第8話「夜の帳と抗えぬ熱」
庭園での一件からさらに数日が過ぎ、辺境の屋敷には平穏な時間が流れていた。
窓の外では細かい雪が舞い始め、空は分厚い鉛色の雲に覆われている。
夕食を終えた後、俺は自室の隣に設けられた小さな居間で、暖炉の火に当たりながら本を読んでいた。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、静寂な部屋に響いている。
クロードは俺の向かいの長椅子に腰掛け、領地の報告書に目を通していた。
彼がページをめくる微かな衣擦れの音が、不思議と心地よいリズムを生み出している。
こうして二人きりで夜の時間を過ごすことは、すでに毎日の習慣となりつつあった。
会話がなくても苦にならない。
彼が同じ空間にいるという事実だけで、張り詰めていた神経が嘘のように安らぐのだ。
だが、その平穏な空気は、俺の体の内側から湧き上がる異変によって徐々に侵食され始めていた。
数ページ前から、活字がまったく頭に入ってこない。
喉の奥がカラカラに乾き、皮膚のすぐ下を微弱な電流が這い回っているような不快感があった。
手足の先が異様に冷たいのに、体の中心部だけが焼け焦げるように熱い。
そして何より、自分の体から発せられる匂いが、明らかに変化しているのを感じていた。
熟れた果実が限界まで甘みを増し、崩れ落ちる直前のような、扇情的な香り。
Ωの発情期、その前兆だった。
薬学の本で読んだ知識が、容赦なく俺に現実を突きつける。
王城を出る前、初期の微熱を経験したことで周期が早まっているのかもしれない。
このままでは、理性を失い、ただ本能のままにαを求める獣へと成り下がってしまう。
『冗談じゃない。俺は……そんなものに支配されたりしない』
本を持つ手に力を込め、紙がくしゃりと音を立てて歪んだ。
現代日本で培った人間としての尊厳が、抗いがたい肉体の変化に対して激しい拒絶反応を示している。
だが、どんなに強く念じても、みぞおちの奥からせり上がってくる熱を抑え込むことはできなかった。
呼吸が少しずつ荒くなり、額に冷たい汗がにじむ。
「殿下」
不意に、静寂を破る低い声が響いた。
顔を上げると、クロードが報告書から目を離し、こちらをじっと見つめていた。
彼の青い瞳は、暖炉の炎を反射して薄暗いオレンジ色に揺らめいている。
その視線は、俺の首元から胸のあたりをねっとりと舐めるように這い回っていた。
「……なんでもない。ただ少し、部屋が暑いだけだ」
震える声を必死に押し殺し、強がって見せる。
だが、彼は騙されなかった。
報告書を静かに机に置くと、長椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
彼が近づくにつれて、雪の森のフェロモンが濃密に押し寄せてきた。
その匂いを嗅いだ瞬間、俺の体はびくっと大きく跳ね、膝の力が完全に抜け落ちた。
「近寄るな……っ」
本を床に落とし、椅子の上で身を縮める。
だが、彼は足を止めることなく、俺のすぐ目の前で膝をついた。
彼の大きな手が伸びてきて、俺の汗ばんだ額をそっと拭う。
剣だこのある硬い指先の感触が、ひどく心地よくて、思わず彼の手に頬を擦り寄せそうになった。
そんな自分自身の行動に絶望し、奥歯を強く噛み締める。
「周期が始まったのですね」
彼の声はひどくかすれており、押し殺した熱を孕んでいた。
「違う……俺は、こんなもの認めない。薬を……薬を飲めば……」
「抑制剤は体に大きな負担をかけます。それに、もう間に合わない」
彼の手が俺の頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げさせる。
至近距離で交わる視線。
彼の瞳の孔は大きく開き、深い青色の奥底に、理性という枷を食い破ろうとする野獣の姿が見えた。
彼もまた、俺が放つ強烈なΩの香りに当てられ、αとしての本能を刺激されているのだ。
それでも、彼は狂いそうなほどの衝動を必死に押さえ込み、ただ静かに俺に触れ続けている。
「私が恐ろしいですか」
囁くような声に、俺は小さく首を振った。
怖いのではない。
このまま彼に身を委ねてしまえば、どれほど楽になるかを知っている自分が恐ろしいのだ。
自立心を捨て、ただ彼に愛され、彼に依存して生きる未来。
それが、これほどまでに甘美で抗いがたい誘惑であることに、俺は絶望していた。
「……助けて」
気がつけば、その言葉が唇からこぼれ落ちていた。
現代人としてのプライドも、契約結婚という体裁も、すべてが熱の中に溶けて消えていく。
ただ、目の前にいるこの男の体温だけがほしかった。
その一言が、彼の理性の最後の一線を断ち切った。
クロードは俺の腰に腕を回し、椅子から軽々と抱き上げる。
視界がぐるりと反転し、彼の広い胸に顔が埋もれた。
彼の心臓が、耳元で狂ったように激しい鼓動を打ち鳴らしているのが聞こえる。
寝室へ向かおうと、彼が重い足取りで歩き出したその時だった。
遠くの闇を切り裂くように、屋敷の境界線を守る猟犬たちの狂ったような咆哮が響き渡った。
クロードの足がピタリと止まる。
彼を包んでいた甘く重い熱気が、一瞬にして氷のように冷たい殺気へと変貌した。
俺を抱きかかえる腕の力はそのままに、彼は窓の外の暗闇へと鋭い視線を向ける。
「……鼠が紛れ込んだようですね」
彼の口から漏れたのは、感情の一切を削ぎ落とした、残酷なまでの氷の声音だった。
俺の体を焼く熱とは対照的な、血を凍らせるほどの静かな怒り。
王都から放たれた刺客が、ついにこの辺境の地にまで牙を剥いたのだ。
俺は彼の胸の服地を強く握り締めながら、これから始まる血の惨劇の予感に小さく身をすくませた。




