第9話「血塗られた氷刃と熱の渦」
遠くの闇を切り裂くように響き渡った猟犬たちの咆哮は、辺境の屋敷に張り詰めていた甘い空気を一瞬にして凍てつかせた。
俺を抱きかかえるクロードの腕の力が、わずかに強くなる。
彼の胸板越しに伝わってくる鼓動は、先程までの荒々しい熱情から、氷のように冷たく規則的なリズムへと変貌していた。
窓の外から吹き込む微かな隙間風が、雪の匂いとともに鉄の錆びたような血の気配を運んでくる。
王都から放たれた暗殺者たちが、ついにこの領地の結界を破り、屋敷の敷地内へと侵入したのだ。
俺の体は、Ωとしての周期の熱に浮かされ、指先一つ動かすことすら困難な状態に陥っていた。
みぞおちの奥で燃え盛る炎が、理性を容赦なく焼き尽くそうと暴れ回っている。
荒くなる呼吸とともに、自分自身の体から発せられる熟れた果実のような扇情的な香りが、部屋の空気を重く沈み込ませていく。
『……っ、よりによって、こんな時に』
俺は心の中で毒づきながら、霞む視界でクロードの横顔を見上げた。
彼の彫刻のように美しい横顔には、もはや一片の感情も読み取ることができなかった。
深い青色の瞳は、闇に潜む獲物を狩るための冷酷な光を宿し、一切のまばたきすら忘れたかのように静まり返っている。
彼は無言のまま滑らかな足取りで居間を抜け、隣接する俺の寝室へと足を踏み入れた。
天蓋付きの広いベッドに歩み寄ると、俺の体を壊れ物を扱うかのようにそっとシーツの上へ横たえる。
背中が柔らかい布地に触れた瞬間、体の奥底から這い上がってくる熱がさらに強さを増し、甘い吐息が唇から漏れ出た。
「ここから動かないでください」
クロードの声は、地鳴りのように低く、そして絶対的な命令の色を帯びていた。
彼の手が俺の額にかかる汗に濡れた前髪をそっとなで、それから静かに離れていく。
その体温が遠ざかることに、本能が狂おしいほどの喪失感を覚え、俺は無意識に彼の上着の裾を掴もうと虚空へ手を伸ばしてしまった。
だが、俺の指先が彼を捉えるよりも早く、重厚な木製の扉の向こう側で、鈍い衝撃音と微かな足音が響いた。
侵入者たちはすでに、この寝室のすぐ外の廊下まで迫っている。
クロードは俺に背を向け、漆黒の騎士服に身を包んだ広い背中を扉の方へと向けた。
彼の右手が、腰に帯びていた長剣の柄に静かに添えられる。
鋼が鞘と擦れ合う冷ややかな音が、熱に浮かされた俺の鼓膜を鋭く打った。
月明かりに照らされた銀色の刃が、抜刀の動作と同時に冷たい残光を引く。
「殿下は目を閉じておいでください」
背中越しのその言葉を合図にするかのように、寝室の扉が外側から乱暴に蹴り破られた。
砕け散る木片とともに、黒装束に身を包んだ複数の影が部屋の中へとなだれ込んでくる。
彼らの手には、それぞれに異なる形状の凶器が握られていた。
狙いは間違いなく、王位継承の道具として最高の価値を持つΩである俺だ。
刺客の一人が、最短距離でベッドに向けて鋭い短剣を突き出そうと地を蹴る。
だが、その刃が俺に届くことは永遠になかった。
クロードの姿が、ふっと視界から消えたかのようにブレた。
次の瞬間には、空気を切り裂く鋭利な刃の軌跡が、黒装束の男の首筋を正確に薙ぎ払っていた。
鮮血が弧を描いて宙に舞い、磨き上げられた床板に黒い染みを作って散る。
悲鳴を上げる間もなく、一人の刺客が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
残りの男たちが一瞬だけ足を止め、目の前に立ちはだかる死神の姿に背筋を凍らせる。
しかし、クロードは彼らに恐怖を反芻する時間すら与えなかった。
長い脚が床を蹴り、彼の巨躯が滑るように敵の懐へと入り込む。
銀の刃が月光を乱反射し、舞い踊るように次々と黒い影を刈り取っていく。
無駄な動きが一切ない、極限まで研ぎ澄まされた殺戮の技術。
彼の剣が振るわれるたびに、肉を断ち切り、骨を砕く生々しい音が部屋の中に響き渡った。
血の飛沫が壁を汚し、死の匂いが俺の甘いフェロモンの香りを塗りつぶしていく。
それは、目を背けたくなるほど残酷で凄惨な光景のはずだった。
だが、熱でドロドロに溶けかけた俺の脳は、その凄まじい暴力から微塵も恐怖を感じていなかった。
むしろ、返り血を浴びながら冷徹に敵を排除していく彼の姿に、背筋がゾクッとするほどの美しい魅力を感じてしまっている。
彼が振るう剣は、すべて俺を守るためのものだ。
俺という存在を害そうとするあらゆるものを、彼がその腕力で完全に無に帰していく。
その事実が、Ωとしての本能をかつてないほど強く刺激し、みぞおちの奥から熱い疼きを湧き上がらせた。
最後の刺客が、クロードの剣によって心臓を貫かれ、重い音を立てて床に倒れ伏す。
静寂が、再び部屋の中へと舞い戻ってきた。
血生臭い空気の中で、クロードだけが静かに立ち尽くしている。
彼の銀色の髪には赤い血の飛沫が点々と付着し、氷のように冷たい青い瞳が、足元に転がる死体を見下ろしていた。
剣の刃から赤い雫が滴り落ち、床に小さな水たまりを作っている。
『……クロード』
声に出して彼を呼ぼうとしたが、喉の奥がカラカラに乾ききり、かすれた吐息しか漏れなかった。
自分の体が、熱という名の鎖に縛り付けられ、どうしようもないほど彼を求めているのがわかる。
彼が剣を振り払い、鞘に納める鋭い音が響く。
そして、彼はゆっくりと踵を返し、再びベッドの上で喘ぐ俺の方へと向き直った。




