第2話 殺した男
「覚えているの?」
ようやく、それだけ言えた。アルベルトは答えない。私は椅子の背に手をついた。逃がしたくないのに、足から力が抜けそうだった。
「ねえ。今、四度目って言ったよね」
「言った」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「分からない」
「分かっているだろう」
「分からない!」
声が大きくなり、扉の向こうで誰かが動く気配がした。父か、セシリアか。私は息を整えて声を落とす。
「あなたも戻ってるの?」
アルベルトはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「そうだ」
「いつから」
「最初から」
「最初って」
「君が最初に死んだ時から」
頭の中で、三度の死が一度に蘇った。だったら二度目も三度目も、彼は全部知っていたことになる。
「あなた、知ってたの? 私が死ぬって」
「知っていた」
「二度目も?」
「知っていた」
「三度目も?」
「知っていた」
「それで、二度目も三度目も、私を殺したの?」
「そうだ」
あまりに簡単だった。言い訳もしない。否定もしない。その落ち着きが腹立たしくて、私は近くのクッションを投げつけた。アルベルトは避けず、胸に当たったクッションが床へ落ちる。
「最低」
「ああ」
「人殺し」
「ああ」
「少なくとも二度、あなたは自分の手で私を殺した」
「……そうだ」
「そうだじゃない!」
今度は卓上の花瓶に手を伸ばした。さすがにそれは投げる前に腕をつかまれる。
「離して!」
「これは危ない」
「誰のせいよ!」
「俺だ」
「だったら離せ!」
腕を振りほどくと、花瓶の水が少しこぼれ、白い花が揺れた。アルベルトは私から半歩離れた。昔からそうだった。私が本気で怒ると、彼は言い返さずに待つ。その癖まで同じなのが、余計に腹立たしい。
「二度目。私、あなたに刺された」
「ああ」
「あなた、泣いてた」
アルベルトの目がわずかに揺れた。覚えているのだ。
「泣きながら私を刺した」
「……そうだ」
「意味が分からない。三度目だって、あなたがいた。私は塔から落ちた。あなたが落としたの?」
初めて、アルベルトが答えるまでに間があった。
「……俺だ」
胃の底が冷えた。やっぱり、三度目も彼だった。
「一度目も? 毒を入れたのも、あなた?」
「違う」
「でも杯を渡した」
「渡した」
「じゃあ誰が入れたの?」
アルベルトの唇が動いたが、何も言わなかった。
「言って」
「今は言えない」
「何で?」
「君が思い出していないからだ」
「……何を?」
「それも言えない」
私はしばらく彼を見た。二度目と三度目に自分の手で私を殺したことは認めるのに、肝心な理由だけを言わない。
「ふざけないで。私は三回死んでるの」
「知っている」
「あなたは全部覚えてるんでしょう? なら説明してよ」
「できない」
「何で!」
「説明すれば、同じことが起きる」
その一言で、私は止まった。
「同じこと?」
アルベルトは視線を逸らした。
「三度とも、君は同じ事実に辿り着いた。そして、その先で死んだ」
「あなたが殺すからでしょ」
「そうだ」
「なら殺さなければいい」
「それができれば、とっくにそうしている」
意味が分からない。彼はしばらく黙り、やがて低く言った。
「今回は、君を俺に縛りつけない」
思っていた言葉と少し違った。
「どういう意味?」
「婚約は破棄する。俺から離れろ」
「それで私が助かるの?」
「助かるとは言っていない」
私は目を瞬いた。婚約破棄を望んだのは私の方なのに、その理由を問えば、彼は私を助けるためだとも言わない。ただ、自分から遠ざけようとしている。
「父上には俺から話す」
「待って。さっき、四度目でもそう言うのかって」
「確認したかっただけだ」
「何を?」
「君が今回、どこまで覚えているか」
ぞっとした。
「私を試したの?」
「ああ」
「私、何を忘れてるの」
「かなり」
「どれくらい?」
「死ぬ前のことを。特に二度目と三度目だ」
確かに妙だった。私は死んだ瞬間を覚えているのに、その直前が曖昧だ。二度目、私はどこにいた。三度目、なぜ塔に上った。思い出そうとすると、頭の奥が霞む。
「あなたは覚えてるの?」
「全部」
「だったら言って」
「駄目だ」
「どうして」
「君がまた同じ選択をするからだ」
「私が?」
「ああ」
「私、何をしたの」
アルベルトは私を見た。ひどく疲れた目だった。二十三歳の顔ではない。その時初めて気づいた。九年を生きたのは私だけではない。彼もまた、三度のやり直しを覚えたままここにいる。
「二度目、君は俺に言った」
「何を」
「殺してくれと」
息が止まった。
「……嘘」
「嘘じゃない」
「そんなこと言わない」
「言った」
「私が?」
「ああ」
「あなたに?」
「ああ」
「殺してって?」
「そうだ」
笑おうとしたが、笑えなかった。
「覚えてない」
「だから言いたくなかった」
「証拠は?」
「ない」
「なら信じない」
「それでいい」
「よくない!」
机を叩いた。掌が痛い。
「私はあなたを憎んできたの。二度目に戻った時も、三度目に戻った時も。どうしてってずっと考えた」
最初の死のあと、私はまだ彼を信じていた。毒を入れたのは別人で、アルベルトは助けようとしてくれたのだと思っていた。二度目に戻った時も、未来を変えられると思って彼を愛した。それなのに最後には、彼の短剣が胸にあった。
三度目は彼を避けた。それでも最後にはまた近づいて、また愛してしまった。そして塔から落ちた。
「あなたのこと、嫌いになろうとした。ずっと。でも、できなかった」
言ってしまった。最悪だ。アルベルトが目を伏せる。
「そうか」
「何よ、その言い方」
「俺は、できた方がいいと思っていた」
「何が?」
「俺を嫌いになることだ。今回こそ、その方がいい」
アルベルトは背を向けて扉へ向かう。
「待って」
「婚約は破棄する」
「そうじゃなくて」
「君は俺から離れろ」
「何で?」
彼の手が扉に触れた。
「これで終わる」
「終わらない!」
アルベルトが振り返る。私は自分でも驚くほど大きな声を出していた。
「何も分からないままなんて嫌」
「知れば死ぬ」
「知らなくても三回死んだ!」
アルベルトの顔が歪んだ。怒りでも悲しみでもない。痛そうな顔だった。
「だからだ。だから今回は、何も知るな」
「嫌」
「リディア」
「嫌よ」
もう逃げるだけでは駄目だ。さっきまで私は、婚約を破棄して彼から離れれば助かると思っていた。でも彼は全部知っていて、それでも私に離れろと言う。その理由を知らないまま逃げることなどできない。
「一つだけ答えて。私があなたから離れたら、死なないの?」
沈黙が長かった。それだけで分かった。
「……死ぬのね」
「可能性はある」
「どれくらい?」
答えない。
「婚約を破棄すれば、三度目より早く死ぬかもしれない」
「……何それ。なのに離れろって言ったの?」
「ああ」
「矛盾してる」
「分かっている」
「じゃあ、どうすればいいの」
アルベルトは答えなかった。
その時、扉が叩かれた。
「リディア。そろそろ王宮へ向かわねばならん。話はついたか?」
父の声だった。私はアルベルトを見る。婚約を破棄すれば早く死ぬかもしれない。続ければ、三年後に彼に殺される。
「……婚約発表は延期します」
扉の向こうで父が息を吐く気配がした。
「分かった」
足音が遠ざかる。私は椅子に座った。力が抜けた。
「帰って。今日は顔を見たくない」
「ああ」
「でも、明日来て」
アルベルトが振り返る。
「話の続きをする」
「するつもりはない」
「私にはある」
「リディア」
「私には離れろって言って、自分は何も話さず帰るの?」
「……」
「明日」
「行かない」
「なら私が行く」
「来るな」
「行く」
「リディア」
「三回とも、私の最期にいた責任くらい取ってよ」
長い沈黙のあと、アルベルトが小さく言った。
「……分かった」
扉を開く。その背中に、私はどうしても聞いておきたかったことを投げた。
「アルベルト。二度目の私、本当にあなたに殺してって頼んだの?」
「頼んだ」
「その時、私は泣いてた?」
彼の手が止まる。
「いや」
「じゃあ」
「笑っていた。俺に、ありがとうと言った」
扉が閉まった。
私は一人になり、胸に手を当てた。そこには傷一つないのに、急に短剣の冷たさを思い出した。
そして一瞬だけ、忘れていたはずの声が聞こえた気がした。
私自身の声だった。
――お願い。
そこで記憶は途切れた。
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