第1話 四度目の婚約者
死ぬのは、思っていたより静かだった。一度目は毒だった。宴の席で、アルベルトが私に銀の杯を手渡した。口をつけて間もなく、喉が焼けるように熱くなって息ができなくなった。それでも悲鳴は出なかった。目の前にはアルベルトがいた。私の婚約者。彼は異変に気づくと杯を奪い取って床に叩きつけたが、もう遅かった。私は彼の腕の中で死んだ。
二度目は短剣だった。胸に一本。握っていたのはアルベルトだ。一度目より、ずっと痛かった。彼の顔がひどく近くて、頬に私の血がついていたことを覚えている。何かを叫んでいたけれど、その声はもう聞こえなかった。
三度目は塔から落ちた。最後に見たのは、私へ伸ばされた彼の手だった。届かなかったのか、それとも届かせなかったのか。そこだけは今でも分からない。
そして。
「お嬢様?」
目を開けると、白い天蓋があった。薄青色のカーテン。その向こう、窓辺には三年前に枯れてしまったはずの白薔薇が咲いている。私はしばらく瞬きをしてから、ようやく声を出した。
「……嫌」
枕元にいたセシリアが首を傾げる。
「はい?」
「嫌」
「何がでしょう」
私は両手で顔を覆った。
「もう嫌」
四度目だった。
◇
「今日はクラウゼ公爵家の皆様がお見えになりますからね。午後には王宮です。お嬢様とアルベルト様の婚約が正式に発表されます」
セシリアが髪を梳きながら言う。知っている。
「それにしても、ようやくですね」
それも知っている。私は鏡の中の自分を見た。十九歳。死ぬ直前の私は二十二歳だったから、同じ三年間をこれまで三度繰り返したことになる。正確には三度目を終えて、今から四度目が始まる。合わせれば九年だが、そんな計算に意味はない。十九歳の身体で、私はもう三回死んでいる。
「お嬢様?」
「なに」
「お顔の色が」
「寝不足よ」
「昨夜は早くお休みになりましたけど」
「じゃあ寝すぎ」
セシリアが困った顔をした。その顔も知っている。この三年間で何度見ただろう。彼女は何も知らない。一度目も、二度目も、三度目も、いつも私の側にいて、そして毎回、私より先に泣いた。だから今回だけは、泣かせたくない。
「セシリア」
「はい」
「今日の婚約発表、なくなるかもしれない」
櫛が止まった。
「……はい?」
「なくすから」
「お嬢様?」
「婚約を断る」
鏡越しにセシリアと目が合った。かなり長い沈黙だった。
「今、なんと?」
「だから、婚約を断るの」
「アルベルト様との?」
「ほかに誰がいるの」
「ですが、昨日まで楽しみにしていらしたではありませんか」
そうだった。この日の私は幸せだった。少なくとも最初の人生では、朝から何度も鏡を見て、ドレスを三着も着替えて、アルベルトが来るのを待っていた。
愚かだったとは思わない。あの頃の私は何も知らなかっただけだ。私は彼を愛していた。たぶん、今も。それが一番腹立たしい。三度死んでも、顔を思い出すだけで胸が痛くなる。恐怖なのか恋なのか、もう自分でも区別がつかなかった。
「とにかく、お父様に話す。今すぐ」
私は立ち上がった。
「お待ちください、お嬢様。せめてもう少しお考えを」
「九年考えた」
「九年?」
「なんでもない」
口が滑った。セシリアが怪訝そうに眉を寄せるので、私は視線を逸らした。
一度目に戻ったとき、彼女には全部話したことがある。三年後に自分が死ぬこと。アルベルトがそこにいること。そして、これから起きること。最初のうちはセシリアも信じようとしてくれた。でも未来が少しずつ変われば、私の予言も外れていく。最後には、彼女は私の心が病んでいるのだと思った。当然だ。十九歳の令嬢が突然「未来から戻ってきた」と言い出すのだから。
だから二度目からは誰にも話さなかった。今回もそうする。説明はいらない。アルベルトから離れて、三年後の自分の死から逃げればいい。
◇ ◇
「婚約を取りやめたい?」
父は紅茶を飲む手を止めた。
「はい」
「今日?」
「今日です」
「今日、正式発表なのだが」
「だから今日です」
父の眉間に深い皺ができる。最初の人生ではこの皺を見るだけで怖かったが、今は別に怖くない。死ぬよりはずっとましだ。
「理由を聞こう」
「アルベルト様と結婚したくありません」
「それは理由になっていない」
「十分です」
「昨日までは嬉しそうだっただろう」
今日二回目だ。
「気が変わりました」
「一晩でか」
「はい」
「何かあったのか?」
ありました。未来で三回ほど殺されました――とは言えない。
「ありません」
父はため息をついた。
「リディア。これは子供同士の約束ではない」
知っている。フェルマー侯爵家とクラウゼ公爵家は王国でも有数の二家で、私とアルベルトの婚姻は家同士だけではなく王太子派の結束そのものにも関わっている。一度目は、そんな事情すら嬉しかった。好きな人と結婚できるうえ、家の役にも立てる。私は自分を幸運だと思っていた。
「分かっています」
「なら」
「それでも嫌です」
父が黙った。私は膝の上で手を握る。震えていたが、父が怖いわけではない。その名前を口にするだけで身体が思い出すのだ。アルベルト。銀の杯。短剣。そして塔。
「……本人とは話したのか?」
「まだです」
「なら話せ」
思わず顔を上げた。
「いいのですか?」
「いいとは言っていない。アルベルト殿は、もうこちらへ向かっている。おそらく半刻もせず到着する」
心臓が跳ねた。早い――いや、知っていた。この日、彼は予定より少し早く来る。一度目の私は、それを喜んだ。
「直接話せ。それでも意思が変わらないなら、婚約発表は延期する」
「破棄ではなく?」
「まず延期だ」
十分だった。今日さえ乗り越えればいい。未来は変わる。三度目までとは違う未来にする。
「ありがとうございます」
立ち上がったところで扉が叩かれ、執事が入ってきた。嫌な予感がした。
「旦那様」
「どうした」
「クラウゼ公爵家のご子息がお見えです。アルベルト様が」
来た。
◇ ◇ ◇
客間の扉の前で、私は動けなかった。この扉一枚を隔てた向こうに、私が三度の死の原因だと思っている男がいる。
「お嬢様」
セシリアが小声で呼ぶ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
嘘だった。手のひらは冷たく、息も浅い。
馬鹿みたいだと思う。私は彼のことをよく知っている。笑った顔も、寝起きの顔も、酔えば少しだけ口数が増えることも、私が甘い菓子を食べすぎれば眉をしかめることも、寒い夜には私より先に毛布をかけてくれることも。
全部知っているから、怖い。知らない人に殺されたのなら、きっとこんなふうにはならなかった。
私は扉を開けた。
アルベルトが立っていた。黒い礼装に、濃い灰色の髪。少し冷たく見える青い目。十九歳の私より四つ年上だから、今は二十三歳だ。三度目の最後に見た彼より、ずっと若い。
こちらを向いた彼と目が合う。その瞬間、胸が締めつけられた。
会いたかった。
そう思ってしまった自分が、心底嫌だった。
「リディア」
声まで同じだった。私は返事をしなかった。
アルベルトが一歩近づくと、身体が勝手に後ろへ下がった。彼の足が止まり、青い目がわずかに細くなる。
「……どうした?」
その言い方まで、最初の人生と同じだった。何も知らない顔をしている。
そうなのだ。この人は、まだ何もしていない。この時点では私を毒で死なせてもいないし、胸を刺してもいない。塔から落としてもいない。目の前にいるのは、まだ私を殺していないアルベルトだ。
それでも、私にとっては違う。
「二人で話したいの」
父が驚いた顔をし、アルベルトも少しだけ眉を動かした。
「構わない」
父は何か言いたそうだったが、結局セシリアと一緒に部屋を出た。扉が閉まり、二人きりになる。
しばらく、どちらも何も言わなかった。私はアルベルトを見て、彼も私を見ていた。
「何があった?」
「婚約を……」
声が震えた。私は一度息を吸う。
「婚約を破棄してください」
アルベルトの表情が止まった。
「理由は?」
「あなたと結婚したくない」
言えた。九年かかった。いや、私にとっては九年だ。彼にとっては今日初めて聞く言葉のはずだった。
「嫌いになったのか」
「そうです」
嘘。
「ほかに好きな男が?」
「いません」
これは本当。
「家同士の問題なら」
「違います」
「なら」
「あなたが嫌なの」
アルベルトが黙った。傷つけただろうかと思うと、少しだけ胸が痛んだ。三回殺された相手にまで罪悪感を持つ自分が嫌になる。
「お願い。もう私に関わらないで」
「リディア」
「私も、あなたに関わらない。そうすれば――」
死なない。
続きは飲み込んだ。
アルベルトはしばらく私を見ていた。妙だった。怒らない。驚かない。悲しんでもいない。その顔を見ているうち、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
私は、この表情を知っている。
二度目でも三度目でもない。もっと最後だ。塔から落ちる直前、彼はこんな顔をしていた。何かを諦めたような、何かを決めたような、それなのにひどく苦しそうな顔。
アルベルトが目を閉じ、長く息を吐いた。
「……四度目でも、そう言うのか」
身体が固まった。音が消えたような気がした。何も聞こえない。ただ、自分の心臓だけがひどくうるさい。
「……今、何て?」
アルベルトは答えなかった。答える必要もなかった。
四度目。
彼は確かにそう言った。私しか知らないはずの言葉を。
アルベルトは三年間を――いや、三度の私の死を、覚えている。
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