第二十一話 異世界で、やっと身体を洗えました
宿の女性について建物の奥へ進むと、食事をするための広間とは別に細い通路があり、その先には裏庭へ続くらしい扉があった
扉が開いた瞬間、外の少し冷たい空気が入り込んでくる
「外なんだ」
結衣は女性の後について裏庭へ出た
建物に囲まれた小さな空間で、地面には平たい石が敷かれている
壁際には大きな木製の桶が二つ並び、その近くには水の入った樽と、底が煤で黒くなった金属製らしい容器が置かれていた
女性が樽を指す
「水?」
結衣が覚えた現地語で尋ねると、女性が頷いた
「やった」
思わず笑顔になる
結衣は樽へ近づきかけて、途中で止まった
「AI先生、これどうやって使うんだろ」
『現時点では判断できません』
「だよね」
勝手に触るより、まず女性が何をするのか見た方がいい
そう考えて待っていると、女性は小さな桶で樽から水を汲み、それを大きな桶へ移した
続いて煤の付いた容器を指す
「……お湯?」
『加熱に使用される容器である可能性があります』
「お風呂ある?」
期待したものの、女性は大きな桶へ入るような仕草をしたわけではなかった
代わりに棚から布を一枚取り出し、水で濡らして腕を拭く動きを見せる
「ああ、身体を拭くんだ」
『その可能性が高いと判断します』
「十分十分」
シャワーがないのは残念だけれど、今は身体をきれいにできるだけでありがたい
女性は棚から別の布を取り出して結衣へ差し出した
結衣は自分を指し、布を指す
「使っていい?」
女性が頷く
「ありがとう」
現地の感謝の言葉で伝えると、女性から短い返事が返ってきた
「あ」
さっき食事をした店でレオルから聞いたものと同じだった
「AI先生、今の」
『感謝への返答として記録している表現と一致します』
「やっぱり」
結衣は小さく笑った
まだ会話なんて呼べるほどではない
それでも、相手に何かをしてもらって、自分がお礼を言い、それに返事が返ってくる
それだけならAI先生へ聞かなくても分かるようになってきた
「ちょっとずつだね」
『はい』
女性が何か説明しながら、裏庭のさらに奥を指す
木の板で囲われた小さな場所がある
結衣が覗いてみると、人一人が身体を拭くには十分な広さがあり、外から直接見えないようになっていた
「ここでやるんだ」
『身体洗浄用の空間である可能性が高いと判断します』
女性は大きな桶へ水を用意し、そこへ少量の温かい水を加えてくれた
結衣が指先を入れる
「あったかい」
熱いほどではない
それでも冷たい水だけとは全然違った
女性が布を指し、身体を拭くような動きをもう一度見せる
最後に建物を指し、自分を指して何か言った
「終わったら戻ってきて、かな」
『その可能性があります』
「分かった」
結衣はもう一度お礼を伝えた
女性が建物へ戻っていく
足音が完全に遠ざかってから、結衣は板囲いの中を見回した
外からは見えない
近くに誰かがいる気配もない
ようやく身体を拭ける
そう思ったところで、胸ポケットのスマートフォンへ手を伸ばした
「AI先生」
『はい』
「今から身体拭くから、カメラ止めて」
『カメラ入力を停止します』
「ちゃんと止まった?」
『はい』
「マイクも……」
そこまで言って、結衣は少し迷った
『音声入力を停止すると、結衣からの呼びかけには応答できなくなります』
「うん、分かってる」
それでも、すぐには停止させなかった
森にいた時なら嫌だったと思う
何か分からないことがあればすぐ聞いて、怖くなればどうでもいいことまで話しかけていた
けれど今は宿にいる
壁の向こうには人がいて、建物を出れば町がある
身体を拭く間くらいなら大丈夫だと、結衣は自分に言い聞かせた
「……大丈夫」
一度息を吐く
「マイクも止めて」
『了解しました。再開は端末操作から行えます』
「うん」
『音声入力を停止します』
そこでAI先生の声が消えた
結衣はしばらくスマートフォンを見つめていた
手を伸ばせばすぐ届く場所にある
壊れたわけでもない
操作すれば、またいつもの声が返ってくる
分かっているのに、急に周囲が広くなったような気がした
「……静か」
自分の声だけが妙に近い
本当に静かなわけではなかった
板の向こうからナールの町の音が聞こえている
遠くで誰かが話し、どこかで扉が閉まり、通りを走る車輪の音も微かに届く
人がいる
それなのに、AI先生から返事がないだけで、自分だけがそこから切り離されたように感じてしまう
「……早く洗お」
余計なことを考える前に動こうと、スマートフォンを濡れない場所へ置いた
パジャマの上着を脱いだ瞬間、冷たい空気が肌へ触れ、思わず肩が縮む
「さむ……」
急いで布を温かい水へ浸し、絞って腕へ当てた
「……あぁ」
声が漏れた
温かい
ただそれだけなのに、身体から力が抜けていく
首を拭き、腕を拭き、顔へ布を当てる
何度か洗ううちに桶の水が少しずつ濁ってきた
「うわ……」
思っていた以上に汚れていた
森の中を歩き、草や枝に触れ、火を扱い、土の上へ座った
泥だらけになった覚えはなくても、少しずつ積み重なっていたらしい
もう一度布を濡らし、頬へ当てる
「……気持ちいい」
返事はない
いつもなら、ここでAI先生が何か返してくる
その当たり前がないことに気づいた途端、結衣の手が少し止まった
濁った水を見ながら、何となく今日の朝を思い出す
目を覚ました時は、自分の部屋にいると思っていた
会社へ行く準備をしなければならない、そんな普通の朝が来るはずだった
なのに目の前には知らない草原が広がっていた
電話はつながらない
地図も使えない
どこにいるのか分からない
誰もいない
何がいるのかさえ分からない場所を、自分の足で歩くしかなかった
水を見つけても、そのまま飲むことすらできなかった
火を作ろうとして手を痛くして、それでも何度も試して、やっと小さな炎が生まれた時は本当に嬉しかった
森では知らない動物を見た
大きな足跡もあった
何か音がするたびに怖くなった
レオルとガルドを見つけた時には、知らない人なのに、誰かがいるというだけで安心した
それなのに言葉はまったく通じなかった
何を言われているのか分からない
自分が話しても伝わらない
AI先生に聞きながら一つずつ意味を探し、教えてもらった音を何度も真似して、ようやく挨拶や簡単な言葉が使えるようになった
危険な動物もいた
目の前でガルドが剣を抜いた
ナールへ着いてからだって、門では身分を証明する物を求められ、お金も持っていなくて、レオルがいなければどうなっていたのか分からない
食事まで出してもらった
今夜眠る場所さえ、自分一人では用意できなかった
「……私」
結衣の手が止まった
「結構、頑張ったよね」
誰も答えない
その瞬間、鼻の奥が急に熱くなった
「あれ……」
慌てて瞬きをする
今はもう安全なはずだった
食事をした
水もある
身体を洗えている
今夜眠れる部屋まである
だから安心していいはずなのに、そう思った途端、目尻から涙が落ちた
「ちょっと待って……今?」
結衣は慌てて手の甲で拭った
それでも次が落ちる
「やだ……」
泣くつもりなんてなかった
むしろ今まで泣かずにここまで来たのだから、このまま大丈夫だと思っていた
けれど本当はずっと怖かった
次に何が起きるのか分からないまま、それでも立ち止まる方が怖いから、AI先生へ聞いて、言われたことを試して、失敗したらまた考えて、その繰り返しでここまで来ただけだった
AI先生の声がなくなったほんの数分で、追いつけなかった気持ちが一気に追いついてきた
「……帰りたい」
小さな声が漏れた
東京の部屋へ帰りたい
自分のベッドで眠りたい
シャワーを浴びて、冷蔵庫を開ければ飲み物があって、スマートフォンを見れば当たり前に電波が入る生活へ戻りたい
明日の仕事が嫌だなと思いながら眠って、朝になったら仕方なく起きる
そんな昨日まで当たり前だった毎日が、急にどうしようもなく恋しくなった
「連絡も……できないし……」
声が震えた
今、自分がどこにいるのかを知っている人は誰もいない
心配しているかもしれない
探しているかもしれない
それを確かめることすらできない
結衣は唇を噛んだ
また涙が落ちる
「……もう」
濡れた布で顔を拭いた
身体を洗っているのか、涙を拭いているのか分からなくなって、少しだけ笑った
その笑いも途中で震えた
「何してんだろ、私……」
しばらく泣いた
声を上げるほどではない
ただ、止めようとすると余計に涙が出るので、最後には諦めた
怖かったことも、寂しかったことも、帰りたいと思ったことも、誰にも見られていない今だけは無理に押さえなくていい気がした
やがて涙が少しずつ落ち着いてくる
結衣は鼻をすすりながら顔を上げた
「……よし」
誰も聞いていないのに、少し強めに言った
「終わり」
もう一度顔を拭く
目元へ少し冷たい水を当て、頬を両手で軽く押さえた
「明日もあるんだから」
会社で嫌なことがあった時もそうだった
落ち込むことはある
悔しくて帰宅してから泣いたことだってある
それでも翌朝になれば起きて、顔を洗って、髪を整えて、仕事へ行かなければならなかった
今は会社へ行くわけではない
それでも、明日やることはある
この町で使われているお金についてもっと知りたい
今のパジャマから着替えるために服も欲しい
言葉だって、もっと覚えなければならない
そして何より、自分でお金を手に入れる方法を見つけたい
「……大丈夫」
今度はさっきよりしっかりした声が出た
完全に大丈夫なわけではない
でも、そう言って動き始めるくらいならできる
結衣は残っていた汚れを拭き、髪も少しずつ濡らして整えた
全部洗ってしまえば乾かすのが大変そうなので、汚れの気になる部分だけにする
最後に靴を脱ぎ、靴下も外して足を拭くと、それだけでかなりすっきりした
問題はそのあとだった
目の前には脱いだパジャマがある
「……これ着るのかぁ」
身体がきれいになったあとだからこそ、同じ服へ戻るのが少し嫌だった
それでも他には何もない
結衣は表面の土を払い、特に汚れているところだけ布で軽く拭いた
洗濯してしまえば、乾くまで着るものがなくなる
「明日絶対服どうにかしよ」
パジャマを着直し、靴下とスニーカーも戻す
最後に手櫛で髪を整えたところで、濡れない場所へ置いていたスマートフォンが目に入った
「……あ」
結衣は少しだけ動きを止めた
AI先生を戻したい
さっきまでなら、それだけだったはずなのに、今は妙に気まずい
「泣いた直後なんだよね……」
相手はAIだ
そんなことを気にする必要なんてない
分かっているのに、泣いた顔のまま何事もなかったように話しかけるのが少し恥ずかしかった
結衣は指先で目元を押さえる
「赤くなってないかな」
鏡はない
スマートフォンなら確認できるけれど、それをするには結局AI先生を戻すことになる
「……もういい」
結衣は一度深く息を吸った
頬を両手で軽く叩く
「切り替え」
仕事で嫌なことがあった時にも何度か使った言葉だった
失敗して落ち込んでも、苦手な相手との電話が終わって疲れても、次の仕事は待ってくれない
少し席を外して顔を整えたら、また戻る
今だって同じだ
「桜結衣、二十四歳、社会人」
自分へ言い聞かせるように呟く
「泣いたからって何も終わらないんだから。はい、切り替え」
かなり無理やりだった
それでも背筋を伸ばし、スマートフォンを手に取る
音声入力を再開した
「AI先生」
『はい』
いつもとまったく変わらない声が返ってきた
その瞬間、せっかく止まったはずの涙がもう一度出そうになり、結衣は慌てて上を向いた
「……危な」
『どうしましたか』
「なんでもない」
『了解しました』
「…………」
あっさり終わった
結衣は少しだけ口を尖らせる
「いや、ちょっとくらい聞いてよ」
『先ほど「なんでもない」と回答しました』
「そうだけど」
『では、どうしましたか』
改めて聞かれると、それはそれで言いにくい
結衣は視線を逸らした
「……ちょっと泣いただけ」
『泣いていたのですか』
「ちょっとね。ほんのちょっと」
そこそこ泣いたことは黙っておく
「いろいろ思い出したら、急にきちゃって」
『音声入力とカメラ入力が停止していたため、その間の状態は記録していません』
「うん、それでいい」
結衣は鼻を軽くすすった
「見られてなくてよかった」
『必要であれば現在の状態を確認できます』
「何を?」
『カメラを再開すれば、顔面の発赤や腫脹などを映像から確認できます』
「……そういう確認なんだ」
思わず笑った
泣いたあとの重たかった胸が、その返事で少しだけ軽くなる
「じゃあ見て」
『カメラ入力を再開します』
結衣はスマートフォンを自分へ向けた
『目の周囲に軽度の発赤を確認します』
「やっぱり赤い?」
『はい』
「ひどい?」
『主観的な外見評価でしょうか』
「……もういい」
『了解しました』
「そこは女の子に言うやつじゃないからね」
『記録します』
「それも記録しなくていい」
結衣は笑いながら目元を指で軽く押さえた
ちゃんと笑えた
それだけで十分だった
「明日まで残るかな」
『一時的な泣哭によるものであれば、時間経過で軽減する可能性があります』
「じゃあ大丈夫か」
結衣はスマートフォンを胸ポケットへ戻した
「AI先生」
『はい』
「さっきのはもう終わり」
『何が終了したのでしょうか』
「泣く時間」
『泣く時間を設定していたのですか』
「してないけど、今決めたの」
『了解しました』
「明日からやることいっぱいあるし、切り替える」
『了解しました』
完全に元気になったわけではない
帰りたい気持ちは消えていないし、不安だってある
それでも泣く前より呼吸は楽になっていた
「まず片付け方聞こう」
『宿の管理者へ確認することを推奨します』
「うん」
結衣は使った桶と布を持って板囲いを出た
宿の女性はすぐに気づき、結衣が布と桶を見せると笑って受け取ってくれた
何かを言われ、その中に最近何度か聞いている言葉が混じる
「今の、良いってやつ?」
『肯定的評価を示すと推定している語が含まれています』
結衣も同じ言葉を返してみる
女性が笑った
「通じた」
『はい』
女性は結衣の濡れた髪を見ると、棚から乾いた布を取り出して渡してくれた
「あ、髪?」
女性が髪を拭く仕草をする
「ありがとう」
受け取った布で髪を挟むようにして水気を取っていると、今度はパジャマの袖を指された
「うん、こっちはどうにもならなかった」
女性が何か尋ねる
「AI先生?」
『「服」に関連すると推定される語が含まれています』
「服?」
結衣が自分のパジャマを指すと、女性が頷いた
続いて通りの方向を示しながら、別の言葉を何度か使う
「服を売ってるところかな」
『店舗または場所を示している可能性があります』
「明日行きたいな」
結衣は自分を指し、服を指してから外を示す
翌日を表す言葉はまだ確信が持てないので、寝る仕草をしてから起きるように目を開け、もう一度外を指した
「寝る。起きる。服、行く」
女性は一瞬きょとんとしたあと、笑いながら頷いた
「よし、通じた」
『意図が伝達された可能性があります』
女性はさらに何かを言いながら指を立てた
服を示すような仕草のあとで二本、少し違う仕草をして三本
「二枚、三枚?」
『価格を示している可能性はありますが、確定できません』
「もし服がそれくらいなら……」
そこまで言って、結衣は自分がまだ一枚も硬貨を持っていないことを思い出した
「……買えないじゃん」
『はい』
「やっぱり仕事だ」
せっかく泣いて切り替えたばかりなのに、早速現実が戻ってきた
それでも今度は少し笑える
「まあ、明日考えよう」
『はい』
その時、広間の方から名前を呼ばれた
「ユイ」
「あ、レオル」
結衣は女性へ布を返し、広間へ戻った
レオルとガルドは立っていた
荷物も持っている
その姿を見た瞬間、結衣の足が少しだけ遅くなる
「……どこか行くの?」
レオルが何かを話す
結衣には全部分からない
ただ、ガルドが自分を指したあと外を示した
「AI先生」
『解析します』
結衣は二人を見る
ここまでずっと一緒だった
知らない森でも、街道でも、二人が前を歩いていた
だから何となく、ナールへ入ったあとも一緒にいるような気になっていた
けれど二人には二人の生活がある
『「行く」に関連する語と、翌日を示す可能性が高い語を確認しました』
「行く……明日?」
『全体の意味はまだ確定できません』
「もう一回聞く」
結衣は覚えた「もう一度」に近い表現を使う
レオルは少しゆっくり話してくれた
自分とガルドを指して外を示す
次に結衣を指し、宿を示す
最後に翌日を意味すると推定している言葉を使った
結衣は一つずつ確認する
「レオル、ガルド、行く」
二人を指す
「ユイ、ここ」
自分と宿を指す
レオルが頷く
結衣は最後に翌日の候補語を使い、二人が戻ってくるような仕草をした
「明日、来る?」
レオルが笑って大きく頷いた
「あ……」
胸の奥に入っていた力が抜ける
「来るんだ」
『その意図である可能性が非常に高くなりました』
「よかった……」
さっき泣いたばかりなのに、また目が熱くなりそうになって、結衣は慌てて瞬きをした
「今日はもう泣かないから」
『先ほど設定した「泣く時間」は終了しています』
「そう。だから終わり」
AI先生の返答がおかしくて、今度はちゃんと笑えた
するとレオルが何かを差し出してきた
「なに?」
結衣が手を出す
掌へ小さなものが落ちる
赤茶色の硬貨だった
一枚
続いてもう一枚
さらに一枚
三枚
「……え?」
結衣は掌とレオルを交互に見た
「ちょっと待って」
すぐに返そうとする
「これは駄目」
レオルは受け取らない
「門もご飯も宿も払ってもらってるじゃん」
日本語では伝わらない
それでも硬貨を押し返そうとすると、レオルは首を横へ振った
「なんで?」
何か言われる
「AI先生、今の」
『解析します』
短い発話の中には、聞き覚えのある音が二つ含まれていた
『翌日を示す可能性が高い語と、食事に関連する語を確認しました』
「……明日のご飯?」
『その可能性があります』
結衣は掌を見る
三枚の硬貨
さっき食べた食事なら、一回で赤茶色の硬貨一枚ほどだった
「私のために?」
レオルは意味までは分からないはずなのに、結衣の表情を見て笑い、掌を閉じるように手を動かした
持っておけということらしい
結衣は少しだけ俯いた
ありがたい
本当にありがたい
でも、同時に悔しかった
ここまで連れてきてもらって、食べさせてもらって、宿まで用意してもらって、そのうえ明日のためのお金まで渡してもらう
自分ではまだ何一つ返せていない
結衣は三枚の硬貨を握った
「……絶対返すからね」
自分を指す
硬貨を指す
最後にレオルへ渡す仕草をする
「あとで」
覚えた言葉を使う
レオルは結衣の顔を見て、少しだけ笑いながら頷いた
「約束だから」
そこだけは日本語だった
それでも結衣は真剣に言った
レオルとガルドが宿を出ていく
結衣は入口まで見送った
レオルが途中で振り返り、手を上げる
ガルドも小さく手を上げた
結衣も手を振る
「また明日」
二人の姿が通りを歩く人たちへ混ざり、やがて見えなくなる
結衣は少しだけその場に残った
「……AI先生」
『はい』
「明日から、ちゃんと自分でやらないとね」
『具体的な目標を設定しますか』
「うん。でも今じゃない」
『了解しました』
「今日はもう疲れた」
『休息を推奨します』
「それは素直に聞く」
宿の女性に声をかけられ、結衣は二階へ戻った
自分の部屋へ入り、扉を閉める
町の音が少し遠くなった
寝台へ腰を下ろしてから、掌を開く
三枚の赤茶色の硬貨が乗っている
「初めてのお金だ」
『正確にはレオルから受け取った現地通貨と推定される物体です』
「分かってるよ」
結衣は一枚を指先で持ち上げた
小さくて、少し歪んでいる
表面にはまだ読めない模様が刻まれていた
「借りたお金だけどね」
『はい』
「一枚で、今日食べたご飯一回くらい」
『その可能性が高いと判断しています』
「宿は二枚だった」
『一室の宿泊に対する支払いであった可能性があります』
「じゃあ三枚なんて、すぐなくなるね」
『現在の観測例のみでも、継続的な生活には追加の収入が必要になる可能性があります』
「だよね」
結衣は三枚をなくさないよう、宿でもらった木片と一緒に寝台の近くへ置いた
それからスマートフォンを胸ポケットから取り出す
「AI先生、今日ナールに入ってから分かったこと、整理できる?」
『可能です』
「お金とか、言葉とか、店とか、今日見たもの全部」
『取得情報を分類して整理します』
「お願い」
結衣は寝台へ身体を倒した
柔らかいとは言えない
それでも草の上ではない
頭の上には屋根があり、周りには壁があり、閉められる扉まである
身体もさっきよりずっとさっぱりしている
結衣は天井を見ながら息を吐いた
「明日はまず何しよう」
『優先順位を設定しますか』
「うーん……」
服は欲しい
でもお金は三枚しかない
食事にも必要になる
それなら先に、自分でお金を得られる方法を探した方がいい
ただ、仕事を探すにも言葉が十分ではない
今日みたいにAI先生に教えてもらいながらなら何とかなるかもしれないけれど、何が仕事として求められているのかも知らなかった
「まず町を見るかな」
『情報収集を優先するという意味でしょうか』
「うん。何が売ってるかとか、どんな仕事してる人がいるかとか、お金がどう動いてるかとか」
『合理的です』
「その中で私にできそうなこと探す」
『支援します』
結衣は少しだけ笑った
「私とAI先生でできることね」
『はい』
窓の外から知らない町の声が聞こえている
まだ意味の分からない言葉の方がずっと多い
それでも時々、覚えた言葉だけが自然に耳へ残る
今日一日で、自分の中にも少しだけこの世界の言葉が増えた
明日になれば、もう少し増えるかもしれない
その次の日には、もっと話せるかもしれない
結衣は目を閉じかけて、すぐに開いた
「AI先生」
『はい』
「さっき泣いたこと、別に記録しなくていいからね」
『結衣との会話履歴として現在の発話は――』
「待って、今のも記録されるの?」
『会話履歴の対象です』
「……聞かなきゃよかった」
結衣は枕へ顔を半分埋めた
『削除を希望しますか』
「いや……いい」
少し恥ずかしい
でも、あの時間がなかったことになるのも何となく違う気がした
怖かった
帰りたかった
泣いた
それでも顔を拭いて、AI先生を戻して、明日のことを考えている
それも全部、今日の自分だった
「そのままでいいや」
『了解しました』
「でも、泣いた時間とか分析しなくていいからね」
『要求がない限り分析しません』
「絶対だからね」
『はい』
結衣はようやく安心して目を閉じた
少しして、また薄く目を開ける
「……AI先生」
『はい』
すぐに返事が返ってくる
結衣はそれを聞いてから、今度こそ目を閉じた
「おやすみ」
『おやすみなさい、結衣』
知らない町で迎える初めての夜だった
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




