエルガへ何か声をかけた
「イエ、ゆっくり行け」
結衣は顔を上げた
全部が分かったわけではない
それでも、もう「行け」という意味を頭の中で日本語へ置き換える必要はなかった
聞いた瞬間に、進むことを指していると分かる
その直前に入った「ゆっくり」らしい言葉も、エルガの歩調が落ちたことでなんとなく意味を想像できた
ただ、一番最初の「イエ」だけは分からない
「AI先生、今のイエって何だろ」
『現時点では特定できません』
「エルガの名前とか?」
『その可能性もあります。呼びかけ、命令を強調する語、あるいは別の意味を持つ可能性も否定できません』
「じゃあ覚えといて」
『記録しました』
分からないなら、今はそれでいい
以前なら意味を知りたくて仕方なかったと思う
けれど同じ言葉をまた聞けば、その時の状況と比べられる
結衣自身も、少しずつそのやり方に慣れてきていた
しばらく進むと、道の先に太い木が横倒しになっているのが見えてきた
幹が道の半分近くを塞いでいる
ガルドが先に進んで周囲を確認し、レオルが荷車を止めた
結衣も足を止める
ガルドは倒木の右側へ回り込み、少し先まで進んでから戻ってきた
「右からなら通れる」
短い言葉だった
結衣は意味をすべて理解したわけではない
けれどガルドが右側を指したことと、すぐにレオルが荷車をそちらへ向け始めたことで、何を言ったのかはほとんど分かった
「今の、たぶん右から通れるって言ったよね」
『行動とは整合します』
「こういうのなら、知らない言葉があっても結構分かるね」
『非言語情報は言語解析において有効な補助情報です』
「私にもね」
結衣は少し得意そうに言ってから、動き始めた荷車についていった
倒木を避けるために道から外れた途端、足元の感触が変わった
靴底が柔らかい土へ少し沈む
「わっ」
慌てて足を引こうとしたところで、前を歩いていたガルドが振り返った
結衣の足元を見てから、自分のすぐ横にある少し乾いた地面を指す
「エラ、そこを踏め」
「エラ?」
聞いたことのない言葉だった
けれど「そこを踏め」はなんとなく分かる
結衣は言われた場所へ足を置いた
今度はほとんど沈まない
「あ、ほんとだ」
ガルドがもう一か所を指す
「エラ」
また同じ言葉だ
結衣はそこへ足を置きながら、首を傾げた
「AI先生、エラって何?」
『二例とも、ガルドは比較的乾燥した足場を指示しています』
「じゃあ乾いてる場所とか?」
『可能性はありますが、二例では不足しています』
「そっか」
泥を抜けたところで、結衣は振り返った
「ありがとう」
今度は迷わず言えた
ガルドが軽く手を上げる
そして、
「気をつけろ、エラは滑る」
と足元を指した
「……ん?」
結衣はもう一度地面を見る
さっきまで自分がエラだと思っていた乾いた場所ではなく、ガルドが指しているのは泥だった
「待って、違うじゃん」
『先ほどの仮説と矛盾します』
「エラって乾いた場所じゃない?」
『その可能性は低下しました』
結衣は少し考える
ガルドは最初、泥へ足を入れかけた自分にエラと言ってから安全な場所を指した
つまり、指していたものではなく――
「あ」
結衣は振り返る
「危ない、とか?」
『その解釈であれば三例の状況と整合する可能性があります』
「じゃあエラは危ない?」
『暫定的に登録します』
「なるほど……」
結衣は泥を見ながら、覚えるようにもう一度だけ口にする
「エラ」
今度はガルドにも聞こえたらしい
彼が泥を指して頷いた
「エラ」
「やっぱり!」
思わず嬉しそうな声が出た
意味が分かったことが嬉しくて笑う結衣を見て、ガルドは少し怪訝そうな顔をした
危ないと言われて喜んでいるように見えたのかもしれない
「違うの、危ないのが嬉しいんじゃなくて、分かったのが嬉しいの」
もちろん説明は伝わらない
それでも結衣が泥を避けて歩き始めたことで、少なくとも警告そのものは理解したと思ってくれたらしく、ガルドは再び前へ向き直った
結衣はその背中を追いながら、胸元へ小さく話しかける
「AI先生、これで次からエラって聞いたら分かるね」
『今後の用例と矛盾しなければ、危険または注意を促す語として扱えます』
「じゃあ次からは普通に危ないって聞こえることにする」
『了解しました』
こうやって一つずつ、この世界の音が意味へ変わっていく
それが結衣には面白かった
知らない言葉を丸暗記している感覚とは少し違う
出来事と一緒に覚えているから、泥を見ればエラを思い出すし、水を見ればもう現地語の音より先に意味が浮かぶ
荷車が元の道へ戻る
結衣も後を追いながら、泥のついたスニーカーをちらりと見た
「汚れちゃったなぁ」
つま先を軽く振っても、当然落ちない
日本にいた頃なら気になっていたと思う
今は、この靴があること自体がありがたかった
もし本当にパジャマだけでこの世界へ来ていたら、草原を歩くところから苦労していたはずだ
「帰れたらちゃんと洗わないと」
何気なく口にしてから、結衣の歩調がほんの少しだけ鈍った
帰れたら
東京の部屋が頭に浮かぶ
ベッドも、仕事へ行くための服も、スマートフォンの充電器も、昨日まで何とも思っていなかったものばかりだった
戻れるのかは分からない
どうしてここにいるのかさえ分からないのだから、帰り方なんて考えようもない
胸の奥が少し重くなり、結衣は唇を結んだ
けれど、そのまま考え続けるのはやめた
答えのないことを考えて怖くなるより、今できることを増やした方がいい
結衣は前を向き直る
「AI先生」
『はい』
「次、何覚えたら便利かな」
『肯定と否定に相当する表現は有用です』
「あ、それまだ知らない」
今までは頷いたり首を振ったりしていたから困らなかったけれど、言葉でも使えれば会話はかなり楽になる
問題は、どうやって聞くかだった
「はいって何ですか、が聞けないもんね」
『状況から収集する方法が現実的です』
「だよね」
結衣は周囲を見る
ちょうど道の脇に木があった
これならすでに名前を知っている
結衣はレオルの隣まで少し近づき、その木を指した
「木?」
レオルも木を見る
「イエ、木だ」
「……イエ?」
結衣の目が少し大きくなる
さっきエルガへ声をかけた時にも聞いた音だ
あの時は意味が分からなかった
今度は頷きながら使っている
「AI先生、今の」
『記録しています』
結衣はもう一度試す
今度は空を指した
「空?」
「イエ」
レオルが頷く
結衣の口元が緩んだ
「もしかして、はい?」
『肯定表現である可能性が高まりました』
「あ、だからさっきも」
結衣は前を歩くエルガを見る
レオルがエルガへ「イエ、ゆっくり行け」と声をかけていた
「はい、だと変じゃない?」
『同一音列に複数の用法が存在する可能性があります。また、結衣が最初の発話を正確に聞き取れていなかった可能性もあります』
「そっか。似た音だっただけかもしれないんだ」
結衣は納得して、今度はわざと地面を指す
「水?」
レオルがすぐ首を横へ振った
「ネア、地面だ」
「ネア」
今度は明らかに違う音だった
結衣は地面を指したまま、もう一度確認する
「水?」
「ネア」
「じゃあ木?」
「ネア」
レオルが笑いながら地面を指した
「地面」
「分かった」
結衣も笑う
「イエが『はい』で、ネアが『いいえ』っぽい」
『現在までの用例では、その解釈と整合します』
「じゃあ試すよ」
結衣はレオルを指した
「レオル?」
「イエ」
次にガルドを指す
「レオル?」
「ネア」
今度は結衣が嬉しそうに笑った
「よし、覚えた」
それからは、もうイエとネアを頭の中で何度も唱えなかった
一度意味がしっかり結びつくと、不思議なくらい自然に理解できる
少し経ってレオルが何かを確認してきた時、結衣は聞き取れた部分から質問だと判断し、
「はい」
と現地語で答えた
自分の中では、もうイエという音を意識していなかった
口から出たのは現地の言葉なのに、頭の中ではただ「はい」と答えた感覚しかない
「……なんか不思議」
『何がでしょうか』
「覚える前は全然違う音だったのに、意味が分かると普通に言葉に聞こえる」
『言語理解では音韻情報と意味情報の関連付けが形成されます』
「難しい説明はいいけど、ちょっと楽しい」
結衣はそう言って笑った
最初は何を話しかけられても怖かった
相手の表情と声の調子から想像するしかなく、自分の名前を伝えるだけでも緊張した
それが今では、ほんの少しずつ相手の言葉の中に意味が見えるようになっている
その後も結衣は、無理に単語を増やそうとはしなかった
レオルとガルドが話していれば耳を傾け、知っている言葉があれば自然に意味を拾う
分からない言葉が出ても、重要そうでなければそのまま流した
全部を理解しようとすると、歩いているだけでも頭が疲れてしまう
AI先生が記録してくれているのだから、必要になった時に確認すればいい
そんなふうに考えられるようになったのも、結衣にとっては大きな変化だった
道は次第に上り坂になっていった
荷車を引くエルガの歩調も少し遅くなり、結衣も額へ薄く汗をかき始める
「まだ歩くのかなぁ……」
朝からどれくらい歩いたのか、正確にはもう分からない
水を確保した時には一度休んだものの、その後もかなり移動している
結衣は少し迷った末、レオルの横へ近づいた
「レオル」
振り向いてくれる
結衣は道の先を指した
「このまま行く?」
「はい、このままナールまで行く」
「ナール?」
知らない言葉が一つだけ残った
でも、それ以外は分かる
「AI先生、ナール」
『記録しました。目的地、地名、施設名などの可能性があります』
「そこまで行くってことだよね」
『発話からはその可能性が高いと判断できます』
なら、次はナールがどこなのか知りたい
結衣は道の先を指し、それから少し歩く仕草をしてみせた
「ナール、近い?」
近いという単語が現地語で合っているのかは分からないので、両手の間隔を狭くしてみせる
レオルは少し考えたあと、空を指した
結衣も見上げる
太陽はまだ高い
レオルは現在の位置を示してから、指をゆっくり横へ動かし、少し低い位置で止めた
「ナール」
「ああ……」
結衣にも分かった
「太陽がそこまで動くくらい?」
指で歩く仕草をすると、レオルが頷く
「はい」
「まだ結構あるんだ……」
思わず肩が落ちる
レオルが笑った
「なに笑ってるの」
言葉は伝わらなくても、結衣が疲れているのは伝わったらしい
レオルは荷車の後ろを指して何か言った
今度は知らない言葉が多かった
結衣は首を傾げる
「ごめん、分かんない」
するとレオルは荷台を軽く叩き、そこへ座るような仕草をした
「あ、乗っていいってこと?」
レオルが頷く
「はい」
「え、いいの?」
もう一度聞くと、また頷いた
結衣は少し迷った
歩けないほど疲れているわけではない
でも足は確実に重くなっている
それに荷車へ乗れば、少し休みながらレオルたちの会話を聞ける
「じゃあ……ちょっとだけ」
「ありがとう」
そう言って荷台へ手をかけたものの、思っていたより高さがあった
「んっ……」
一度足をかけて身体を持ち上げようとする
パジャマの裾が引っかかりそうになって慌てて押さえ、もう一度挑戦する
「待って、これ意外と高い……」
横から手が伸びてきた
ガルドだった
「え」
差し出された手を見る
少し迷ってから、その手を握る
「ありがとう」
引き上げてもらい、ようやく荷台へ腰を下ろした
木の板は硬かったけれど、歩き続けるよりずっと楽だった
結衣は足を荷台の内側へ収め、ほっと息を吐く
「楽……」
『休息を取ることは疲労軽減に有効です』
「それは知ってる」
結衣は小さく笑い、荷車の前方を見る
レオルが手綱を持ち、ガルドがその横を歩いている
こうして後ろから見ると、二人の役割も少し違って見えた
レオルはエルガや荷車をよく気にしている
ガルドは道よりも森を見ることが多い
さっきグラウが現れた時も、最初に異変へ気づいたのはガルドだった
「商人と護衛……みたいな感じなのかな」
『可能性はありますが、職業は確認できていません』
「まだ決めつけない方がいいか」
『はい』
「そのうち聞けるようになったら聞こう」
結衣は荷台で膝を軽く抱えながら、流れていく森を眺めた
歩いている時より視線に余裕ができる
木々の間から差し込む光も、風に揺れる葉も、朝に一人で見ていた時とは少し違って感じられた
世界が安全になったわけではない
グラウのような生き物がいることも知った
それでも今は一人ではない
前には剣を扱えるガルドがいて、レオルも不思議な火を使える
胸元にはAI先生がいる
そして自分も、何もできないままではなくなってきている
水を飲めるようにした
火を作った
歩き方を覚えた
現地の人と出会い、少しだけ言葉も分かるようになった
そう考えると、結衣はほんの少しだけ胸を張りたくなった
「私、結構頑張ってるよね」
『はい。異なる環境下で複数の課題へ対応しています』
「そこは普通に頑張ってるでいいのに」
『頑張っています』
「よし」
満足して笑ったところで、前を歩いていたガルドが突然足を止めた
レオルもすぐに手綱を引く
荷車がゆっくり止まり、結衣の身体が少し前へ揺れた
「どうしたの?」
ガルドは剣へ手をかけていない
その代わり、顔を上げて森の先へ耳を澄ませている
レオルも同じ方向を見ていた
結衣はさっき覚えたばかりの危険という意味を思い出し、少し緊張しながら尋ねる
「危ない?」
ガルドは結衣を見ると首を横へ振った
「いいえ」
「……よかった」
それならグラウではなさそうだ
「AI先生、何か聞こえる?」
『周辺音を解析します』
結衣も黙って耳を澄ませた
風に揺れる葉の音に混じって、森の奥から一定の間隔で乾いた音が聞こえてくる
カン
少し間が空いて、またカンと響く
石同士をぶつけた音とは違う
もっと硬く、高い
「金属……?」
『金属同士の接触音である可能性があります。ただし断定できません』
その音は一度だけではなかった
何度も繰り返されている
しかも、進行方向から聞こえていた
ガルドがレオルへ何か話す
二人の会話にはまだ知らない言葉が多く、結衣には内容までは分からなかった
それでも声に切迫した様子はない
しばらく話したあと、レオルが頷いた
そして荷台の結衣を見る
「このままナールへ行く、分かった?」
今度はほとんど分かった
ナールだけはまだ何を指しているのか確定していない
それでも目的地らしいことは想像できる
結衣はAI先生へ意味を確認しなかった
自分で頷く
「うん、分かった」
レオルにも肯定の言葉は伝わったらしく、そのまま前へ向き直った
手綱が軽く動き、荷車が再び進み始める
カン
また音がする
今度はさっきより少し近い
結衣は荷台の縁へ手を置き、木々の向こうを覗き込んだ
「ナールって、あの音と関係あるのかな」
『現時点では判断できません』
「じゃあ行けば分かるね」
『はい』
結衣は少しだけ緊張しながらも、今度は知らないものが待っていることを怖いだけとは感じなかった
分からなければ見ればいい
見ても分からなければ聞けばいい
言葉が通じなければ、身振りを使って、AI先生と一緒に考えればいい
そうやって今日だけでも、できることは少しずつ増えてきた
森の奥から響く乾いた音が、また一つ近づく
結衣はその方向を見つめたまま、今度は自分から荷車を降りようとはせず、レオルとガルドが進んでいく先を静かに見守っていた
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