第十六話 少しだけ、会話になりました
休憩所を出てからしばらくの間、結衣は何度も後ろを振り返っていた
壊れていた荷車はすでに荷物を積み直し、持ち主たちも出発の準備を進めている
ミラの姿もまだ見えた
最後にもう一度手を振ってみると、少し遅れて向こうからも手が上がる
「また会えるかな」
『判断できません』
「こういう時くらい、会えるといいですねって言ってくれてもいいのに」
『再会を希望しているという意味でしょうか』
「うん」
『では、再会できるといいですね』
「……言わせた感じすごいな」
結衣は苦笑しながら前へ向き直った
それでも少し嬉しい
知らない世界で初めて名前を交換した女性だった
ほとんど会話らしい会話はできなかったけれど、水をもらい、一緒に笑った
たったそれだけでも、結衣にとっては十分に覚えていたい出来事だった
街道へ戻ると、レオルの荷車は再びナールを目指して進み始めた
森の中とは違い、道には常に誰かしらの姿がある
荷物を背負って歩く人とすれ違い、少し経つと荷車に追い越され、今度は前方から別の集団がやってくる
聞こえてくる声の量も明らかに増えていた
結衣にはまだ、その大半が意味の分からない音として流れていく
けれどAI先生にとっては違うらしい
『結衣』
「なに?」
『先ほどから複数の話者が同一の短い表現を使用しています』
「どれ?」
『直前にすれ違った二名が互いに使用した発話です。休憩所でも三例記録されています』
「もしかして挨拶?」
『その可能性が高いと判断しています』
「え、教えて」
AI先生が発音する
結衣は歩きながら真似してみたものの、最初の一回はうまくいかなかった
『第二音節が長くなっています』
「こう?」
『先ほどより一致しています』
「もう一回」
何度か繰り返す
日本語にまったくない音というほどではないけれど、意識すると逆に言いにくい
「これでいい?」
『発音上の差異は残っていますが、これまでの話者間にも個人差が確認されています。意味の伝達には支障がない可能性があります』
「じゃあ実際に使ってみたい」
結衣は少し前を見た
ちょうど向こうから、背中に大きな袋を背負った女性が歩いてくる
「……いきなり知らない人に言って大丈夫かな」
『挨拶表現という推定が正しければ、不自然ではないと考えられます』
「推定が間違ってたら?」
『意図と異なる発話になる可能性があります』
「急に怖いこと言うじゃん」
結衣は迷った
その間にも女性は近づいてくる
結局、すれ違う直前になって思い切って教わった言葉を口にした
女性がこちらを見る
一瞬だけ結衣の服装へ視線が落ちたものの、すぐに同じ言葉が返ってきた
「あ」
通り過ぎたあと、結衣は思わず振り返った
「返ってきた」
『同一表現が返答として使用されました。挨拶である可能性がさらに高まりました』
「じゃあ合ってたんだ」
頬が自然に緩む
何かを尋ねたわけでもない
助けてもらったわけでもない
ただ知らない人とすれ違って、挨拶を交わしただけだった
東京にいた頃なら意識もしなかったようなことなのに、今はそれだけで少し嬉しい
「これ、もう覚えたかも」
『定着したかどうかは今後の使用状況から判断できます』
「そういうテストみたいなのいらないから」
結衣は笑いながら歩く
少し前ではガルドが相変わらず周囲を見ながら進み、そのさらに前でレオルがエルガを引いている
休憩所を離れてから道は緩やかな下りになっていた
木々も少しずつ減っている
完全に森を抜けたわけではないものの、道の左右に開けた場所が増え、その一部には低い柵が見えた
「AI先生、あれ何だろ」
『柵で囲われた区画を指していますか』
「うん」
『内部の植生に一定の規則性があります。耕作地である可能性があります』
「畑?」
結衣はそちらへ視線を向ける
確かに、自然に生えている草とは違う
同じくらいの高さの植物がまとまって並んでいる
遠くには人影もあった
「ほんとに町に近づいてる感じするね」
『人為的に利用されている土地の割合は増加しています』
「ナール、もうすぐかな」
その名前を口にした時、前を歩いていたレオルが振り返った
「ナール?」
結衣は前方を指す
「もうすぐ?」
後半は日本語だったので、当然そのままでは伝わらない
レオルが首を傾げる
「あ、そっか」
結衣は胸元へ小さく話しかけた
「AI先生、『ナールまでもうすぐ?』ってどう言えばいい?」
『距離または所要時間のどちらを尋ねますか』
「時間……いや、この世界の時間の言い方知らないか」
『時間単位に対応する語彙はまだ確定していません』
「じゃあ近いか遠いかでいい」
『「近い」に相当する可能性が高い語は、休憩所までの移動中に複数回確認されています。ただし確度は七十六パーセントです』
「それ使ってみる」
AI先生に発音を教えてもらう
結衣は二度練習してからレオルへ向き直った
「ナール、近い?」
レオルの顔に理解したような反応が浮かぶ
前方を指して答える
最初の一語は聞き取れなかった
その後に「ナール」が続き、さらに知らない言葉がいくつか並ぶ
「……そこから分かんない」
結衣は苦笑した
「AI先生、お願い」
『解析します』
少し待つ
『冒頭は肯定表現と推定されます。「ナール」の後に、これまで移動距離または時間に関連して使用された可能性がある音列を確認しましたが、正確な意味は不明です』
「要するに近いのは合ってる?」
『レオルが肯定している可能性は高いと考えられます』
「じゃあもうすぐなんだ」
結衣が嬉しそうに前を見ると、レオルも笑った
そのまま何か続けて話しかけてくる
今度は結衣も最初から全部理解しようとはしなかった
知っている言葉だけ拾う
ナール
行く
人
そして知らない音
「AI先生」
『はい』
「今の、ナールと行くと人は分かった」
『正しく検出しています』
「残りは?」
『これまでの発話記録と照合します』
AI先生が少し間を置く
『全体として「ナールへ行けば人が多い」という意味に近い可能性があります。ただし、「多い」と推定している語については確度が十分ではありません』
「人が多い……」
結衣はさっきの休憩所を思い出す
あそこですら自分にはかなり人が多く感じられた
「ナールって、やっぱり町なのかな」
『その可能性はさらに高まっています』
「楽しみだけど……」
結衣は自分の身体を見る
薄いピンク色のパジャマ
汚れたスニーカー
胸ポケットから覗くスマートフォン
森を歩き続けたせいで、ズボンの裾には土も付いている
「この格好で人がもっといるところ行くの、急に嫌になってきた」
『なぜでしょうか』
「恥ずかしいから」
『休憩所でも同様の服装でした』
「人数の問題なの」
結衣はパジャマの袖を引っ張った
「せめて普通の服ほしいな」
『衣類を入手するには交換手段が必要になる可能性があります』
「……お金ない」
そこで初めて、結衣はかなり現実的な問題に気づいた
「待って。私、この世界のお金一円も持ってないよね」
『日本円については所持状況を確認していません』
「そうじゃなくて現地のお金」
『確認できていません』
「ご飯も服も宿も、お金いるよね?」
『貨幣経済が存在する場合、その可能性があります』
「貨幣経済じゃない可能性もある?」
『現時点では確定していません。ただし街道上で複数の荷車が物資を輸送していること、休憩所で物品のやり取りが確認されたことから、何らかの交換経済が存在する可能性は高いと考えられます』
「そこも調べないと駄目か……」
人里へ着けば何とかなるような気がしていた
けれど考えてみれば、人のいる場所へ着くことと、そこで暮らせることはまったく別だった
今はレオルたちに食べ物や水を分けてもらっている
それがいつまでも続くとは限らない
「仕事もいるよね」
『長期滞在する場合、生活資源を継続的に確保する手段は必要です』
「私、会社員だったんだけど……こっちで何できるんだろ」
パソコンもない
電話もない
書類の形式どころか文字さえ読めない
今まで仕事で身につけてきたことのどれだけが使えるのか、まるで分からなかった
「AI先生、私でもできそうな仕事あるかな」
『現地の職業構造、賃金、雇用形態が不明なため判断できません』
「だよね」
少し不安になる
それでも、以前のように何も分からないことだけで立ち止まる気にはならなかった
「じゃあ着いてから調べよう」
『合理的です』
「まずお金がどうなってるか。次に泊まる場所。それから服」
『食料の継続的な確保も必要です』
「それも」
結衣は指を折りかけて、やめた
「いっぱいあるなぁ」
思わずため息が出る
その声に気づいたのか、ガルドが振り返った
結衣を見る
何か短く尋ねられる
以前なら何を言われたのかまったく分からなかっただろう
けれど、その言葉はここまでの旅で何度か聞いていた
大丈夫か
AI先生が何度か候補として教えてくれ、そのたびに状況と照らし合わせてきた言葉だった
結衣は少し驚く
今回は胸元へ聞く必要がなかった
「大丈夫」
覚えたばかりの現地語で返す
ガルドが少しだけ表情を緩め、前へ戻る
結衣はその背中を見ながら、しばらく黙っていた
「……今の、普通に分かった」
『はい』
「考えなかった」
『同一表現への接触回数が増えたことで、意味との関連付けが定着しつつある可能性があります』
「なんか不思議」
最初は全部ただの音だった
レオルとガルドが何を話しても、どこから一つの単語が始まって、どこで終わるのかすら分からなかった
それがAI先生に何度も教えてもらい、自分でも口にしているうちに、一部だけは日本語へ置き換えなくても意味として入ってくるようになっている
「これならちゃんと覚えられそう」
『継続的な会話環境は言語習得に有利と考えられます』
「AI先生がずっと横で答え教えてくれるのも大きいけどね」
『補助を継続します』
「お願いします」
結衣は少し機嫌を良くして歩いた
街道はさらに広くなっていく
道の左右に見える畑も増え、時々小さな建物が見えるようになった
木造らしい壁と傾斜した屋根を持つ建物の周囲では人が作業をしていて、その近くには柵に囲われた動物の姿もある
結衣は見たことのないものを見つけるたびにAI先生へ尋ねたけれど、AI先生も名前までは知らない
だから形や動きを一緒に観察し、必要なら映像を残しておく
この世界へ来た直後は、AI先生に聞けば答えが返ってくると思っていた
今は少し違う
地球のことならAI先生が知っていることは多い
けれど、この世界のことは二人とも知らない
だから一緒に覚えていく
結衣はその感覚が少し好きになっていた
やがて前方で街道が緩やかに上り始めた
レオルが何か言いながら先を指す
結衣にもナールという言葉だけはすぐ聞き取れた
「ナール?」
レオルが頷く
結衣は指された方向を見る
坂の先は少し高くなっていて、まだその向こうまでは見えない
けれど街道を進む人の数は明らかに増えている
荷車も一台、二台ではない
同じ方向へ進む人たちがいる
反対側からも次々と人が来る
「……ほんとに近そう」
『交通量はこれまでで最も多い状態です』
坂を上るにつれて、結衣の歩幅が自然に少しだけ大きくなった
疲れていないわけではない
それでも、この先に何があるのか見たかった
先に頂上へ着いたガルドが一度立ち止まる
レオルもエルガを進ませる
結衣もその横まで上がり――
「……わ」
思わず声が漏れた
坂の向こうに、森ではない景色が広がっていた
街道の先に畑が続き、そのさらに向こうを長い壁が横切っている
壁の内側からはいくつもの屋根が覗き、場所によっては二階建てらしい建物も見えた
煙突なのか、それとも別の設備なのか、何か所かから細い煙が空へ上っている
街道はそのまま壁へ向かって伸びていて、途中には何台もの荷車と人の列があった
結衣はしばらく言葉を忘れて眺めていた
「AI先生」
『はい』
「あれ……町だよね」
『多数の建造物、防御または境界用途と推定される外壁、継続的な人の往来を確認しています。集落または都市的居住地である可能性は高いと判断します』
「やっと……」
胸の奥が急に熱くなる
草原で目を覚ましてから、どこへ行けばいいのかも分からなかった
水を探し、火を作り、知らない森を歩き、ようやくレオルとガルドに会った
それから二人について道を進み、分からない言葉をAI先生に一つずつ教えてもらった
その先に、本当に人の暮らす場所があった
「やっと着いたんだ……」
『まだ入口までは距離があります』
「今はそういう細かいこと言わなくていいの」
少しだけ目元が熱くなり、結衣は慌てて瞬きをした
泣くほどではないと思う
ただ安心しただけだ
そう自分へ言い聞かせながら、もう一度遠くの壁を見る
その時、レオルが隣で町を指した
「ナール」
今度は迷わなかった
結衣は同じ場所を見ながら頷く
「ナール」
目的地を示す謎の言葉だったものが、ようやく一つの場所と結びついた
ナール
あの壁の向こうにある町の名前
「AI先生、ナールは町の名前で登録していいと思う」
『これまでの用例と現在の状況から、地名である可能性は非常に高いと判断します。暫定分類を地名へ更新します』
「暫定なんだ」
『行政区分や正式名称までは確認できていません』
「まあ、そこは後でいいか」
結衣は笑った
レオルが再び歩き出す
ガルドもその後に続いた
結衣も二人を追いかけようとして、一度だけ立ち止まる
遠くに見えるナールには、森の休憩所とは比べものにならないほど多くの人がいるはずだった
言葉
お金
食べ物
服
泊まる場所
知らなければならないことはいくらでもある
けれど、それを頭の中で一度に並べたところで答えは出ない
草原で目を覚ました時から、やってきたことは同じだった
分からないことがあれば、まず見る
自分で分からなければAI先生に聞く
AI先生にも分からなければ、一緒に情報を集める
そして一つずつ試していく
「よし」
結衣は小さく声を出し、歩き始めた
「行こう、AI先生」
『はい』
「まずはナールに入るところから」
結衣はレオルたちを追いかける
街道の先では、壁へ向かう人々の列が少しずつ大きくなっていた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




