第十九話 初めての食事と、私のお金
レオルとガルドについて通りへ戻った結衣は、さっきまでより少しだけナールの景色を見る余裕ができていた
町へ入った直後は、建物も人も看板も、目に入るものすべてが珍しくて視線が落ち着かなかったけれど、しばらく歩いているうちに、同じように見えていた建物にもそれぞれ違いがあることが分かってくる
入口を大きく開けて商品を並べているところには人が頻繁に出入りしていて、逆に扉を閉じたままの建物は通り過ぎる人も気に留めない
荷物を運び込んでいる場所もあれば、外に椅子を出して話している人たちもいる
その中で、結衣が急に足を緩めた
「……いい匂い」
少し先から、焼いた肉に似た香りが流れてきていた
さっき店先で嗅いだものより濃く、空腹を思い出すには十分すぎる
レオルたちもその建物へ向かっている
「もしかして、あそこ?」
『レオルとガルドは該当する建物へ接近しています』
「ご飯屋さんだったらいいな」
期待しながら入口へ近づくと、建物の中から何人もの話し声が聞こえてきた
扉は開け放たれていて、そこから木製の机と椅子が見える
何人かが座り、器を前にして食事をしているのを見た瞬間、結衣の期待はほとんど確信に変わった
「ご飯屋さんだ」
『飲食を提供する施設である可能性は高いと判断します』
「やった」
思わず小さく笑ってから、結衣はレオルの後ろについて中へ入った
その直後、少しだけ後悔した
外でも目立っていたのだから、中へ入れば当然もっと目立つ
近くの席にいた男が結衣を見る
別の席にいた女性もこちらを見る
さらに奥から料理を運んできた人まで、一瞬足を止めた
「……やっぱり見られる」
『複数人の視線が結衣へ向いています』
「報告しなくていいから」
結衣はなるべく平然とした顔を作りながら、パジャマの袖を少し引いた
今さら隠せるものでもない
それでも薄いピンク色が急に鮮やかになったような気がして落ち着かなかった
レオルは気にした様子もなく奥の机へ進み、ガルドも向かい側へ腰を下ろす
結衣は二人を見てから空いている椅子を指した
「ここ、いい?」
現地語では言えないので身振りを加えると、レオルがすぐ頷いた
「ありがとう」
結衣も座る
木製の椅子は日本で使っていたものより硬く、背もたれも簡素だったけれど、朝から歩き続けた身体には座れるだけで十分ありがたかった
「……足、楽」
『長時間の歩行後です。休息は有効です』
「今日どれくらい歩いたんだろ」
『正確な移動距離は位置情報を取得できないため算出できません。端末内蔵センサーから概算することは可能です』
「それ後で見たい」
『記録しておきます』
「お願い」
話している間にも、店の中では会話が続いている
結衣は少し意識して耳を澄ませた
相変わらず文章としてはほとんど理解できない
それでも、街道を歩いていた頃とは違う
知っている言葉が時々混ざる
水
食べる
ありがとう
あとは、AI先生に教えてもらった挨拶
全部を理解できるわけではないのに、その部分だけ意味を持って耳へ入ってくるのが不思議だった
「AI先生」
『はい』
「前より言葉が分かれて聞こえる気がする」
『既知語が増加したため、連続した発話から認識可能な音列を抽出しやすくなっている可能性があります』
「最初は全部つながって聞こえてたもんね」
結衣は少し嬉しくなって周囲の会話へ耳を向ける
分からない
でも、以前の分からないとは少し違う
何もない真っ黒な壁ではなく、ところどころに小さな穴が開いて、向こう側が見え始めたような感覚だった
そこへ店の女性がやってきた
年齢は結衣より少し上に見える
髪を後ろでまとめ、両手には何も持っていない
レオルへ何かを話しかけると、レオルが答えた
女性がガルドを見る
ガルドも短く答える
最後に視線が結衣へ向いた
「……私も聞かれるよね」
『その可能性があります』
予想通り、女性が何か尋ねてくる
結衣は最初の一言を聞いたところで諦めた
「AI先生、お願い」
『解析します』
数秒待つ
『注文を確認している可能性が高いと判断します。直前にレオル、ガルドへ同様の構文が使用されています』
「何食べるか聞かれてる?」
『はい。ただし料理名に該当する語彙が不足しているため、選択肢の内容は翻訳できません』
「そもそも何があるか知らないんだけど」
女性は結衣の返事を待っている
結衣は困ってレオルを見る
レオルが何か言い、女性へ短く伝えた
女性が頷く
「レオルが頼んでくれた?」
『その可能性があります』
「助かった……」
結衣はレオルへ向き直る
「ありがとう」
これはもう自然に出る
レオルも何か返した
短い言葉だった
「今の何?」
『過去にも感謝への返答として複数回記録されています』
「え」
結衣はすぐ胸元を見る
「それ、前に分からなかった『どういたしまして』じゃない?」
『その可能性が高まりました。ただし日本語の「どういたしまして」と完全に同一の用法とは限りません。「気にするな」「問題ない」などの意味を含む可能性があります』
「なるほど」
結衣はレオルが使った音を小さく繰り返す
一度では少し曖昧だったのでAI先生に確認した
「発音これで合ってる?」
『第一音節がわずかに異なります』
「じゃあ、こう?」
『先ほどより近似しています』
結衣はもう一度口の中で繰り返した
「覚えとこ」
少しずつだ
ありがとうを覚えた時もそうだった
何度も聞き、意味を確認し、自分で使っているうちに、今では考えなくても出るようになった
これもいつか同じようになるかもしれない
女性が離れていったあと、結衣は周囲の机を見た
食べているものは席によって少し違う
深めの器から湯気が上がっている席もあれば、平たい皿に肉らしいものが乗っている席もある
硬そうなパンをちぎり、汁へ浸している人もいた
「普通においしそう」
『視覚情報から味を判断することはできません』
「感想だから」
結衣は笑いながら、近くの席へちらりと目を向けた
食事を終えた客が立ち上がる
その人は店を出る前に、入口近くにいる別の女性へ何かを渡した
「あ、お金」
結衣の意識が一気にそちらへ向く
「AI先生」
『記録しています』
「早い」
『貨幣取引について継続記録を指示されています』
「そうだった」
客が渡したのは、赤茶色に見える小さな硬貨だった
女性が受け取って数え、何か返す
「今、何枚?」
『客から四枚渡され、一枚返却されました』
「じゃあ三枚?」
『最終的な支払額が三枚である可能性があります。ただし硬貨がすべて同一額面である場合に限ります』
「そこまでまだ分かんないか」
結衣は少し考える
「食べてたもの分かる?」
『直前まで使用していた席は特定できます。器一つとパン状食品を確認しています』
「それで三枚くらい……かもしれない」
『推定として記録します』
「うん」
少しずつ数字が集まってくる
まだ価値は分からない
それでも、何枚で何が買えるかを見続ければ、いつか感覚が掴めるはずだった
その時、料理が運ばれてきた
「あ」
結衣の注意がお金から一瞬で外れる
自分の前へ置かれたのは、湯気の立つ深い器だった
中には薄い茶色の汁が入り、柔らかく煮込まれた野菜らしいものと、小さく切られた肉が見える
横には手のひらより少し大きいパンが一つ置かれた
「……おいしそう」
今度はさっきより声が小さくなった
香りが近い
肉と野菜を煮込んだような匂いに、少し香草らしいものが混ざっている
レオルとガルドにも同じような器が置かれていた
「同じの頼んでくれたんだ」
『外見上は同一料理である可能性が高いと判断します』
レオルがもう食べ始めている
ガルドも特に警戒せず口へ運んだ
結衣はそれを確認してから木製の匙を手に取った
「いただきます」
もちろん二人には意味が分からない
でもこれは言っておきたかった
匙ですくう
少し息を吹きかけてから口へ入れた
「……ん」
思っていたより薄味だった
塩気はある
肉から出たらしい旨味も感じる
香草のような風味は少し慣れないけれど、嫌な味ではない
何より温かい
「おいしい」
頬が緩む
「温かいの久しぶりな感じする」
『本日中にも加熱した水を摂取しています』
「そういう意味じゃなくて、ご飯として」
もう一口食べる
今度は肉も一緒だった
少し硬い
日本で普段食べていた肉より噛む必要があるけれど、空腹の今はそれすら気にならなかった
「これ何の肉だろ」
『外見のみで種を特定することは困難です』
「あとで聞けるようになったら聞こう」
パンをちぎる
街道でもらったものと似ている
そのまま食べるとやはり少し硬かったので、近くの人がしていたように汁へ浸してみた
「あ、こっちの方が好き」
『水分を吸収して軟化しています』
「それは分かるって」
結衣は笑いながら食べ続けた
朝から何度も不安になり、森を歩き、知らない人についてきて、ようやく町へ入った
その町で椅子に座って温かい料理を食べている
ほんの数時間前には想像もできなかったことだった
ふと顔を上げると、レオルがこちらを見ていた
「なに?」
レオルが結衣の器を指し、短く尋ねる
聞き覚えのある言葉が含まれている気がした
「AI先生?」
『食事についての感想を尋ねている可能性があります。「良い」に近い意味で使用される語が含まれている可能性がありますが、確度はまだ低いです』
「おいしいかって聞いてるのかな」
結衣は笑顔で頷いた
「おいしい」
日本語で言ってから親指を立てる
レオルも笑った
「この言葉も覚えたい」
『直前の発話を再生できます』
「お願い」
AI先生が小さな音量で再生する
結衣はその中から、さっき指摘された部分を真似した
「これ?」
『発音は近似しています』
「意味は?」
『現時点では「良い」「おいしい」「問題ない」など肯定的評価を示す可能性があります。食事専用の表現とは断定できません』
「じゃあ食べながら使ってみる」
結衣は器を指し、その言葉を口にした
レオルがすぐ頷いた
ガルドも結衣を見て、同じ言葉を返す
「あ、通じた」
『肯定的評価である可能性がさらに高まりました』
結衣は嬉しくなり、もう一度その音を頭の中で繰り返した
意味を日本語へ一対一で置き換えるのではなく、こういう時に使う言葉として覚えた方がいいのかもしれない
食事を続けているうちに、器の中身は思っていたより早く減っていった
最後にパンで残った汁をすくうようにして食べ終える
「……食べた」
満腹とまではいかない
でも身体の内側が温まり、歩き疲れていた感覚が少しだけ和らいだ
「ごちそうさまでした」
匙を置いて息を吐く
その時になって、結衣は大事なことを思い出した
「……待って」
『はい』
「これ、私払えない」
食べる前にも分かっていたはずなのに、料理を目の前にした瞬間に忘れていた
結衣はレオルを見る
レオルは普通に座っている
「また出してもらうことになる?」
『現地通貨を所持していないため、結衣自身による通常の支払いは困難と考えられます』
「門でも払ってもらったのに……」
急に申し訳なくなる
食べ物まで当然のようにもらい続けるのは嫌だった
どうにかして返したい
けれど、この世界で何がどれくらいの価値なのかすら分からない
そんなことを考えているうちに、レオルが立ち上がった
入口近くの女性のところへ向かう
「あ」
結衣も慌てて立った
レオルが硬貨を取り出す
「AI先生、見て」
『確認しています』
赤茶色の硬貨を数枚
それに、さっき倉庫のような場所で見た明るい色の硬貨が一枚混じっている
女性がそれを受け取り、別の硬貨を何枚か返した
「何枚渡して何枚戻った?」
『赤茶色の硬貨を四枚、明色の硬貨を一枚渡しています。返却されたのは赤茶色の硬貨二枚です』
「三人分?」
『レオル、ガルド、結衣の三名が同一卓で食事をしているため、その可能性はあります。ただし他の支払いが含まれている可能性を排除できません』
「記録して」
『記録しました』
結衣はレオルへ近づいた
「レオル」
振り返った彼へ、自分を指す
次に硬貨を指す
「私の……お金」
言いたいことが伝わらない
結衣は少し困ってAI先生へ頼った
「『私の分、いくら?』って聞きたい」
『「いくら」に相当する表現は未確定です』
「じゃあ『私の食事、お金?』とかでもいい」
『既知語だけで正確な文章を構成することは困難です。身振りを併用することを推奨します』
「やってみる」
結衣は自分の器があった机を指す
自分を指す
レオルの硬貨を指す
そして指を何本か立ててみせる
「私、ご飯。お金、いくつ?」
ほとんど単語を並べただけだった
それでもレオルは少し考えたあと、意味を理解したようだった
指を立てる
一つ
そして、赤茶色の硬貨を一枚取り出した
「一枚?」
結衣も指を一本立てる
レオルが頷く
「AI先生、今の」
『結衣一名の食事代が赤茶色硬貨一枚であることを示している可能性が高いと判断します』
「一枚……」
結衣は硬貨を見つめた
初めて、物とお金がはっきり結びついた
あの温かい汁物とパンで、この硬貨一枚
「これ重要だよね」
『物価推定の基準データとして有用です』
「記録お願い」
『記録しました』
レオルが硬貨を袋へ戻そうとする
「あ、待って」
結衣は思わず止めた
レオルが振り返る
「それ、返したい」
もちろん通じない
結衣は自分を指し、レオルを指し、硬貨を指す
それから胸へ手を当てた
「私、返す」
知っている言葉では表現できない
それでも気持ちだけは伝えたかった
レオルは少し考えたあと、笑って何か言った
「AI先生?」
『解析します』
数秒後、
『確度は中程度です。「今はいらない」または「気にしなくていい」に近い意味である可能性があります』
「でも……」
結衣は眉を下げた
門でも助けてもらった
食事も出してもらった
ここまで連れてきてもらった
これ以上ずっと頼るだけにはなりたくない
「AI先生、『あとで返す』って言える?」
『「後で」に相当する表現は候補があります。「返す」は未確定です』
「じゃあ……『あとで、私、お金』とか?」
『意図が正確に伝わる保証はありません』
「それでも言ってみる」
AI先生から「後で」の候補を教えてもらう
一度発音を直されてから、結衣はレオルへ向き直った
自分を指し、
「あとで」
硬貨を指し、
「私、お金」
最後にレオルへ手を差し出す仕草をした
レオルはしばらく結衣を見ていた
やがて意味が伝わったのか、少し笑って頷いた
「分かった?」
『少なくともレオルは結衣の提案を受け入れた可能性があります』
「よし」
結衣は少しだけ安心した
いつ返せるかは分からない
そもそも、どうやって自分のお金を手に入れるのかも分からない
でも返すと決めた
そのためには、まずこの世界でお金を得る方法を知らなければならない
「AI先生」
『はい』
「私、働かないと」
『生活資源を継続的に確保するという目的であれば、その選択肢は有力です』
「でも文字読めないし、言葉もまだ全然だし……」
自分の手を見る
力仕事に自信があるわけでもない
剣なんて使えない
魔法らしい現象も、レオルが使っているのを見ただけだ
「私、こっちだと何ができるんだろ」
『現時点では判断材料が不足しています』
「やっぱり?」
『ただし、結衣が単独で持つ能力だけを基準にする必要はないと考えます』
「どういうこと?」
『先ほど結衣自身が述べています。結衣が分からない情報を私が補助し、私が持たない現地情報を結衣が取得することで、実行可能な作業範囲は変化します』
結衣は少し黙った
休憩所で荷車を見た時のことを思い出す
自分は荷車を直せない
AI先生も手を動かせない
でも一緒に見たことで、異常を探す手伝いはできた
「……二人でできる仕事を探せばいいってこと?」
『その表現であれば概ね一致します』
結衣の口元が少し緩んだ
「そっか」
何ができるかは、まだ分からない
でも何もできないと決まったわけでもない
「じゃあ探そう」
『何をでしょうか』
「私とAI先生でできること」
結衣はそう言ってから、ふと周囲を見る
そこでレオルとガルドが、もう店を出ようとしていることに気づいた
「あ、待って」
慌てて二人を追いかける
店を出る直前、結衣は一度だけ振り返った
温かい食事を食べた
値段も一つ分かった
赤茶色の硬貨一枚
まだ名前すら知らない、小さな一枚だった
でも今の結衣にとっては、この町で生きるために初めて手に入れた具体的な基準だった
通りへ出ると、午後の光が建物の間から差し込んでいる
人の流れはまだ多い
店も開いている
ナールについて知らないことは、数え始めたらきりがない
結衣はレオルの隣まで追いついた
「次どこ行くんだろ」
『レオルへ確認しますか』
「うん」
そう答えてから、結衣は少し考えた
「……いや」
レオルがさっきから何度か前方へ視線を向けている
このままついていけば分かるかもしれない
「今はついていこう」
『了解しました』
結衣は歩き出した
その途中で、通りの反対側にある店先へ一瞬だけ目が向く
色の違う布が何枚も吊るされている
さっき見つけた布の店とは別の場所で、こちらには完成した服らしいものまで並んでいた
結衣は自分のピンク色の袖を見る
そして店を見る
「……AI先生」
『はい』
「あそこ、覚えといて」
『位置と映像を記録します』
「お金できたら絶対行く」
そう言いながら歩く結衣の足取りは、町へ入った直後よりほんの少しだけ軽くなっていた
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