第二十二話 読めなくても、同じものなら分かります
目を覚ました結衣が最初に見たのは、見慣れない木の天井だった
一瞬だけぼんやりと見上げてから、自分がナールの宿にいることを思い出し、布の中でもぞもぞと身体を動かす
「……身体重い」
昨日あれだけ歩いたのだから当然なのかもしれない
特にふくらはぎには軽い張りが残っていて、寝台から足を下ろして立ち上がると、身体のあちこちが昨日より少しだけ自己主張してきた
「運動不足の会社員にこれはきついよ」
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす
「AI先生、おはよう」
『おはようございます、結衣』
聞き慣れた声が返ってきたことで、結衣の表情が少し緩んだ
そのまま画面を点灯させ、自分の顔を映してみる
「……目、大丈夫そう?」
『目の周囲に顕著な腫脹は確認できません』
「よし」
昨夜のことまで思い出しそうになり、結衣はそこで考えるのをやめた
「今日は今日」
『日付に関する確認でしょうか』
「違うよ」
結衣は少し笑いながら寝癖を手で直す
髪を整えたところで、今度は自分の服へ視線が落ちた
薄いピンクのパジャマは、身体を拭いて多少さっぱりした今となっては余計に場違いに見える
「やっぱりこれで町歩くの恥ずかしいな」
『衣類の入手を希望していますか』
「欲しいけど、先に自分でお金を作れるようにならないとね」
寝台のそばへ置いていた三枚の硬貨を手に取る
レオルから渡されたものだ
今の結衣にとっては大事なお金なのに、そのままパジャマのポケットへ入れるのはどうにも不安だった
「財布もないんだよね」
『所持品として確認されていません』
「落としたら洒落にならないし……」
部屋の中を見回しても、都合よく袋があるわけではない
結局、手持ちの布で簡単に包み、ポケットの奥へ収めて何度か軽く跳ねてみた
「大丈夫そう?」
『映像から落下は確認されていません』
「じゃあ、とりあえずこれで」
スマートフォンもいつものように胸ポケットへ入れる
背面カメラが前を向いたことを確認してから部屋を出た
一階へ降りると、宿の女性が広間の机を拭いていた
結衣を見るなり、昨日から何度か聞いている挨拶が飛んでくる
結衣も同じ言葉を返した
それから数歩進んだところで、今のやり取りにAI先生を挟まなかったことに気づく
「……普通に返せた」
『はい』
たった一言なのに、少し嬉しい
女性が続けて何か尋ねてくる
今度は途中に聞き覚えのある音が混じっていたものの、意味まではつながらなかった
「AI先生、今の分かる?」
『食事に関連する語を確認しました。状況を加味すると、食事を必要とするか尋ねている可能性があります』
「朝ご飯かな」
結衣が食べる仕草をすると、女性が頷いた
そこで頼みかけて、ポケットの中の硬貨を思い出す
食べたい
でも値段が分からないまま頼むのは怖い
結衣は女性へ硬貨を見せ、食べる仕草をしてから首を傾げた
女性は少し考えたあと、指を一本立てた
「一枚?」
『数量一を示している可能性があります』
結衣は手の中の硬貨を見る
三枚しかないうちの一枚
惜しいとは思ったものの、食べずに町を歩き回って途中で動けなくなる方が困る
「食べます」
覚えている言葉と身振りを使って伝えると、女性は奥へ入っていった
しばらくして運ばれてきたのは、小さめのパンと温かいスープだった
昨日の食事より量は少ないものの、起きたばかりの身体にはちょうどいい
パンをスープへ浸して食べると、じんわりした温かさが胃へ落ちていく
「おいしい」
口にしてから、結衣は昨日覚えた現地の言葉を思い出した
女性が近くへ来た時に使ってみると、すぐ笑顔が返ってくる
意味が合っていたらしい
結衣もつられて笑った
まだ長い話をされれば分からなくなるけれど、こういう短いやり取りなら少しずつ自分の中へ入ってきている
食べ終えたあと、結衣は赤茶色の硬貨を一枚渡した
女性が普通に受け取ったのを見届けてから、残った二枚を布へ戻す
「減ると急に不安になるね」
『残り二枚です』
「分かってるって」
結衣はポケットを軽く押さえた
「今日、何か見つけないと」
宿を出る時、部屋用らしい木片をどうするか迷って女性へ見せると、彼女は自然な動きで受け取り、台の奥へ置いた
どうやら外出する時は預けておけばいいらしい
外へ出ると、昨日とは違う朝の空気が結衣を迎えた
通りにはすでに多くの人がいて、開いたばかりの店先では品物が並べられ、荷車の周囲では荷物を積み替える作業が始まっている
昨日は人の多さに圧倒されていた結衣も、今日は少しだけ余裕を持ってその様子を見ることができた
「AI先生、歩きながら仕事になりそうなの探そう」
『結衣が従事可能かという基準でしょうか』
「そう、それ」
大通りへ向かいながら、働いている人たちへ目を向ける
大きな袋を肩へ担いで運ぶ男を見つけて一瞬考えたものの、持ち上げる前から無理だと分かるくらい重そうだった
「力仕事は厳しいね」
『結衣の身体能力に対して過大な重量である可能性があります』
「もうちょっと普通のやつがいい」
店先で客と話している女性も見えた
そちらなら身体的にはできそうだと思ったものの、飛び交っている言葉の速さを聞いただけで難しいことが分かる
「接客も今は無理か」
『会話能力が要求される可能性があります』
「文字も読めないしね」
何となく近くの看板を見上げる
そこにはいくつもの記号が並んでいる
昨日から何度も見ているこの世界の文字らしいものだが、意味はまだ分からない
「AI先生もこれは読めないんだよね」
『意味との対応関係が十分に確立されていないため、文章として解読することはできません』
「だよね……」
結衣は看板から視線を下ろした
ちょうどその時、店の脇に積まれている箱にも小さな札が付いていることに気づいた
札にも文字がある
意味は分からない
それでも、看板と札を見比べているうちに、ふと別のことを思いついた
「ねえAI先生」
『はい』
「読めなくても、同じ文字かどうかなら分かる?」
『可能です』
あまりにも即答だったので、結衣は足を止めた
「意味分かんなくても?」
『文字の意味を理解することと、画像上の形状を比較することは別の処理です』
「じゃあ、例えば二つの箱に同じ札が付いてるかとかも分かる?」
『映像の解像度が十分であれば比較可能です』
「へえ……」
結衣は箱を見る
今すぐ何に使えるのかまでは思いつかない
けれど、文字が読めないから何もできないと思っていたところに、小さな穴が開いたような気がした
「それ、覚えとこう」
『記録します』
「私も覚えとく」
再び歩き出したところで、人の流れの向こうから聞き覚えのある声がした
「ユイ」
結衣はすぐ顔を上げた
「あ、レオル!」
昨日と同じ姿のレオルがこちらへ歩いてくる
少し後ろにはガルドもいた
二人を見つけた瞬間、思っていた以上に安心している自分に気づきながら、結衣は少し早足で近づいた
まず覚えた挨拶を使うと、二人からも返事が返ってくる
レオルは結衣の顔を見て短く何か尋ねた
今度は聞き取れた
「大丈夫」
同じ言葉で答える
レオルが頷いた
続けて話しかけられると、今度は分からない
「AI先生?」
『食事に関連する語を確認しました。食事を済ませたか尋ねている可能性があります』
「あ、ご飯ね」
結衣は頷き、食べる仕草をした
さらに一枚払ったことも伝えたくなり、硬貨を渡す仕草をすると、レオルは何か言いながら笑った
何を言われたのかはまだ分からなかったが、少なくとも心配するような反応ではない
そのあとレオルが歩き出すように手を動かした
「どこ行くの?」
その言い方はまだ知らない
AI先生に短い表現を教えてもらい、発音を一度直してから使ってみる
レオルの返答には昨日聞いた音が含まれていた
『昨日訪れた荷役施設で記録した語と類似しています』
「昨日の倉庫みたいなところ?」
『施設を示す語であるかは未確定です』
「行けば分かるか」
二人について歩いていくと、予想した通り昨日訪れた大きな建物が見えてきた
すでに何台かの荷車が入り、作業員たちが箱や袋を運んでいる
昨日レオルと話していた中年の男もいた
結衣を見つけると、彼はレオルへ声をかけるより先に胸元のスマートフォンへ目を向けた
何か言われ、その中から聞き覚えのある音が拾える
「……エーアイ先生って言った?」
『「エーアイセンセ」に近い音列を確認しました』
「覚えてるんだ」
少し嬉しくなり、結衣は胸ポケットを指した
「AI先生」
『おはようございます』
覚えた現地の挨拶でAI先生が返事をすると、男の肩がわずかに跳ねた
昨日一度聞いているのに、まだ慣れてはいないらしい
近くにいた作業員まで振り向いたので、結衣は少し恥ずかしくなって胸元を押さえた
「やっぱり喋るスマホって目立つよね」
『「スマホ」という物品分類は現地では共有されていません』
「それは分かってるよ」
男とレオルが話し始めたため、結衣は邪魔をしないよう少し離れた
会話は速く、ところどころ知っている音が混ざるものの、全体の意味までは追えない
AI先生にも分かる範囲だけ拾ってもらいながら、結衣は待つ間に倉庫の中を眺めた
昨日より作業の流れが見える
荷物を運ぶ人のそばで、別の人が箱に付いた札を確認し、それを机の上の紙と見比べている
紙には文字が並び、机の端には荷物から外したらしい札が何枚も置かれていた
「……さっきの話、ここなら使えるかも」
『記号照合についてでしょうか』
「うん」
とはいえ、頼まれてもいないのに割り込むつもりはなかった
結衣が作業を眺めていると、倉庫の奥から少し大きな声が上がった
一人の作業員が箱の札を持ち上げ、机にいた男へ何かを訴えている
紙を確認していた別の作業員も加わり、何度か箱と書類の間を行き来するうちに、周囲の荷物の流れがそこで詰まり始めた
「何かあったのかな」
『通常時と比較して、該当箇所の作業が停滞しています』
中年の男も会話を切り上げてそちらへ向かった
札を受け取り、紙と見比べる
もう一枚の紙も持ってこさせたが、すぐには片付かない
結衣は少し離れたところからその様子を見ていた
「AI先生なら、あの札が紙にあるか探せる?」
『現在位置からは記号の細部を十分に取得できません』
「近づけば?」
『比較精度は向上します』
結衣はレオルを見る
勝手に近づいて紙を覗き込むのは違う
「見てもいいか聞きたい」
『紙と札の確認を希望するという意味でしょうか』
「うん」
AI先生がこれまで蓄積した言葉から短い表現を組み立てる
結衣は一度真似し、発音を直してもらってからレオルへ声をかけた
紙と札を指し、自分の目を指す
教えてもらった言葉を添えると、レオルは中年の男へ何か尋ねた
男が結衣を見る
続いて胸元のスマートフォンを見る
少し迷ったあと、短く答えた
『許可を示す表現である可能性が高いです』
「じゃあ見てみよう」
結衣は机へ近づいた
近くで見ると、紙には似たような記号列がいくつも並んでいる
結衣にはどれも同じように見えた
「……私だけだったら無理だね」
『比較を開始しますか』
「お願い」
スマートフォンを胸ポケットから取り出し、紙と札の両方が映る位置へ向ける
「意味はまだ分からないんだよね?」
『はい』
「じゃあ、同じ並びがあるかだけ見て」
『了解しました』
AI先生が映像を比較する
周囲の作業員たちは、結衣が黒い板を紙へ向けて何をしているのか分からないらしく、何人かが手を止めてこちらを見ていた
結衣も少し緊張してくる
「どう?」
『札の記号列と高い形状一致を示す列を一件確認しました』
「どこ?」
『紙面上部から四つ目です』
結衣は指で上から追った
「これ?」
『一段下です』
「あ、こっちか」
『はい』
結衣がその列を指す
中年の男が覗き込んだ
札と紙を見比べる
その場では何も起こらなかったので、結衣は少し不安になる
「合ってる?」
『形状比較では高い一致率です。ただし、その一致が業務上何を意味するかは判断できません』
「そこは向こうに任せるしかないね」
男は近くの作業員へ何か言い、別の箱を持ってこさせた
その箱にも札が付いている
今度は二枚の札を並べ、結衣のスマートフォンを指した
「比べてってことかな」
『その可能性があります』
「AI先生」
『二つの記号列を比較します』
少し待つ
『一致しません』
「どこが違う?」
『先頭部分は一致していますが、三番目の記号が異なります』
「三番目……」
結衣は指で追う
「これとこれ?」
『はい』
言われてから見ると、確かに違う
よく似た形なのに、片方には短い線が一本多い
「ほんとだ」
結衣は二つの札を指し、首を横へ振った
現地語で違うという言葉はまだ知らない
それでも男は結衣の意図を察したらしく、自分でも二枚を見比べた
すぐに近くの作業員を呼ぶ
別の紙が机へ置かれた
結衣は邪魔にならないよう少し下がろうとしたが、男に手で止められた
「まだ見る?」
男が二枚の紙を指した
「これも比べるのかな」
『その可能性があります』
「やってみよう」
今度は紙同士をカメラへ収める
一方は端が折れていて、一部が隠れていた
「見える範囲だけでいいよ」
『比較します』
少ししてAI先生が答える
『一枚目の上から四番目にある記号列と、二枚目の上から七番目にある記号列が高い形状一致を示します』
「四番目と七番目ね」
一つ目を指す
「ここ?」
『はい』
もう一枚へ移る
「こっちは……これ?」
『二段下です』
「またずれた」
結衣は苦笑しながら指を下げる
「ここ」
『はい』
二つの位置を男へ示す
男はしばらく黙って見比べていた
やがて何かに気づいたように顔を上げ、作業員へ声をかける
呼ばれた人が倉庫の奥へ走り、少しして別の箱を持って戻ってきた
その札まで並べたところで、男たちのやり取りが一気に速くなる
結衣には内容が分からない
ただ、さっきまで止まっていた荷物が別々の場所へ運ばれ始めた
「……終わった?」
『停滞していた作業が再開しています』
「じゃあ、役に立ったのかな」
『結衣が示した記号の一致および差異が判断材料として利用された可能性があります』
結衣は机の上に残った紙を見る
相変わらず読めない
何が書いてあるのかも知らない
それでも、少し前まで自分の弱点にしか見えなかったものの隣に、別のやり方があることを知った
「読めなくても、比べることはできるんだ」
『はい』
胸の奥に小さな嬉しさが広がる
何でもできるわけではない
今だって、問題そのものを理解して直したのはこの場所で働いている人たちだ
結衣がしたのは、彼らが見落としていた似た記号の違いをAI先生と一緒に見つけただけだった
それでも、自分がここにいることで一つだけ作業が早く進んだ
昨日まで助けてもらってばかりだった結衣には、それが思った以上に嬉しかった
中年の男が戻ってくる
何か言いながら机の端に積まれていた札を数枚取り、別の紙と一緒に結衣の前へ置いた
「え?」
男は札を指し、紙を指し、それからスマートフォンを指す
「これも見てほしいの?」
『その可能性が高いと判断します』
結衣は机の上を見る
一枚だけではない
さっきより数が多い
「結構あるね」
男は空いている椅子を引いた
結衣へ座るよう手で示す
「座ってやっていいってことかな」
『その可能性があります』
結衣はすぐ座らず、レオルを見た
レオルは男と短く言葉を交わしたあと、結衣へ向かって頷いた
「じゃあ……やってみようかな」
椅子へ腰を下ろす
机の上にある札を一枚手に取った
文字は読めない
何の荷物なのかも分からない
けれど今度は、そのことだけで手を止める必要はなかった
「AI先生」
『はい』
「さっきみたいに、同じの探そう」
『了解しました』
「自信ないところは無理に決めないでね」
『判定確度が低い場合は通知します』
「お願い」
結衣は最初の札を紙の横へ置き、スマートフォンのカメラを向けた
何を頼まれているのか、その全部を理解できているわけではない
報酬があるのかさえ、まだ分からない
それでも、誰かに助けてもらわなければ何もできないと思っていた昨日までとは違い、今度は自分の方から手を伸ばせるものが一つ見つかっていたこの修正版では、特に**「朝だから昨日を全部思い返す」「今日やることを何個も口に出して確認する」「仕事候補を羅列する」**のをかなり削っています
また、後半も「紙。札。箱。」のような名詞主体の説明にならないよう、結衣が見る→疑問を持つ→AI先生に頼む→自分の指で確認する→現地の人がそれを使って判断するという一続きの動きに直しています。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




