第二話 AI先生と歩く知らない世界
歩き始めて数分もしないうちに、結衣は早くも自分の考えが甘かったことに気づいていた
「……歩きにくい」
『足元に注意してください』
「してるんだけどさ……」
胸ポケットから返ってくるAI先生の声を聞きながら、結衣は少し高く足を上げて草を跨いだ
遠くから眺めていた時には、どこまでも続く綺麗な草原にしか見えなかったのに、実際に歩いてみると地面は思っていたほど平らではなく、伸びた草に隠れて小さな窪みや石があちこちにある
舗装された道を歩くのとはまるで違い、足元ばかり気にしていると今度は進む方向が分からなくなりそうだった
「これ、ちゃんと丘の方に進んでる?」
『現在の進行方向で問題ありません』
「よかった」
胸元のスマートフォンを軽く押さえる
画面を自分の身体側へ向けて胸ポケットへ差し込んでいるため、背面のカメラだけがちょうど外へ出ていた
さっき、思いついた時には便利そうだとしか考えていなかったが、実際に歩き始めてみると両手が空いているのは思った以上にありがたい
転びそうになれば手を使えるし、草を避ける時にも邪魔にならない
何より、結衣が見ている方向をAI先生も一緒に見てくれている
「ねえ、ちゃんと映ってる?」
『映像は取得できています。ただし歩行による揺れがあります』
「それくらいは我慢して」
『私は不快感を覚えません』
「そういう意味じゃないんだけど」
思わず笑いそうになったところで、足元の草にスニーカーの先が引っかかった
「わっ」
身体が前へ傾き、慌てて両腕を広げて踏ん張る
転びはしなかったものの、心臓が一気に速くなった
「危な……」
『先ほどから足元を確認するよう推奨しています』
「今のは見えなかったの」
『胸部のカメラでは足元直近に死角があります』
「じゃあそこは私が見るしかないか」
『はい』
「役割分担だね」
『その表現で問題ありません』
AI先生の返事を聞きながら、結衣は今度こそ慎重に歩き始めた
最初は六百八十メートル程度ならすぐだと思っていた
普段なら駅まで歩くより短いくらいなのに、道のない草原では同じ距離でも随分と感覚が違う
しかも今の結衣はパジャマ姿だった
長袖と長ズボンなので肌が直接草に触れにくいのは助かるものの、外を歩くための服ではないため、少し進んだだけでも裾に草の種のようなものが付いている
「これ取れるかな……」
立ち止まって指で摘まもうとしたところで、結衣は手を止めた
「……いや、待って」
『どうしましたか』
「知らない植物、触らない方がいい?」
『安全性を確認できていないため、素手で触れる必要がないのであれば避けることを推奨します』
「やっぱりそうだよね」
結衣は手を引っ込めた
日本で見かける草なら、ここまで神経質にはならなかったと思う
けれど今は、自分がどこにいるのかすら分からない
見た目が普通だから安全だと決めつけるのは怖かった
「毒ある草とかって、触っただけでも危ないのあるんだっけ?」
『あります。皮膚炎を起こす植物や、樹液に刺激性を持つ植物は地球上にも存在します』
「ああ、そういうの聞いたことある」
漆なら結衣でも知っている
触れるとかぶれる、くらいの知識はある
「じゃあ、なるべく草触らないようにしよ」
『妥当です』
そう答えたAI先生の声を聞きながら再び歩き始めたものの、今度は周囲の草まで少し怖く見えてしまう
知らないというだけで、さっきまで綺麗だと思っていた景色が違って見えるのだから不思議だった
それでも立ち止まっているわけにはいかない
結衣は足元を確認しながら歩き、時々顔を上げて丘との距離を確かめた
歩くにつれて身体が温まり、額に薄く汗が浮かんでくる
「……暑くなってきた」
『発汗が増加しています』
「分かるの?」
『映像から確認できます』
「そんなのまで見てるんだ」
『体調変化の把握に利用できます』
「じゃあ倒れそうになったら教えてね」
『可能な範囲で警告します』
「可能な範囲かぁ」
何でもできます、と言わないところがAI先生らしい
結衣は袖で額を拭おうとして、少し迷ってからそのまま拭った
どれくらい歩いたのだろう
まだ大した時間ではないはずなのに、喉が少し乾いてきた
「水、持ってないんだよね……」
『はい』
「スマホと靴だけ用意してくれるなら、水も置いといてほしかったな」
『誰かが意図的に用意したという前提は確認されていません』
「分かってるよ。でも靴履いてるの、やっぱり変じゃん」
『結衣が就寝後に自分で履いた可能性も否定できません』
「寝ぼけて靴下履いて、玄関でスニーカー履いて、そのまま草原まで来たって?」
『現在の情報のみでは移動経路を説明できません』
「でしょ?」
結衣はため息をつき、それ以上考えるのをやめた
どうせ今は答えが出ない
それなら喉が本格的に乾く前に水を見つけた方がいい
「AI先生、水ってどこ探せばいい?」
『現在向かっている丘から周辺地形を確認することを推奨します。低地、植生の密集部、地形の窪みなどは水源探索の手掛かりになります』
「川の音とか聞こえない?」
『現在のマイク入力から明確な流水音は確認できません』
「そっか」
結衣も耳を澄ませてみた
風に擦れる草の音と、時折聞こえる鳥の声しか分からない
それでも歩いているうちに丘は少しずつ近づいてきた
最初に見た時には緩やかに盛り上がっているだけに見えたものが、近づくにつれて思ったより高さがあることに気づく
「これ登るの?」
『頂上まで到達する必要はありません。周囲を見渡せる位置まで高度を上げれば十分です』
「それ先に言ってよ。頂上まで行くのかと思った」
『目的は登頂ではなく周辺確認です』
「うん、それなら頑張れる」
丘の斜面へ入ると、それまで以上に足元へ注意が必要になった
結衣は急がず、滑らない場所を選びながら少しずつ上がっていく
数分ほど登ったところで振り返ると、先ほどまでいた草原が随分遠くまで見渡せるようになっていた
「おお……」
思わず声が漏れた
怖い場所であることを一瞬忘れてしまうほど綺麗だった
風に押されるたび草原の色が波のように変わり、その向こうには森と山がどこまでも続いている
「すご……」
『周囲の撮影を推奨します』
「あ、そうだった」
景色を見るために登ってきたわけではない
結衣は胸ポケットからスマートフォンを抜き、外カメラを周囲へ向けた
「これで見える?」
『はい。ゆっくり右方向へ移動してください』
「了解」
言われた通りにカメラを動かす
草原から森へ、森から遠くの山へと映していく
途中でAI先生から止められ、少し戻した
『その位置で停止してください』
「何かあった?」
『映像を拡大します』
結衣も画面を覗き込む
遠くに森が広がっているだけに見えた
「何見てるの?」
『樹木の密度が一部で低下しています』
「どこ?」
『画面中央からやや左です』
言われてもよく分からない
結衣には木が並んでいるようにしか見えなかった
「……私には全部森に見える」
『問題ありません』
「なんか悔しいな」
『映像解析では細かな色差や形状差を比較できます』
「AI先生の方が目いいってこと?」
『人間の視覚とは処理方法が異なるため、単純比較はできません』
「はいはい」
結衣はもう一度画面を見る
「それで、木が少ないと何かあるの?」
『地形が低くなっている可能性があります。また周辺と比較して植生の色調が濃いため、水分量が多い可能性があります』
「水あるかもってこと?」
『可能性があります』
結衣の表情が明るくなった
「じゃあそこ行こう」
『その前に、残りの方向も確認することを推奨します』
「あ、そっか」
水という言葉だけで飛びつきそうになった自分が少し恥ずかしい
結衣は再びカメラを動かした
今度は遠くの山側へ向ける
何もない
さらに身体を回し、反対側を映した
そこで結衣自身も違和感に気づいた
「……あれ?」
『何か気づきましたか』
「向こう」
結衣はカメラを止めた
「なんか……光ってない?」
かなり遠い
草原の向こう、さらに低くなった場所で何かが陽の光を反射している
『拡大します』
画面が切り替わる
画像が少し荒くなったものの、細長く光るものが見えた
「水?」
『水面である可能性が高いです』
「ほんと?」
思わず画面へ顔を近づける
川なのか池なのかまでは分からないが、少なくとも自然の中で何かが横方向へ細長く光っている
「やった……!」
嬉しくなって一歩踏み出しかけたところで、AI先生の声が続いた
『ただし、飲用可能とは限りません』
結衣の足が止まった
「……だよね」
そう簡単にはいかないらしい
「でも水あるなら、とりあえず行ってみる?」
『距離と経路を確認します』
「お願い」
結衣はスマートフォンを動かし、光っている場所から自分のいる丘までをゆっくり映した
『推定距離は約九百メートルです』
「九百……」
さっきより遠い
思わず嫌そうな声が出た
「もっと近くに水ない?」
『先ほど確認した森林付近にも水源が存在する可能性がありますが、現時点で視認できている水面はこちらです』
結衣は少し考えた
あるかもしれない水を探すか、見えている水へ向かうか
「AI先生ならどっち?」
『確実に水が存在する方向へ向かうことを推奨します。ただし移動中も周囲の確認を継続してください』
「じゃあ九百メートルか……」
気は重いが、目的地が見えているだけまだいい
結衣はスマートフォンを胸ポケットへ戻そうとして、ふと画面の端に映ったものが気になった
「待って」
もう一度スマートフォンを取り出す
「今なんかいた?」
『確認します』
結衣はさっき映した方向へカメラを戻した
丘の下、少し離れた草の中で何かが動いたように見えた
「鳥?」
『対象を確認しました』
「何?」
結衣は画面を見つめた
草の間から、小さな生き物が顔を出した
大きさは猫より少し小さいくらいだろうか
灰色がかった毛に覆われ、頭の上には長い耳が伸びている
「……ウサギ?」
一瞬そう思った
けれど、草の中から身体が出てきたところで結衣の眉が寄った
「え、違う」
後ろ脚が妙に長い
それだけならまだウサギに見えなくもない
けれど背中から尻尾へ続く部分には、毛ではなく小さな鱗のようなものが並んでいた
「なに、あれ……」
生き物は結衣に気づいていないのか、草を鼻先で押し分けている
「AI先生、あれ何?」
『解析します』
結衣は息を潜めた
『保存されている動物情報との照合を行いましたが、完全に一致する生物は確認できません』
「……え?」
『外見上は哺乳類に類似する特徴を持っていますが、確認できる体表構造には既知の地球上生物と一致しない部分があります』
「ちょっと待って」
結衣はもう一度その生き物を見る
遠いので細かいところまでは分からない
見間違いかもしれない
「変わった種類のウサギとかじゃないの?」
『その可能性を否定することはできません。映像のみでは詳細な分類は困難です』
「じゃあ地球にいないって決まったわけじゃない?」
『はい。現時点では断定できません』
「……そっか」
少し安心しかけた
その時、生き物が顔を上げた
長い耳がぴくりと動き、その額に陽の光が当たる
「……ん?」
結衣は目を細めた
「AI先生」
『はい』
「あれ、角?」
耳と耳の間から、小さな突起が一本伸びていた
『映像上でも突起を確認しています』
「ウサギって角あったっけ?」
『現生のウサギ科動物に角はありません』
「だよね……」
知っているつもりだったが、こういう状況だと自信がなくなる
結衣が見つめていると、その生き物はようやくこちらに気づいたらしい
身体を硬直させたかと思うと、次の瞬間には草を蹴り、驚くほどの速さで森の方向へ走り去っていった
「あっ」
数秒で姿が見えなくなった
結衣はしばらく何も言えなかった
風だけが丘の上を通り抜けていく
「……AI先生」
『はい』
「あれ何?」
『現時点では特定できません』
「履歴にもない?」
『ありません』
「ネットも?」
『接続できません』
「そっか……」
胸の奥がざわついた
知らない動物を見ただけなら、世界には自分の知らない生き物なんていくらでもいると思える
けれどAI先生の保存情報にも一致するものがなく、見た目も自分の知っている動物とは少しずつ違っていた
「……ここ、日本じゃないよね」
『現在の情報のみでは断定できません』
「じゃあ外国?」
『同様に断定できません』
「地球?」
今度は返事まで少し間があった
『現時点では判断できません』
否定してほしかった
ここは地球です、と言ってもらえれば安心できた
けれどAI先生は、分からないことを分かるとは言わない
「……異世界とか」
自分で口にしてから、結衣は困ったように笑った
「さすがにないよね」
『異世界の存在を検証可能なデータはありません』
「そこは、ないって言ってよ……」
『確認できない情報を事実として回答することはできません』
「AI先生ってこういう時でもAI先生だね」
でも、その変わらなさに少し救われた
知らないことは知らないと言う
分からないことは分からないと言う
だからこそ、分かると言った時には信じられる
結衣は先ほど生き物が消えた草原をもう一度見た
もう姿はない
「今の、覚えておける?」
『はい』
「もしまた同じの見つけたら分かる?」
『今回取得した映像を基準として外見的特徴を比較できます』
「じゃあ覚えといて」
『記録します』
短い電子音が鳴った
『仮登録しました』
「名前どうするの?」
『正式名称が不明なため、現時点では識別番号による管理が適切です』
「なんか味気ない」
『名称を設定しますか』
「いや、勝手に名前つけて、本当の名前あったら恥ずかしいからいい」
『了解しました』
結衣はスマートフォンを胸ポケットへ戻した
カメラだけが外へ出る位置を確かめ、今度は先ほどより少し慎重に周囲を見る
ここへ来た直後は、人を見つければ何とかなると思っていた
今もその考え自体は変わっていない
けれど、人を探す前にもう一つ確かめなければならないことが増えてしまった
ここは本当に、自分が知っている世界なのだろうか
「……とりあえず水だよね」
『はい。現時点では水源確保を優先することを推奨します』
「考えても分かんないもんね」
『はい』
「じゃあ行こ」
結衣は丘を下り始めた
目指すのは九百メートルほど先で光っていた水面だった
行けば水が手に入るかもしれない
けれど、その水が飲めるのかは分からない
途中に何がいるのかも分からなければ、さっき見た生き物が本当に地球にはいないものなのかも分からない
分からないことばかりだった
それでも結衣は、胸元から周囲を見ているAI先生と相談しながら、一つずつ確かめていけばいいのだと思うことにした
何も知らないのは怖い
けれど、分からないことがあれば聞くというやり方なら、結衣は昔からずっと続けてきた
「AI先生」
『はい』
「また何かいたら、私が気づいてなくても教えてね」
『了解しました。危険性が推定される対象を優先して警告します』
「お願い」
結衣は丘を下りながら、遠くに光る水面を目指した
胸ポケットから覗く小さなカメラもまた、彼女と一緒に初めて見る世界を記録し続けていた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
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