第四話 知っているだけじゃ足りません
川辺にしゃがみ込んだ結衣は、目の前を流れていく水を眺めながら、乾いた唇を舌先で軽く湿らせた
水そのものはすぐそこにあるのに、そのまま飲むのは怖い
それでも、この先探索するのに、喉が渇いたまま歩き続けるわけにもいかなかった
「AI先生、先に水どうにかしよ」
『はい。水分補給を優先することを推奨します』
「ここからまた歩くかもしれないしね」
結衣は川の流れへ目を向けた
上流を確認しながらここまで移動してきた範囲では、目立った汚染源らしいものは見つかっていない
それでも見えないものまで安全になったわけではないのだから、飲むなら加熱したい
問題は、そのための道具が何もないことだった
「まず火だね」
『はい』
「やってみよっか」
仕組みそのものは以前に聞いたことがある
ただ、知っていることと実際にできることは別だった
「私、本当にやったことないから、そこはちゃんと見ててね」
『了解しました。まず乾燥した火口と、火を育てるための燃料を確保します』
「火口って最初に火を移すやつだよね」
『はい』
「じゃあ探そ」
結衣は立ち上がると、周囲にある枯れ草へ目を向けた
適当に掴むのではなく、候補を見つけるたびに胸元のカメラへ映し、AI先生にも確認してもらう
「これは?」
『地面に近い部分が湿っている可能性があります』
「じゃあこっち」
少し離れた木の根元には、枝葉に守られていたのか、指で揉むと簡単に崩れるほど乾いた枯れ草が溜まっていた
「こっちは乾いてる」
『先ほどのものより適しています』
「よし」
枯れ草を集め、その次は細い枝を探していく
拾った枝を全部同じ場所へ置こうとすると、AI先生から太さごとに分けておいた方が火を育てやすいと言われ、結衣は素直に小さな山を作った
「なんか準備だけで結構あるね」
『小さな火種から炎を維持できる状態へ移行するには、燃えやすさの異なる材料を順番に使用する必要があります』
「火ってつけたら終わりだと思ってた」
実際にやってみると知らないことばかりだった
けれど、今はそれが嫌ではない
何を集めればいいのか聞き、自分で探し、使えるか確かめながら一つずつ揃えていくと、ただの枯れ草や枝だったものが少しずつ意味のあるものへ変わっていく
やがて材料が揃うと、結衣は地面へ座り込んだ
「これでやるんだよね」
『はい。木片を固定し、棒を押し当てながら回転させます』
「やってみる」
両手で棒を挟み、木片へ押しつける
手のひらを前後へ動かすと棒が回り始めた
「こんな感じ?」
『もう少し下方向へ圧力を加えてください』
「こう?」
『はい。ただし棒が左へ傾いています』
「あ、本当だ」
姿勢を直してもう一度始める
ところが、下へ強く押そうとすると回転が遅くなり、速く回そうとすれば今度は棒がぶれる
「待って、これ思ってたより難しい」
『まず速度より安定を優先してください』
「分かった」
言われた通り少し速度を落とし、棒の先端が同じ位置から外れないよう意識する
しばらく続けると木の表面に黒っぽい粉が溜まり始めた
「あ、黒くなってきた」
『摩擦によって削れた木粉です』
「これが熱くなればいいんだよね」
『はい』
「じゃあもう少し」
結衣は手を動かし続けた
しかし、いくら回しても煙は出ない
それどころか先に手のひらが熱を持ち始めた
「痛っ」
思わず棒を離す
『手の状態を確認してください』
「大丈夫、ちょっと赤くなっただけ」
両手を開いて見る
怪我というほどではないものの、同じところが擦れてひりひりしている
「これ、火がつく前に私の手が駄目になりそう」
『休憩を推奨します』
「ちょっと休んでもう一回やる」
水を飲むためなのだから、簡単には諦めたくなかった
少し手を休ませてから、今度は姿勢を変えて挑戦する
最初よりは棒が安定するようになった
それでも火種はできない
休んでは試し、角度を変えてまた試し、それでも駄目で、四回目が終わった頃には、結衣はとうとう棒を地面へ置いた
「……無理」
『これ以上継続すると手のひらを損傷する可能性があります』
「うん、これは一回やめよ」
悔しかった
AI先生にやり方を教えてもらえば簡単にできるような気がしていたのに、身体を使うことは知識だけではどうにもならない
結衣は赤くなった手のひらへ息を吹きかけながら、木にもたれた
「ライターってすごかったんだね」
『少ない操作で安定した着火が可能な道具です』
「今まで百円くらいで買えるものだと思ってた」
何となく空を見上げる
木々の隙間からは強い日差しが降り注いでいて、川の水面がきらきらと反射している
これだけ暑いのだから、この熱を使えればいいのにと思ったところで、結衣はふと昔見たものを思い出した
「……虫眼鏡」
『はい』
「虫眼鏡って太陽で火つけられるよね?」
『条件が整えば可能です』
「でも持ってないんだよね」
そこまで言ってから、結衣は川を見た
「ねえ、水って虫眼鏡みたいにできない?」
『水をレンズとして利用するという意味でしょうか』
「そうそう。ほら、水って透明だし、丸くなったら光曲げるんじゃない?」
『はい。水と空気の境界面に適切な曲率を作れば、光を集めることは可能です』
「できるんだ」
結衣は少しだけ身を乗り出した
「じゃあ、それ試したい」
『水だけでは形状を維持することが困難です。透明な容器や支持体が必要になります』
「透明なものかぁ」
パジャマのポケットに入っているスマートフォンへ一度目を落とす
「これは絶対壊さないからね」
『端末の分解は推奨しません』
「うん、そこは意見一致」
結衣は立ち上がった
「じゃあ自然の中から探そ」
『映像内でも候補を探索します』
「お願い」
川辺を歩きながら、光を通しそうなものを探していく
最初は何も見つからなかったが、しばらくしてAI先生から声がかかった
『結衣、左前方の石の間を確認してください』
「どこ?」
『約二メートル先です』
近づいてみると、普通の石に混じって半透明の欠片が落ちていた
「これ?」
『はい』
枝で転がしてから状態を確認する
ガラスほど透明ではないものの、太陽へ向けると向こう側の明るさがぼんやり透けて見えた
「使えるかな」
『表面形状が不規則なため、そのままでは効率よく光を集めることは困難です』
「惜しい」
結衣は欠片を眺めながら考えた
透明度が足りないうえに表面もでこぼこしている
「これ濡らしたら少し変わらない?」
『表面の凹凸による散乱が減少する可能性はありますが、それだけで凸レンズとして機能するとは限りません』
「じゃあ水そのものを上に乗せたら?」
『水滴をレンズとして利用するという意味でしょうか』
「そう。これなら水が流れないように支えられるかもしれない」
『試行することは可能です』
「やってみよ」
半透明の欠片を日の当たる場所へ置き、その上へ少量の水を垂らす
水は表面張力で丸く盛り上がった
「ほら、丸くなった」
『確認しました』
「これ、ちゃんとレンズになってる?」
『小型の凸レンズに近い光学的作用は期待できます。ただし着火に十分な光量を得られるかは不明です』
「じゃあ試せば分かるね」
結衣は明るい木片を下へ置き、欠片の高さを変えた
「どこが一番集まってる?」
『もう少し対象から離してください』
「この辺?」
『少し近づけてください』
「ここ?」
『現在位置付近が最も光が集中しています』
木片の表面に小さな明るい部分ができている
「本当だ」
結衣は思わず笑った
自分が何となく思いついただけの方法が、ちゃんと形になっている
「じゃあさっきの黒い粉使お」
『暗色であるため、光を吸収しやすいという点では適しています』
「失敗したやつも使えるじゃん」
摩擦式発火でできた黒い木粉を乾いた繊維の上へ載せ、そこへ光を合わせる
最初は手が震えて焦点が動いたが、AI先生に言われて近くの石へ肘を載せると安定した
「ここ?」
『もう少し右です』
「ここ?」
『はい。その位置を維持してください』
「分かった」
結衣はじっと待った
数十秒経っても何も起きない
それでも先ほどのように力任せに手を動かす必要はなく、光がずれないようにすることだけへ集中する
「まだかな」
『変色が進んでいます』
「ほんと?」
目を凝らす
黒い木粉の一部から、ごく細い煙が立ち上った
「……え」
結衣の目が大きくなる
「煙出た」
『はい。位置を維持してください』
「待って、動かさないから」
声まで小さくなった
逃げてしまいそうな何かを驚かせないようにするみたいに、息を抑えながら光を当て続ける
煙が少しずつ増えていく
「AI先生、これ本当にいける?」
『火種が形成され始めている可能性があります』
「……お願い、ついて」
結衣は祈るように呟いた
やがて黒い木粉の奥に、ごく小さな赤い点が見えた
「赤くなった」
『集光を終了してください。火種を消さないよう、火口を寄せます』
「うん」
結衣は半透明の欠片をそっと置き、乾いた繊維を火種の周囲へ寄せていく
押し潰さないようAI先生の指示を聞きながら形を整え、少しだけ息を吹き込む
煙が増える
もう一度、今度は少し長く息を送る
「お願い……」
乾いた繊維の奥が赤くなった
次の瞬間、小さな炎が立ち上がる
「……あ」
結衣は一瞬、本当に動けなくなった
目の前で揺れている小さな炎を見つめ、それが消えていないことを確かめてから、ようやく表情がほどけた
「ついた……」
『着火を確認しました。準備した細い枝を追加してください』
「うん……うん、分かった」
慌てないように細い枝を一本置く
火が移る
もう一本加えると、さっきまで指先ほどしかなかった炎が少しだけ大きくなった
そこでようやく、結衣は堪えきれなくなったように笑った
「……できた」
もう一度、今度は少しだけ声を弾ませる
「AI先生、見て。ちゃんと火になった」
『確認しています』
「私がつけたんだよね」
『はい。結衣が着火しました』
「……そっか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥からじわっと嬉しさが広がった
東京にいた頃なら、火が必要になってもスイッチを押すか、コンロをひねるだけだった
水だって蛇口をひねれば出てくるし、何か足りなければ店へ行けばよかった
火そのものをどうやって作るかなんて考えたこともなく、自分にはできないとも、できるとも思ったことがなかった
けれど今は違う
枯れ草を探したのも、枝を拾ったのも、痛くなるまで木を回したのも自分だった
うまくいかなくて一度は諦めかけ、それでも太陽を見て別の方法を思いつき、川辺から使えそうなものを探して、AI先生と何度も位置を調整しながら小さな火種を作った
最初からそこにあった火を使ったのではない
本当に何もないところから、自分の手で作った
「なんか……すごい」
結衣は炎の前へしゃがみ込み、頬を緩ませたまま眺めていた
「私、こういうの初めて」
『火起こしの実地経験という意味であれば、確認できる履歴上では初めてです』
「うん」
少し間を置いて、結衣は自分の手のひらを見た
まだ赤く、擦れたところはひりひりしている
それさえ今は、頑張った跡みたいに思えた
「手めっちゃ痛いけど……でも嬉しい」
小さく笑いながら、もう一度炎を見る
「私でもできたんだ」
『はい』
「一人だったら絶対無理だったけど」
『私だけでも実行できません』
「……そっか」
結衣は少し驚いてから、嬉しそうに笑った
「じゃあ二人で作ったんだ」
『結衣が実作業を行い、私は情報提供と補助を行いました』
「もう、それでいいの」
AI先生らしい返事がおかしくて、また笑ってしまう
怖い場所にいることも、これからどうなるのか分からないことも何一つ解決していない
それでも、自分には何もできないと思っていた結衣にとって、小さく揺れる炎は思っていた以上に大きなものだった
誰かが用意してくれたものを使ったのではなく、最初から自分で考えて、自分の手を動かして、失敗して、それでも最後にはちゃんと形にできた
そのことが、ただ嬉しかった
「……消したくないなぁ」
『今後使用するのであれば、燃料を追加して維持してください』
「そういう意味じゃなくて」
結衣は苦笑しながら細い枝を一本加えた
「初めて自分でつけた火だから、ちょっともったいないなって思っただけ」
『記録映像は保存できます』
「え、撮れてるの?」
『胸部カメラの映像として記録されています』
「ほんと?」
結衣の顔がぱっと明るくなる
「じゃあ残しといて」
『保存します』
「絶対消さないでね」
『記録対象として保持します』
「よし」
それだけでさらに嬉しくなった
結衣はしばらく炎を眺めていたが、やがて本来の目的を思い出して立ち上がった
「……あ、水だった」
『はい』
「火ついたの嬉しくて忘れてた」
少し恥ずかしそうに笑い、川の方を見る
「じゃあ次は水入れるもの作ろ」
『周辺環境から利用可能な素材を探索します』
「うん。今度も一緒に考えて」
『了解しました』
結衣は火のそばから離れすぎない範囲で、今度は水を入れられそうなものを探し始めた
さっきまでとは足取りが少し違っていた
知らない森が安全になったわけではなく、結衣自身が急に何でもできるようになったわけでもない
それでも、自分で一から何かを作ることができたという小さな成功が、胸の中に残っている
昔、キャンプにいった際火起こし体験をしましたが現地現物のものでは火起こせずやりやすいように作られた火起こし機で火を起こしたことがあります。
子供ながらとても感動したことを思い出しました。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
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