第4話 最初の嘘
王宮の旧礼拝堂は、使われなくなって二十年以上になる。新しい礼拝堂が建てられてからは儀式にも使われず、王族がたまに昔を懐かしんで立ち寄る程度だ。
二度目の人生で、どうして私はそんな場所にいたのだろう。
「行かない方がいいと思いますけど」
馬車の中でセシリアが言った。
「何で?」
「昨日、アルベルト様とあれだけ揉めていらしたので」
「別に揉めてない」
「花瓶を投げようとされたと聞きました」
「誰から」
「旦那様から」
「投げてない」
「投げようとはされたんですね」
「結果が大事よ」
セシリアがため息をつく。馬車の窓から白い石造りの王宮が見えてきた。何度も来た場所なのに、今日は初めて見るような気がする。
レオンには返事をしていない。アルベルトにも、何時に行くとは伝えていない。それでも二人とも来るような気がしていた。
その予感は当たった。
◇
旧礼拝堂の前に立っていたのはアルベルトだった。
「遅い」
「何でいるの」
「来ると言っただろう」
「時間は言ってない」
「午後と言った」
「午後って長いけど」
「君は昔から昼食のあとすぐ動く」
そうだった。腹が立つ。
「レオンは?」
「知らない」
「手紙のこと、知ってたでしょ」
「ああ」
「なら来るって分かってるじゃない」
「来るかもしれない」
アルベルトは礼拝堂の古い木の扉を見る。金具は少し錆びていた。
「先に入る」
「待って。怖い?」
「何でそう思う」
「顔」
「どんな顔だ」
「嫌そう」
「嫌だ」
即答だった。
「ここに来たくなかった?」
「ああ」
「でも来た」
「君が来るからだ」
胸が少しだけ動いた。嫌だ。こういう言い方をされると、まだ好きだと気づかされる。
私は扉に手をかけたが、アルベルトが手首をつかんだ。身体がびくりとする。彼もすぐ離した。
「悪い」
「……何」
「先に俺が入る」
「どうして」
「何があるか分からない」
「何もないでしょ」
「そうならいい」
アルベルトが扉を押す。軋む音と一緒に、冷たい空気が流れてきた。光の届かない内部から、石と埃と古い蝋の匂いがする。
胸が痛んだ。夢と同じ匂いだった。
「……ここ」
中へ入る。足音が響いた。中央に祭壇、左右に古い長椅子、奥には王家の紋章。その祭壇の前で、私は立ち止まった。
「ここで、あなたに刺された」
「ああ」
「血は?」
「残っていない」
「誰か掃除したの?」
「俺がした」
顔を上げる。
「あなたが?」
「ああ」
「何で」
「見られたくなかった」
「誰に」
「誰にも。君がここで死んだことを知っているのは、俺だけだった」
おかしい。
「待って。じゃあ私、どうやってここに来たの? レオン殿下から呼び出されたんじゃないの?」
「違う」
「でも今回の手紙には」
「今回は、そう書いてある」
「今回は?」
「二度目は違った」
「何が」
アルベルトが答える前に、背後で扉が開いた。
「リディア?」
振り返る。レオンだった。金色の髪に穏やかな青い目。華やかな王太子の服装が、古びた礼拝堂では少し浮いて見える。
「やっぱり来ていたんだね」
そしてアルベルトを見ると、笑みが消えた。
「君もか」
「悪いか」
「いや」
レオンは私へ視線を戻した。
「手紙、読んでくれた?」
「読みました」
「なら良かった」
「どうしてここを指定したんですか」
レオンが少し驚く。
「人目がないからだけど」
「ほかにも場所はあります」
「そうだね」
ほんの一瞬、返事が遅れた。
アルベルトが私の前に出る。
「帰れ、レオン」
「君に命令される筋合いはない」
「ここは使われていない」
「知っているよ」
「ならなおさらだ」
二人の間に妙な空気が流れた。私はレオンを見る。
「殿下。三年後、この礼拝堂で何か起きるとしたら、どう思います?」
「ずいぶん変な質問だね」
「答えてください」
「何が起きるかによる」
「人が死ぬとか。たとえば、私がここで殺されたら」
空気が止まった。レオンが笑わなくなる。
「……誰かに脅されているの?」
「答えになってません」
「そんなことを突然言われても」
「知らないんですね」
「当たり前だろう」
少なくとも演技でなければ、レオンは覚えていない。
「すみません。変なことを聞きました」
「いや。何かあるなら相談してほしい。アルベルトに何かされた?」
アルベルトの表情が冷える。私は二人を見ながら、ふと一度目の記憶を思い出した。
レオンはあの時も言った。何かあれば相談してほしい。アルベルトに何かされたなら、自分が助ける、と。
いつだった。
頭の奥が痛む。銀の杯。宴。笑い声。レオン。アルベルト。私は杯を持っている。いや、誰かから渡された。アルベルトだ。そうだ。だから私はずっと、彼が毒を入れたのだと思っていた。
でも、その前。
「……机」
声が漏れた。
「何?」
レオンが聞く。私はもう礼拝堂を見ていなかった。一度目の王宮の小部屋。宴の前。机の上の小さな瓶。透明な液体。そして、自分の手。
「違う……」
息が苦しくなる。アルベルトが近づく。
「リディア」
「触らないで」
彼が止まった。
記憶が戻る。宴が始まる前、私は自分の名が刻まれた銀の杯へ小瓶の液体を注ぎ、それを何食わぬ顔で卓上へ戻した。あとで何も知らないアルベルトが、その杯を私に手渡したのだ。
「……嘘」
膝から力が抜け、アルベルトが支える。今度は振りほどけなかった。
「私が、毒を入れたの?」
アルベルトは答えない。その沈黙が答えだった。
レオンが眉を寄せる。
「何の話だ?」
「殿下。少し、二人にしてください」
「でも」
「お願いします」
レオンは私とアルベルトを交互に見てから、ようやく頷いた。
「分かった。何かあったら呼んで」
扉が閉まる。二人きりになった。
「知ってたのね」
「ああ」
「だから昨日、一度目はあなたじゃないって」
「ああ」
「じゃあ私、自殺したの?」
アルベルトが目を伏せた。
「そうだ」
世界がひっくり返った気がした。一度目だけは、アルベルトが助けようとしてくれたのだと思っていた。でも始まりは違った。私は自分で毒を飲んだ。
「何で?」
「それを思い出すな」
「無理よ。何で私は死のうとしたの?」
「聞くな」
「知りたい」
「駄目だ」
「私のことでしょ!」
「だからだ!」
礼拝堂に声が響いた。アルベルトが怒鳴ったのは初めてだった。彼も驚いたように黙る。
「……悪い」
「何で、そこまで隠すの」
「君がまた死ぬからだ」
「でも一度目の私は」
「知ったから死んだ」
心臓が止まりそうになった。
「何を?」
アルベルトは首を振る。
「言わない」
「私が自殺するほどのこと?」
「ああ」
「それをあなたは知ってる?」
「知っている」
「どうやって」
「君が死ぬ前に言った」
「私が?」
「ああ」
「何て」
長い沈黙のあと、アルベルトは低い声で言った。
「次は、ちゃんと殺して、と」
身体が固まった。二度目の夢とつながる。
「一度目に?」
「ああ」
「死ぬ直前?」
「ああ」
「だから二度目、あなたは覚えていた」
「君との約束を」
胸が痛い。
「それで、本当に殺したの? 馬鹿じゃないの。普通、そんな約束守らないでしょ」
「俺もそう思った」
「じゃあ何で」
「二度目の君が、また同じことを知ったからだ」
ぞっとした。
「また?」
「ああ」
「一度目と同じことを?」
「ああ」
「そして私が、殺してって頼んだ」
「そうだ」
「あなたは嫌だって言わなかったの?」
アルベルトの唇がほんの少し震えた。
「何度も言った。君が聞かなかった。だから最後には、俺が負けた」
風もないのに古い燭台が微かに鳴った。
一度目、私は自分で死んだ。二度目、私は彼に殺させた。なら三度目は。
「塔から落ちたのも、私が頼んだの?」
アルベルトが目を閉じた。
「今は聞くな」
「私が頼んだの?」
長い沈黙。
「三度目だけは、君は死にたくないと言った」
背中が冷えた。
「……え?」
「最後まで、生きたいと」
一度目は自分で死んだ。二度目は殺してくれと頼んだ。三度目は生きたいと願った。
それなのに私は死んだ。アルベルトの手で。
「じゃあ三度目は、どうして私を殺したの?」
アルベルトは答えなかった。
けれど、その顔を見た瞬間、初めて思った。
私が本当に恐れるべきなのは、彼が私を殺したことではないのかもしれない。
三度も、私が死ななければならなかった。その理由なのかもしれない。
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