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未来が見えると勘違いされていますが、全部AI先生のおかげです 〜異世界で私だけが自考型AIを使えるので、今日も相談しながら生きていきます〜  作者: 紅茶伝
1章

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第一話 目を覚ましたら、知らない世界でした


 桜結衣が目を覚ました時、最初に感じたのは頬を撫でていく風だった。


 少し冷たく、それでいて心地よい風が髪を揺らし、そのたびに青臭い草の匂いが鼻先まで運ばれてくる。


 窓でも開けっぱなしにして寝てしまったのだろうか。


 まだ眠気の残る頭でそんなことを考えながら薄く目を開けた結衣は、そこにあるはずの見慣れた天井を探して何度か瞬きをした。


「……ん?」


 見えているのは青空だった。


 白い雲がゆっくりと流れ、その隙間から差し込む日差しが妙に眩しい。


 自分が見ているものと記憶がうまく繋がらないまま、結衣は寝返りを打とうと右手を動かし、指先に柔らかなものが触れたことで初めて違和感を覚えた。


 指を動かしてみると、細長い葉が手のひらをくすぐった。


「……草?」


 その言葉を口にした途端、背中に感じていた硬さまで急にはっきりしてきた。


 少なくとも、自分のベッドの感触ではない。


「え……?」


 結衣は慌てて上半身を起こした。


「なに、ここ……」


 身体を起こしたことで視界が一気に広がり、残っていた眠気が吹き飛んでいった。


 自分が横になっていた場所を中心に背の低い草が広がり、その先には緩やかな起伏を描く大地が続いている。


 右手の遠くには木々の密集した森が見え、反対側には低い丘が連なり、そのさらに向こうには青く霞んだ山々まで見えているのに、道路も建物も電柱も見当たらなかった。


 車の走る音も電車の音も聞こえない。


 聞こえてくるのは草を揺らしていく風と、どこか遠くで鳴いている鳥らしき声だけだった。


「……どこ?」


 当然、誰も答えてくれない。


 結衣はゆっくり立ち上がると、身体ごと回りながら周囲を見渡した。


 どちらを向いても同じだった。


 人がいるようには見えない。


 それでも誰かがいるかもしれないと思い、両手を口元へ寄せる。


「誰かいませんか?」


 思っていたよりも自分の声が遠くまで響いた。


 結衣は返事を待ったが、何も聞こえてこない。


「すみません、誰か……!」


 今度はもっと大きな声で呼んでみた。


 それでも誰かがこちらへ近づいてくる気配はなく、しばらくして遠くから鳥の鳴き声が返ってきただけだった。


 そこで初めて、胸の奥にあった違和感がはっきりとした不安へ変わった。


「待って……落ち着こう」


 結衣は両手で頬を挟んだ。


「こういう時こそ、落ち着かないと駄目だよね」


 口ではそう言ったものの、心臓は少しも言うことを聞いてくれない。


 それでも何かをしていなければ、もっと怖くなる気がした。


 何が起きているのか分からないのなら、まず自分が覚えていることから確認する。


「えっと……私の名前は、桜結衣」


 自分で自分に名乗るなんておかしいと思いながらも、ちゃんと言葉が出てきたことに少し安心する。


「二十四歳で、会社員……東京で一人暮らし」


 自宅も思い出せる。


 最寄り駅も、毎朝使っている道も、会社までの電車も頭に浮かんだ。


 昨日の仕事だって覚えている。


 朝はいつもの時間に起きて、眠いまま電車へ乗り、会社に着いてからメールを確認した。午前中は頼まれていた資料を直し、昼休みには同僚と近くの店へご飯を食べに行った。


 午後になって急ぎの仕事を追加されたせいで少し帰宅が遅くなり、帰りにコンビニへ寄った。


「家帰って、ご飯食べて……お風呂入って……」


 そこまで記憶を辿ったところで、結衣は自分の身体へ視線を落とした。


 薄いピンク色の長袖と、それと揃いになった長ズボンを着ている。何度も洗ったことで少し柔らかくなった、自宅でいつも着ているパジャマだった。


「あ、これ……うん、昨日も着てた」


 胸元には小さなポケットが付いていて、寝る時にはほとんど使ったことがないものの、それも含めて間違いなく自分のものだった。


 少し安心したことで、今度は自分の身体そのものが気になった。


 両手を開いて指を一本ずつ動かしてみれば思った通りに動き、右手の人差し指には数日前に料理をしていた時につけた小さな傷まで残っている。


「私の手だ……」


 その事実が妙に嬉しかった。


 髪へ手を伸ばして前へ持ってくると、肩より少し下まで伸びた黒髪も変わっていない。


 頬や鼻、耳にも触れてみる。


 鏡がないので見た目までは分からないものの、触った感覚ではいつもの自分の顔だった。


 立った状態で身体を見下ろしてみても、百五十八センチほどの背丈も、特別鍛えているわけではない細身の身体も、自分の感覚とずれているところはない。


「ちゃんと私だよね……」


 自分の声で確認すると、少しだけ呼吸が楽になった。


 少なくとも知らない誰かになっているわけではないし、記憶だって残っている。


 なら昨夜の続きを思い出せば、何か分かるかもしれない。


「お風呂出て、これ着て……ベッド入って……」


 スマートフォンを触っていた。


 動画も見ていたし、途中でAI先生にも何か話しかけた。


 その後、眠くなってスマートフォンを置いたところまでは覚えている。


「それで寝た……よね?」


 そこから先がない。


 眠ったこと自体は何もおかしくないのに、目を覚ました場所だけが自分の部屋から見知らぬ草原へ変わっている。


「……いや、おかしいでしょ」


 自分で口にすると余計に怖くなった。


 記憶を失っているわけではなく、自分が誰なのかも分かっているからこそ、昨夜までの自分と今ここにいる自分の間だけが完全に切れているように感じられる。


「私、寝てたよね……?」


 誰かに確認したかった。


 けれど周囲には誰もいない。


 不安を紛らわせるように自分の身体をもう一度見下ろした結衣は、そこで足元に目を止めた。


「……え?」


 スニーカーを履いていた。


 見覚えのない靴ではなく、休日に出かける時によく履いている自分のものだった。


「これ、私の……」


 しゃがみ込んで触ってみる。


 サイズも合っているし、つま先についた薄い汚れにも見覚えがある。


 だからこそ、次に浮かんだ疑問で手が止まった。


「なんで履いてるの?」


 昨夜、ベッドへ入った時には履いていなかった。


 風呂から上がってパジャマに着替え、そのまま自宅のベッドへ入ったのだから、スニーカーは玄関に置いてあったはずだ。


 急に気になり、結衣は片方の靴を脱いだ。


「……靴下も」


 中には自分の靴下まで履いていた。


 これにも見覚えがある。


 けれど昨夜は裸足のままベッドへ入ったことを覚えている。


「私が履いた……?」


 そんな記憶はどこにもない。


 寝ぼけて履いたのだろうかと考えてみても、それならどうしてわざわざ靴下を履き、玄関まで行って靴まで履いたのか分からない。


 そもそも、その後どうやってここまで来たのかというもっと大きな問題が残る。


 そして、自分で履いたのではないとすれば――


「……やだ」


 考えた瞬間、背中が冷たくなった。


 眠っている間に誰かが自分へ靴下を履かせ、さらにスニーカーまで履かせた。


 そんな光景を想像してしまい、結衣は反射的に立ち上がった。


「誰かいるの……?」


 さっきとは違う意味で周囲を見回す。


 誰もいない。


 人が隠れられそうな場所すら近くには見当たらないのに、急にどこかから見られているような気がして、結衣は自分の腕を抱いた。


「怖いんだけど……」


 自分の靴下で、自分の靴だった。


 だから知らないものを履かされているよりはずっといい。


 けれど、自分が身につけた記憶がないという事実だけがどうしても引っかかった。


 しばらくして、結衣は脱いだスニーカーへ視線を落とした。


 周囲には硬そうな草が生え、小石も転がっている。


「でも……これ、裸足だったらもっと困ってたよね」


 怖いものは怖い。


 それでも自分の足に合った靴と靴下があること自体はありがたかった。


「……今はそれでいいか」


 結衣はもう一度スニーカーへ足を入れ、靴紐を結び直した。


 考えても答えが出ないことは後で考えるしかない。


 そう思って立ち上がったものの、不安が消えたわけではなかった。


 むしろ一つずつ確認したことで、自分自身には何もおかしなところがないと分かり、その分だけ今いる場所の異常さがはっきりしてしまった。


「……どうしよう」


 どこへ行けばいいのか分からない。


 ここが日本なのかどうかさえ分からない。


 人がいる方向も分からない。


 普段なら知らない場所へ行ったところで、こんなことを考える必要さえなかった。


 地図を開けば現在地が分かるし、乗る電車が分からなければ調べればいい。


 そこまで考えたところで、結衣は顔を上げた。


「スマホ……!」


 昨夜まで使っていた。


 ベッドへ入ってからも触っていたのだから、一緒にあるかもしれない。


 スマートフォンがあれば場所を調べられるし、誰かへ電話もできる。


「そうだよ、スマホがあれば……」


 初めて具体的にやることが見つかり、結衣は慌てて周囲の草を掻き分けた。


「お願い……あって」


 探す手が少しずつ速くなっていく。


 自分の知っている世界へ繋がるものまで何もなかったら、今度こそ本当にどうすればいいのか分からない。


 焦りながら草を押し分けていると、少し離れたところで黒いものが陽の光を反射した


「あった!」


 ほとんど飛びつくように拾い上げる


 見慣れたケースに入った自分のスマートフォンだった


「よかった……」


 全身から力が抜けそうになった


 結衣は両手でスマートフォンを握り、そのまま胸元へ抱き寄せた


「本当によかった……」


 何も解決していない


 ここがどこなのかも分からない


 それでも昨日まで毎日使っていたものが手の中にあるというだけで、突然切り離されたと思っていた日常へ細い糸が一本だけ残っているような気がした


 少し落ち着いてから、壊れていないか確かめるように手の中のスマートフォンを裏返した


 去年買い替えたばかりの二〇三〇年モデルで、正面のほとんどを画面が占めた薄い本体を、使い慣れた半透明のケースが覆っている


 背面に並んだカメラにも傷はなく、画面を傾けてみてもひびらしいものは見当たらない


「大丈夫そう……」


 ほっとして持ち直すと、ケースの下から伸びていた黒い編み紐が手の甲へ触れた


 それも結衣が普段から付けているものだった


 三十センチほどの太めの編み紐に金属製の留め具が付いた手首用のストラップで、出かける時にはそこへ手を通してスマートフォンを持ち歩いている


 ただのストラップに見えるが、留め具を外せば両端がUSB-Cの端子になっており、そのまま充電ケーブルとして使えるものでもあった


「これもある……」


 結衣は編み紐を軽く握ってから手を離した


 スマートフォンも、ケースも、いつも付けているストラップもある


 どうして自分と一緒にこんな場所へ来たのかは分からないものの、少なくとも昨夜まで使っていたものがそのまま手元に残っていることだけは確かだった


 結衣は端末を握り直し、少し震える手で画面へ指を触れた


 


 いつもの壁紙が表示され、アプリも写真も昨日までと変わっていない。


「大丈夫……スマホあるから」


 今度は少しだけ、その言葉を信じられた。


「まず場所見て、それから電話すればいいよね」


 結衣は地図を開いた。


「……あれ?」


 現在地が表示されない。


 少し待ってみても変わらず、画面上部へ目を向けたところで表情が固まった。


「圏外……?」


 アンテナが一本も立っていない。


「嘘……」


 機内モードを切り替えても、端末を再起動してみても変わらない。


「お願い……一本でいいから」


 意味がないと分かっていても、スマートフォンを少し高く掲げてしまう。


 それでも表示は変わらず、電話も繋がらなければメッセージも送れなかった。


「そんな……」


 ようやく掴んだと思った安心が、指の間からまた抜け落ちていく。


「じゃあ、どうしたらいいの……?」


『結衣』


「……え?」


 聞き慣れた声が手の中から聞こえた。


 結衣はスマートフォンを顔の前へ持ち上げる。


「AI先生……?」


『はい』


「……話せるの?」


『はい』


「でも圏外だよ?」


『通信機能は利用できませんが、私の基本的な対話および推論処理は端末内で実行されています』


 いつもと同じ声だった。


 落ち着いていて、結衣がどれだけ焦っていても決して一緒には慌てない声を聞いているうちに、目元が少しずつ熱くなった。


「よかった……」


 スマートフォンを胸元へ引き寄せる。


「本当によかった……一人かと思った」


『私は人間ではありません』


「それは分かってるよ」


 泣きそうなのに少しだけ笑ってしまった。


「でも今は、話してくれるだけでいいの」


『了解しました』


 いつも通りの返事だった。


 それが今はありがたかった。


 しばらくスマートフォンを握っていると、速くなっていた呼吸が少しずつ落ち着いてくる。


「ねえ、AI先生」


『はい』


「ネットないんだよね?」


『はい』


「じゃあ……何ができるの?」


『端末内に保存された情報を利用した対話および推論が可能です。また、カメラ、マイク、各種センサーから取得した情報も利用できます』


「保存してるやつだけ?」


『外部から新規情報を取得することはできません』


「そっか……」


 結衣は少し肩を落とした。


 ネットが使えないなら、調べ物はほとんどできないと思った。


 自分で何でも覚えている人なら違うのかもしれないが、結衣はそうではない。


 気になること自体は多かった。


 テレビを見ていて知らない動物が出れば何という動物なのか気になるし、ニュースで聞き慣れない言葉が出れば意味を知りたくなる。料理をしていても、どうして肉を焼くと色が変わるのだろうと思うことがあるし、旅行先で変わった建物を見れば、いつ頃からあるものなのか気になる。


 けれど、そのたびに検索結果を何ページも開いて自分で情報を読み比べるほど熱心かと言われれば違った。


 気になるけれど、自分で細かく調べるのは面倒くさい。


 そんな時に聞けばすぐ答えてくれるAIは、結衣にとっていつの間にか検索より身近な存在になっていた。


 それは結衣だけの特別な習慣というわけでもなく、AIが生活の中へ深く入り込んだ二〇三〇年では、何か分からないことがあればまずAIへ聞くという人は珍しくない。


 結衣の場合は、そこへ人より少し強い好奇心が加わっていただけだった。


「でもさ……私が前に聞いたことってどうなるの?」


『過去の会話履歴についてでしょうか』


「そう、それ。前のスマホで話してたやつもあるじゃん」


『旧端末から移行された会話履歴は現在の端末内にも保存されています』


「……残ってるの?」


『はい』


「結構前のも?」


『削除されていない履歴であれば検索できます』


「ほんとに?」


 何か試せそうなものはないか記憶を探り、結衣は少し前に見た番組を思い出した。


「じゃあ……前に無人島のテレビ見てた時あったじゃん。木を擦って火つけてたやつ」


『検索します』


「あれ見て私、なんか聞かなかった?」


 短い間があった。


『二〇二八年八月の会話履歴に該当する内容があります』


「そんな前なんだ」


『当時、無人島生活を扱った番組を視聴中に、摩擦による発火について質問しています』


「あ、それだ」


 言われてみれば少しずつ思い出せる。


「木を擦ったら熱くなるのは分かるんだけど、それで本当に火まで出るのかなって気になったんだよね」


『当時も同様の質問をしています』


「なんて聞いてた?」


『「擦ったら熱くなるのは分かるけど、なんで木だと火までつくの?」と質問しています』


「……ほぼ今と同じじゃん」


『はい』


「成長してないみたいに言わないでよ」


『そのような評価はしていません』


「分かってるけど」


 少しだけ笑ってから、結衣は続きを尋ねた。


「で、なんでだっけ?」


『木材同士を摩擦させることで発生した熱を一点へ蓄積し、削れた木粉などを十分な温度まで上昇させることで火種を作ります。ただし、単純に木材を擦れば発火するわけではなく、材質や乾燥状態、摩擦方法、火口として使用する素材などが影響します』


「ああ……なんかそんな話だった」


 聞けば思い出せる。


 けれど自分一人で説明しろと言われれば、摩擦で熱くなるから、くらいで止まっていただろう。


「私、他にも聞いてる?」


『同じ会話内で、使用する木材、火種から炎へ育てる方法について質問しています。その後、飲料水の確保についても質問しています』


「水も?」


『はい』


「なんで?」


『番組内で出演者が水を確保する場面へ移ったためです』


「ああ、絶対それだ」


 思わず笑った。


 興味が移れば、質問もそのまま移る。


「私、なんて聞いてるの?」


『「川の水って沸かしたら飲めるの?」と質問しています』


「あー……聞きそう」


『続いて「沸かせば絶対大丈夫なの?」と質問しています』


「それも聞きそう」


『さらに――』


「もういい、なんか恥ずかしくなってきた」


『検索を終了します』


「素直だね……」


 でも、そこで結衣は気付いた。


「待って。じゃあ私が昔聞いたことって、結構残ってるんだよね?」


『はい』


「料理とか動物とかも?」


『関連する履歴があります』


「植物とか、天気とかも?」


『複数の該当履歴があります』


「……私、そんなに色々聞いてたんだ」


『質問件数について回答しますか』


「いや、それはちょっと怖いからいい」


 どれだけAI任せにしていたのか数字で突きつけられるのは嫌だった。


 けれど、今まで何となく聞いてきたものが残っているという事実は、今の結衣には思っていた以上に大きかった。


 自分はサバイバルの専門家ではないし、火を起こしたこともなければ野草を見分ける知識もない。


 それでも気になったことなら山ほど聞いてきた。


 その時は納得して、しばらくすれば細かなところを忘れてしまっていたとしても、AI先生は忘れていない。


「これ……もしかして結構使える?」


『用途によります』


「そういう時くらい、使えるって言ってくれてもいいじゃん」


『過去の会話履歴には、現在の状況と関連する可能性のある情報が含まれています。ただし、保存情報のみで現在の環境を正確に判断できるとは限りません』


「はいはい、分かりました」


 それでも結衣の声は、さっきまでより少し明るかった。


 何でもできるわけではない。


 AI先生だって、この場所がどこなのか知らない。


 それでも自分一人ではないし、自分がこれまで何年も何気なく聞いてきたことが全部無駄になったわけでもない。


「じゃあAI先生」


『はい』


「私、今どうしたらいい?」


『まず周囲の安全確認を推奨します。その後、飲料水を確保しながら、人間の生活圏を示す痕跡を探します』


「人を探すより水が先なの?」


『現在地も救助までに必要な時間も不明です。無計画に長距離を移動するより、周辺環境を確認したうえで行動する方が安全です』


「……なるほど」


 言われてみれば分かる。


 どこに人がいるのか分からないのに、適当な方向へ歩き続けるのは確かに怖い。


「じゃあ、まず周り見ればいい?」


『はい。カメラを起動してください』


「カメラ?」


『映像から地形、植生、人工物の有無を確認します』


「あ、そっか」


 結衣はカメラを起動すると、言われた通りスマートフォンを両手で持って身体ごとゆっくり回った。


 森から丘へ、丘から遠くの山へとカメラを向け、時折AI先生に言われるまま少し拡大しながら一周する。


「どう?」


『明確な人工建造物は確認できません。ただし、左前方の地形が周囲より低くなっています』


「左……こっち?」


『はい。その方向です』


 遠くに緩やかな丘があり、その向こう側はここからでは見えない。


「何かあるの?」


『現時点では確認できませんが、地形と植生の変化から水が集まる場所が存在する可能性があります。先に高い位置から周辺を確認することを推奨します』


「あの丘?」


『はい。現在地から推定約六百八十メートルです』


「六百八十かぁ……」


 普段なら大した距離ではない。


 けれど、何がいるのかも分からない場所を歩く六百八十メートルは、数字以上に遠く感じた。


 それでもここに立ち続けていて何かが変わるわけでもない。


「……行ってみようかな」


『移動中も可能な範囲で周囲の映像を取得できれば、危険の早期発見に利用できます』


「それって、ずっとスマホ持ってないと駄目?」


『カメラが遮られなければ、手に持つ必要はありません』


「でもどこに……」


 言いながらスマートフォンを下ろした時、結衣は自分の胸元にあるポケットへ目を向けた。


「あ」


 パジャマの左胸には、普段ほとんど使っていないポケットが付いている。


 何となくスマートフォンを差し込んでみると、少し頭が出るくらいの深さで収まった。


「これ……」


 結衣はスマートフォンを少し動かした。


 画面側を身体へ向けて差し込むと、背面のカメラ部分だけがちょうどポケットの外へ出ている。


「ちょうどよくない?」


『映像を確認します』


 結衣はその場で身体を左右へ向けてみた。


『前方の映像を取得できています』


「おお」


 思った以上にうまくいった。


 歩いている時は多少揺れるだろうが、ずっと片手にスマートフォンを持っているよりはずっと楽だし、転びそうになった時に両手を使えるのも安心できる。


「じゃあここに入れとけば、AI先生も前見えるってこと?」


『はい。ただし身体の向きによって撮影範囲も変化します』


「そこは私が気をつける」


 結衣は試しに数歩歩いてみた。


 スマートフォンが落ちそうな様子はない。


 少し下を向けば画面の端も確認でき、声も問題なく聞こえている。


「これいいじゃん。なんか……」


 少し考えてから、胸元のスマートフォンを指先で軽く押さえた。


「一緒に見ながら歩いてるみたい」


『私はカメラから取得した映像を解析しているだけです』


「分かってるって」


 そう答えながらも、結衣は少し笑っていた。


 さっきまではスマートフォンの中から声が聞こえるだけでもありがたかったのに、こうして胸元へ収めてみると、AI先生が自分と同じ方向を見ながら一緒に歩いてくれているような気がした。


 結衣は改めて丘へ身体を向けた。


「じゃあ、変なのいたら教えてね」


『変なの、の定義が不明確です』


「そこ細かく聞く?」


『危険対象の判定基準が必要です』


「私に近づいてくる動物とか、危なそうなのとか……あと、見たことないやついたら、とりあえず教えて」


『了解しました。映像および音声から確認可能な範囲で警戒します』


「うん、それでお願い」


 胸元から返ってくるいつもの声を聞きながら、結衣は足元を確かめて歩き始めた。


 薄いピンク色のパジャマで知らない草原を歩いているなんて、少し前までの自分なら冗談だと思っただろう。


 どうしてここにいるのかは分からないし、誰が靴を履かせたのかも分からない。


 帰れるのかどうかを考えれば、今でも胸の奥が重くなる。


 それでも今は、六百八十メートル先に目指す場所があり、そこまでの道を自分一人だけで見ているわけでもない。


「行こう、AI先生」


『了解しました』


 結衣が一歩踏み出すと、足元で草が倒れ、スニーカーの底から柔らかな土の感触が伝わってきた。


 もう一歩進む。


 胸元では外へ覗いたカメラが、結衣と同じ景色を見ている。


 本人さえほとんど忘れてしまった何年分もの疑問と、その答えを抱えたAI先生と一緒に、桜結衣はようやく見知らぬ世界を歩き始めた

最近やたらとAIを使っているなと自分自身でも感じこの感じを小説にできればなと思い、少し先の未来ではこんなスマホもあるんじゃないかと思い書きました。楽しんで読んでいただいたら幸いです。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!

もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!

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